誕生からアマチュアカメラマン時代

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※1950年3月、ルック誌の取材時に黒人ミュージシャンとセッションをするキューブリック。(クリックで拡大)

 キューブリックはハイスクール時代、ドラマーとして数々のオーケストラやダンスパーティーなどで演奏していたそうだ。その腕前はというと当時のクラスメートによると、

 「彼は、熱心に練習に来て演奏していた。スウィングやジャズ、流行の曲などを演奏している時が、一番練習に集中していた。驚くのは、練習に彼がカメラを持ってこなかったことだ。バンドに全力投球ていた。ドラムが上手だった彼はリズムをとるだけではなく、ソロもこなした」

『映画監督 スタンリー・キューブリック』より)


と証言している。キューブリックは一時期はかなり真剣にジャズ・ドラマーになる事を考えたという。しかし後にツアーばかりのミュージシャンの生活を知るに及び、こんなに大変で体力的に厳しいならならなくてよかった、という旨の発言をしている。

 キューブリックのこのドラマーとしての資質は映画製作にも活かされ、撮影時のアドリブを好み、まるで俳優とジャムセッションをするかようにアイデアの応酬を繰り広げていたようだ。その後の編集作業でもサウンドトラックと合わせたリズミカルな編集などにその影響が見て取れる。
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キューブリック生誕時、一家が住んでいたクリントンアヴェニュー2160にある当時のアパート。現在とほぼ変わらない。後ろの女性は祖母セリア。

 本日3月7日はキューブリックの命日なので、それに因み逆に生誕の話題を。

 キューブリック生誕の地は、ここニューヨーク州・ブロンクス・クリントンアヴェニュー2160です。アパートは当時のまま現存しているようです。ただ、キューブリック一家はニューヨークで引っ越しを繰り返し、キューブリック自身は一時期カリフォルニアに住んだ時期もありますので、「キューブリックがこの世に生を受けた時、一家が住んでいたアパート」という以外に意味はありません。聖地巡礼はこのストリートビューを見る限り、止めておいた方が良さそうです(治安的に)。大都会の北部にある下町である事や、近所に動物園がある点を考えれば、東京で言えば上野のような土地でしょうか。

 因にキューブリックが生まれたライイングイン病院は、現在メユール・R・シャー整形外科になっています。場所はここになります。

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ライイングイン病院(wikipedia:Society for the Lying-In Hospital

 
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タフト高校
※旧ウィリアム・ハワード・タフト高等学校(google map)

 キューブリックが青春時代を過ごしたニューヨーク・ブロンクスにあった公立高校。wikiによるとそうとうの問題校だったらしく、「失敗した学校」の烙印を押されてしまっています。出席率は常に86%程度、しかも犯罪率が非常に高かったそうです。まあ貧困地区の公立高校の典型的な例でしょうね。キューブリックが在籍していた当時はユダヤ系やイタリア系移民が多かったみたいですが、1990年代に黒人やヒスパニックが流入し、さらに治安が悪化したようです。2008年6月に閉鎖、現在はいくつかの専門学校が入居していますが、外観は当時のままですので雰囲気は楽しめますね。ただ、聖地巡礼は上記の理由から止めておいた方が良さそうですが。

 同校の出身者にはキューブリックの級友であり、キューブリックの初期作品に協力した後、自身も映画監督になるアレクサンダー・シンガー、同級生には歌手のイーディー・ゴーメがいる。キューブリック最初の妻、トーバ・メッツもこの学校の出身。
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 1938年公開のセルゲイ・エイゼンシュテイン監督のソビエト映画『アレクサンドル・ネフスキー』。高校時代、この映画で使用されたセルゲイ・プロコフィエフ作曲の『氷上の戦い(The Battle of the Ice)』という曲をいたく気に入ったキューブリックはサントラLPを購入、それから何度も、何度も、何度も、何度も聴いたものだからついに妹のバーバラが発狂、怒ってキューブリックの頭でこのLPを割ってしまったという、なんともキューブリックらしいエピソードが微笑ましい(?)この曲ですが、映画の該当シーンの動画がYouTubeに上がっていたのでご紹介。

 こんな曲を何度も聴かせられれば、バーバラじゃなくったってキレちゃいますよね。その頃キューブリック一家はアパート住まいだったのでこの音楽から逃れようがなかった筈ですし。この動画をリピート再生して当時のバーバラの気持ちを追体験してみるのもいいかも。確かに今で言う「中毒性」がありますね。
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※コダック モニター Six-20(参考サイト)。写真は当人のものではありません

 キューブリックが16歳の誕生日に父親から贈られた、生涯初めての記念すべき自分専用のカメラ。13歳の誕生日には父親が所有していたスピード・グラフィックを譲られています。キューブリックはこのカメラや35mmをぶらさげ被写体を探しては学校や街を歩き回り、学校のチアガールの撮影ではプリントの裏に「スタンリー・キューブリック撮影」とスタンプを押して被写体になった人に渡していたそうです。それにしても・・・ずいぶんとウザい奴です(笑。

 このコダック・モニター620、フィルムは620サイズで6×9cm(ロクキュウ)になりますからスピグラと比べるとコンパクトです。キューブリックは後に「あんなにカメラを安定して持てる人を他に知らない」とカメラマンからも高い評価を得ていますが、その基礎は子供の頃にスピグラを使いこなすことによって身体で憶えたのかも知れません。そして次がこのコダック、そして更にコンパクトなローライへと続くのですが、スピグラが扱えればどうってことないでしょうね。現在でも「カメラを本格的に始めるならまず一眼から」と言われますが、こういう事も関係しているんでしょう。

※現在キューブリックが初めて使用したカメラについて、スピード・グラフィックとコダック・モニター620と両方のソースがあるようです。評伝によるとグラフレックス(スピード・グラフィック)となっていますが、これは父親所有のものだった事が記されています。一方の1948年10月のカメラ誌の記事には「キューブリックは19歳の誕生日を向かえたばかりだが、丁度3年前に父親からコダック・モニター620を贈られた」とあります。両方のソースを考慮すると、上記のように13歳の誕生日に父親所有のスピード・グラフィックを譲り受け、16歳の誕生日に改めて新品のコダック・モニター620を贈られたのではないか、と判断して記事にいたしました。
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