キューブリック作品を考察・検証する

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رابرت_کاپا
ジョーカーが撃たれた瞬間のイメージ写真(ロバート・キャパ『崩れ落ちる兵士』)

ジョーカー、8歳。プラスチックのライフルを携えて野原を走っている。

「動け、動け、動くんだ!!!」

みんながあなたに何をすべきか指示する。動け、動け、動き続けろ。動きを止めれば、ためらえば、心臓は止まる。足はおもちゃのように巻き上げる機械だ。

ジョーカー、海兵隊員。走りながらライフルを撃つ。

ジョーカー、8歳。おもちゃのライフルを撃つ。

世界中を走り回れるような気分だ。今、アスファルトはトランポリン、素早く優雅に、緑のジャングルの猫のように。

ジョーカー、海兵隊員、走る。

ジョーカー、8歳、走る。

足が瓦礫の上を上へ上へと連れて行く...上へ...上へ...あなたはそれを楽しんでいる...あなたは人間ではなく、動物であり、神のように感じている...あなたは叫ぶ「死ね!死ね!死ね、このクソ野郎ども!死ね!死ね!死ね!」

海兵隊員のジョーカーは、自動小銃の連射で撃たれる。

8歳のジョーカーは、苦痛を伴い胸を押さえ地面に倒れ始める。彼の映像はキャパの有名なスペイン内戦の写真のようなポーズで、静止したフレームが捉えるまでスローダウンする。その写真には、致命傷を負った男がカメラによって落下中に永遠にぶら下がっている。

しかし、この写真は8歳の少年のものだ。

墓地。ジョーカーの葬儀。明るい晴れた日。ジョーカーの母親と父親は青白くやつれた顔で、天蓋の下に集まり、国旗で覆われた棺と対面し、親戚や友人たちに囲まれている。ジョーカーの父親は気難しそうに話す。

「息子は…熱烈に…作家になりたいと望み…ベトナムにいる間、このノートを持っていました…遺体で発見されました。これから…そのノートから数行読みます…息子が持っていた…計り知れない…才能…を示すものです…その才能は…今では…永遠に失われてしまいました」

目に涙を浮かべながら、ジョーカーの父親は汚れて使い古されたノートの特定のページを探し回った。彼はそれを見つけると、たどたどしく声に出して読み始めた。

「私はよく…10歳の頃のことを思い出します…。私は…太陽が昇る前…そして本当に目が覚める前に…ベッドに横になって…これからの長くてエキサイティングな一日を考えるのが好きでした。 空はピンク色に染まり始め、外の静寂は木々のざわめきと鳥の鳴き声に変わりました。私は誰も起こさないように階下に降り、裏庭に出ました。空気は芳香を放ち、冷たく、私は太陽が山の後ろからゆっくりと昇るのを眺め、スズメが露に濡れた草をついばんでいるのを目にしたのです」

「私は幸せを...抑えることができませんでした」ジョーカーの父親はかろうじて話を続ける。「あの庭と町の外の世界について、私は何と知らなかったことか」

ジョーカーの父親は涙でいっぱいになる。妻が彼を抱きしめる。彼は落ち着きを取り戻し、話を続けた。

「そして今、私はA. E. ハウスマンの詩を読みたい。妻と私が彼の墓碑銘として選んだものです」

「我々がここに死んで横たわっているのは...生きることを選ばず...我々の生まれた土地に恥をかかせることを選ばなかったからだ...確かに...命は...失うが大したことではない...だが若者はそう考える...そして我々は若かった...」

涙を流しながら、父親はゆっくりとノートを閉じる。ノートの表紙にジョーカーのピースバッジがピンで留められているのが見える。


引用:Full Metal Jacket / A Screenplay by Stanley Kubrick & Michael Herr



 キューブリックは『フルメタル・ジャケット』のラストシーンについて、脚本段階では上記のようにジョーカーは戦死し、故郷での葬儀のシーンで終わることにしていました。ですが脚本を撮影の叩き台と考え、撮影時にシナリオを発展させることを好むキューブリックはこの結末を決定稿とはせず、判断に迷いもあったのか、エイトボールを演じたドリアン・ヘアウッドによると出演俳優を集めて「この映画の結末はどうしたらいいと思う?」と訊いたそうです。中でも激しい議論となったのがマシュー・モディーンで、モディーンはジョーカーは生き延びるべきだと強く主張し、最終的には原作小説に近い形で(原作でもジョーカーは生き残る。ただし市街戦の後にジャングルでの戦闘に参加している)のラストシーンに落ち着きました。

 上記の脚本を読んで思うのは、世の中の事象を冷徹な視点で描くキューブリックにしては珍しく「ウェット」だな、ということです。『突撃』のラストシーンもウェットでしたが、それよりもウェット感は強く、まるでスピルバーグの『プライベート・ライアン』のようで、正直言ってキューブリックらしくありません。ではどうしてこの脚本でいったんOKを出したのか?それは想像するしかありませんが、キューブリックはベトナム戦争に駆り出されていたのが10代〜20代前半の若者たちだった事実に興味を示していて(だからラストシーンで子供の歌である『ミッキーマウス・クラブ・マーチ』を歌わせた)、この脚本でも少年時代のジョーカーの姿を戦闘シーンにダブらせていることから、「ベトナム戦争=若者(子供)の戦争」というテーマがあったことは容易に想像できます。ラストに流れるストーンズの『黒くぬれ!』の採用もその発想からでしょう。

