キューブリック交友録

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 マーティン・スコセッシがキューブリック作品の魅力について語る動画がありましたのでご紹介。訳していただいた方に感謝です。

 スコセッシはキューブリックのドキュメンタリーに登場したり、インタビューなどにも応じていますが、とにかくキューブリックを褒める褒める(笑。まあ好きなんだろうなーとは思いますが、ちょっと褒めすぎでは?と思う瞬間もしばしば。まあ目の前にキューブリックの妻クリスティアーヌと、義弟のヤン・ハーランがいれば褒めるしかないですけどね。

 手元に『スタンリー・キューブリック DVDコレクターズBOX』(この記事でご紹介済み)が置かれているので、このインタビューはそのプロモーションの一環でしょう。このボックスセットはデジタルリマスターされた『ロリータ』『2001年宇宙の旅』『時計じかけのオレンジ』『バリー・リンドン』『シャイニング(コンチネンタル版)』『フルメタル・ジャケット』『アイズ ワイド シャット』の7作品と、ドキュメンタリー『ア・ライフ・イン・ピクチャーズ』(現在無料で公開中。詳細はこちら。)がセットになったものです。この頃はまだワイドテレビは普及前で、ブラウン管のスタンダードサイズが標準だった時代。このボックスセットもそれに合わせて4:3のアスペクト比で収録されています(天地が余る場合はレターボックスで収録)。解像度はレターボックス含めて720×540ピクセル。つまり35mmネガのフルサイズ収録ですので、上映時にカットされた部分まですべて見える、ということです。

 まあ、よっぽどのファンかマニアしか興味はないかもしれませんが、資料的価値は高いと思います。なぜならこれ以降のBD収録ではすべてワイドテレビに合わせて16:9にトリミングされてしまったのですから(左右が余る場合はピラーボックスで収録)。ですので、ブックオフなどの中古市場で安価に手に入るのであれば、押さえておいて損のないアイテムだと個人的には思います。

情報提供:シネマホリックさま
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kubrick_Gorme
1960年代前半頃のキューブリックとゴーメ。この頃キューブリックは『ロリータ』で、ゴーメは『恋はボサノバ』で知名度を上げた。

イーディ・ゴーメ(1928年8月16日〜2013年8月10日)

●生涯

 ニューヨーク市ブロンクス区で生まれる。父親はユダヤ系イタリア人で、母親はユダヤ系トルコ人である。生まれた時の名前は、イーディス・ゴーメザーノ(Edith Gormezano)である。高校卒業後に、国際連合の機関で通訳の仕事に従事する。

 1950年に、トミー・タッカー楽団で、デビューを果たす。そこそこ、ヒットを飛ばす。1951年に、テックス・ベネケ楽団に所属する。1957年に、歌手のスティーブ・ローレンス(Steve Lawrence)と結婚する。後に、夫のローレンスとのデュエット(Steve and Eydie)の録音やステージも、注目を集めている。1963年に、邦題『恋はボサノバ』(Blame It on the Bossa Nova)で大ヒットとなる。この曲のレコードが、全米レコード協会よりゴールドディスクと認定される。ブラジルのポップスであるボサノヴァの曲 "Recado" に英語の歌をつけた『ザ・ギフト』(The Gift) も、1963年発表のゴーメの歌のレコード録音より好評を得ていて、ジャズのスタンダードナンバーとして定着している。1980年まで、新作シングルを発表していた。YouTube で、よく登場している。1964年より、トリオ・ロス・パンチョスとの共演などで、『ある恋の物語』や『キエン・セラ』などのスペイン語の歌のパフォーマンスおよびレコード録音も、積極的に展開する。ゴーメは、スペイン語が流暢であった。

 1995年、ソングライターズ・ホール・オブ・フェイム(Songwriters Hall of Fame) に、夫のスティーブ・ローレンスと共に、殿堂入りを果たす。

 2013年8月10日、病気のためラスベガスの病院で死去。84歳没。

●受賞

1961年/グラミー賞 Best Performance by a Vocal Group(夫スティーブと)「We Got Us」
1967年/グラミー賞 Best Vocal Performance, Female「If He Walked Into My Life」
1988年/第2回日本ゴールドディスク大賞THE Best Album of the year(ジャズ・フュージョン部門)「ギフト」
1995年/エラ・アワード(夫スティーブと)

(引用元:wikipedia/イーディ・ゴーメ




 キューブリックがニューヨーク・ブロンクスのウィリアム・ハワード・タフト高校在籍時、同級生に「イーディ・ゴーメ」という歌手がいた、というのは知っていたのですが、世代が全く違うためによく存じ上げておりませんでした。そんな折、実はキューブリックは高校時代、このゴーメのバックでドラムを叩いていたことがあったということを知り、俄然興味が湧いて調べてみたのです。すると、アメリカではグラミー賞を受賞するなど、実力・人気共に当時の大スターであったことを知ってちょっと驚いています。では、日本ではどうだったのかというと、やはりアメリカン・ポップス好きには名の知れた存在だったようで、代表曲『恋はボサノヴァ(Blame It The Bossa Nova)』は日本でもヒットしたんだそう。



 この曲、個人的には聴いたことあるような、ないような・・・といった感じだったのですが、タバコのセブンスターEXのCMにも使われた『ギフト』も有名とのことで、そのCMの動画を探したところ・・・あるんですね(笑。さすがYouTube。



 これを観て、「ああ、この曲かあ!」と納得した次第です。

 それにしても世界に名を馳せた映画監督と歌手が同級生だったなんて、ものすごい話なんですが、双方とも相手のことについて何かコメントしている、という資料は見つかりませんでした。日本だったらどこぞのTV局が飛びつきそうなおいしい話なんですけどね。ゴーメはタフト高校の「最も美しく、最も元気なチアリーダー」に選ばれ、学校のほとんどのミュージカルに出演、週末には友人のケン・グリーングラス・バンドで歌手をしていたそうです。キューブリックはおそらく学校のバンド(スクールバンド)でゴーメと共演したんでしょう。評伝『映画監督スタンリー・キューブリック』には、キューブリックが写したチア・リーダー姿のゴーメを含む集合写真が掲載されていますが、満面の笑みで写るゴーメは今でいうまさに「リア充」。社交性ゼロのカメラヲタ、キューブリックにはゴーメはさぞかし眩しく見えていた・・・のかも知れません(笑。

 このお二方、有名になった後お互いのことをどう思っていたのか、とても興味あります。もし、資料が発掘できればまたその時に記事にしたいと思います。
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8217400
Joseph Burstyn(IMDb)
Joseph Burstyn(wikipedia)

 アメリカの小規模映画配給会社、ジョゼフ・バースティン社社長。キューブリックの劇映画処女作『恐怖と欲望』の配給を手がけた。

 このジョゼフ・バースティン社はヨーロッパの良質な映画を輸入・配給していて、イタリアン・ネオリアリズムをアメリカに紹介したことで知られている。『恐怖…』と同時上映された『海を見た少年(The Male Brute)』もフランスの名匠、ジャン・ドラノワ監督の作品だった。

 バースティンは1950年、1948年に制作されたイタリアの映画監督、ロベルト・ロッセリーニによる『人間の声』『奇跡』からなるオムニバス映画『アモーレ』を『ウェイ・オブ・ラヴ』と改題し、米国で配給した。12月には『ウェイ・オブ・ラヴ』がニューヨーク映画批評家協会によって本年のベスト・外国語映画に選ばれた。

 アメリカでの公開後、ニューヨーク州理事会は「放浪者(フェデリコ・フェリーニ)を聖人だと信じた女が妊娠し、村人のそしりを受けつつも女は一人で教会で子供を産む」という内容の『奇跡』について「神への冒涜」だとした抗議を受け、理事会は聴聞会に調査する様よう命じた。聴聞会はこの作品が「神への冒涜」と判断、1951年2月16日に教育委員は映画の配給のライセンスを取り消すように命じた。

 それに対し、この判断を不服としたバースティンは訴訟を起こし、「ジョゼフ・バースティン社対ウィルソン裁判」として有名になる。アメリカ最高裁判所は、ニューヨーク州教育法の特定の条項が映画の上映を禁止したり、「神への冒涜」としてライセンスを停止することを認めていることは、言論の自由に対する拘束となると判断した。

 1921年にアメリカに渡ったポーランド移民。1953年11月、大西洋横断飛行中に機内で冠動脈血栓症を発症し、死去。生年月日不詳。
 
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Thomas_Schelling
Thomas Schelling(IMDb)
トーマス・シェリング(wikipedia)

 アメリカの経済・政治学者。専門はゲームの理論。『博士の異常な愛情』のコンサルティングを担当した。

 キューブリックはシェリングの書いたピーター・ジョージの小説『赤い警報(破滅への二時間)』の紹介記事を読んで興味を持ち、映画化権を獲得したが、小説には大きな問題があった。原作小説が書かれた1958年頃は爆撃機が核攻撃の主な手段だったが、1960年代までには大陸間弾道ミサイルがそれに取って代わっていたからだ。 そのため、爆撃機を使ったもっともらしいシナリオを考え出すためにシェリング、キューブリック、ピーター・ジョージ、核の理論家ウィリアム・カウフマンらと協議することになった。「私達は核戦争の始め方をどうするか苦労した」「私達は(戦略)空軍で狂った誰かがいない限り、最終的には核戦争が起こるはずがないと考えた」。そうやってキューブリックとピーター・ジョージは小説を「ナイトメア・コメディ」に改変することを決めたそうだ。

 また、映画に登場した「皆殺し装置」はシェリングのアイデアで、それは自身が最も興味を持っていたテーマ(戦略的コミットメント、誤ったコミュニケーション、意図せぬ結果)でもあった。

 1921年4月14日カリフォルニア州オークランド出身、2016年12月13日死去、享年93歳。
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20081112054454

 言わずと知れた日本を代表する漫画界の巨匠。すでに伝説の域にまで達している偉人。詳細はここで語ってもしょうがないんでwikiをどうぞ。

 その才能と唯我独尊ぶりから周りから疎んぜられ、まさにキューブリックの如く「才能あるクソッタレ」でもあった手塚治虫ですが、そのキューブリックが『2001年…』の美術監督をオファーしたという逸話は有名で、それ以降手塚はキューブリックに影響された(というか志向・嗜好が似通っている)作品を数多く残しています。以下はそれをまとめたり考察した記事です。

【交友録】手塚治虫とキューブリックからの手紙

【インスパイア】手塚治虫の『時計仕掛けのりんご』

【考察・検証】手塚治虫、スタンリー・キューブリックをかく語りき

【考察・検証】キューブリックが『2001年宇宙の旅』の美術監督を手塚治虫にオファーしたのは本当か?を検証する

 因みに管理人が読んだ中でいちばん好きな手塚作品は『アドルフに告ぐ』です。もしこれをキューブリックが読んでいたら、『アーリアン…』になんらかの影響を及ぼしたかもしれませんね。
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