 原作小説『ショート・タイマーズ』を読めば、ベトナムに派遣された兵士の一番の関心事は「戦争に勝つこと」ではなく「生き延びて祖国に帰ること」であったことがわかります。映画の撮影の順番は戦場シーン→訓練シーンだったので、ラストシーンが脚本から大幅に変更され、ジョーカーが生き残ると決まったことはその後の撮影に影響を及ぼしたであろうことは想像に難くありません。パイルの自殺とジョーカーの死をそれぞれ前半、後半のラストで描くことによって、ある種の「効果」を狙った可能性もありますが、原作小説のテーマを考えると葬儀シーンは違和感があります。やはり現状のラストは正解だったと強く思いますね。
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SK1

 1999年3月7日、スタンリー・キューブリック監督は突然スターチャイルドになってしまいました。その時の衝撃は今でも忘れることはできません。以下のメッセージはその突然の訃報に接し、急遽設けた追悼用の掲示板(BBS)に書き込まれたファンのメッセージです。これらは全てをプリントアウトし、ワーナーブラザーズに郵送させていただきました。ワーナーからは「遺族に伝えたいと思います」という内容の丁寧なお礼のメールが届いたことを、当時のホームページ上でご報告させていただいた記憶があります。

 それから24年が過ぎた現在、キューブリックをリアルタイムで知る方達が鬼籍に入りつつあります。それと入れ替わるようにキューブリックをリアルタイムで知らない世代(存命時には生まれていたが、存在を知ったのが逝去後)が「リアルタイム世代が知っているキューブリック像とは異なるイメージ」を語るようになってきました。もちろん現在キューブリックは存命していないので、存命当時の「生きているキューブリック像」を彼らは語りようがないのですが、それもこれも「悪しきキューブリック伝説(デマ)」が、(アクセス集めを目的に)あまりにもネットに流布され続けたためだと危惧しております。

 この「当時のファンの追悼メッセージを公表する」という試みは、そんな「悪しきキューブリック伝説」を少しでも訂正したいという意図があります。もちろんお名前は伏せ字にさせていただいておりますが、メッセージの内容の著作権は書き込まれた方ご本人にあります。もし「メッセージを公表しないでほしい」という方がいらっしゃいましたらご一報(連絡先はこちら)ください。削除対応させていただきますので。

 なお、管理人のログ管理がズボラであったため、全メッセージを保存できていなかったことをお詫びいたします。本当はこの2〜3倍くらいあったのですが・・・。申し訳ございません。

Stanley Kubrick Forever

3月7日に亡くなった、スタンリー・キューブリックについてご記帳ください。
(※掲示板の設置日:1999年3月9日)

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(無題) 投稿者:k***** 投稿日:03月09日(火)19時44分39秒

ショックです。
監督が創造する近未来がとても好きでした。
いつみても新鮮で新しい発見がある映像作品に感謝。
御冥福をお祈りします。

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(無題) 投稿者:s*****  投稿日:03月09日(火)18時48分30秒

あの完全な映像美をもう見れないと思うとザンネンです。
ご冥福をお祈りします。

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追悼 投稿者:y*****  投稿日:03月09日(火)17時50分19秒

ぼくにとってヒーローでした
R.I.P

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(無題) 投稿者:m*****  投稿日:03月09日(火)17時45分15秒

 世界の宝を又一人なくしてしまいました。
いまは多分、スターチャイルドになっているでしょう。

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サヨナラ 投稿者:k*****  投稿日:03月09日(火)17時36分23秒

とても寂しいですね。2001年宇宙の旅は大好きでした。
監督の若き頃の眼光がいかにも天才、鬼才という感じで印象に残っています
さようなら  そしてありがとう

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(無題) 投稿者:Y*****  投稿日:03月09日(火)16時17分43秒

訃報を耳にしホントに信じられなかった。信じたくなかった。
昨日の夜一人で仕事してると、頭の中で『美しき青きドナウ』が..........

キューブリック監督ありがとう!ご冥福をお祈り致します。
それと『EYES WIDE SHUT』楽しみにしています!

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(無題) 投稿者:k*****  投稿日:03月09日(火)15時20分28秒

私が映画に、はまっていったきっかけとなった監督でした。S・Kubrick監督は。
学生時代はまだ数年前のことですが、毎日のように繰り返しエンドレスで見続けていたものでした。
あれだけ多種に渡る分野に影響を与えうる映画を撮ることができたのはKubrick監督だけではないでしょうか。
ぜひリアルタイムに映画館で観ていたかった…と何度自分の年齢を恨んだことか。
ひさしぶりの新作が遺作となってしまったのは残念ですが、今までの作品達も含めて何度でも観続けていこうと思います。
いつか、Kubrick監督のような作品を創りたいです。
いまの自分ではこんなことを言うのもおこがましいですが、いつまでも私の目標です。
 ご冥福をお祈りいたします。

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Kubrick Forever 投稿者:H***** 投稿日:03月09日(火)14時55分37秒

私が映画をむさぼる様に観ていた学生時代、観終った後、感動のあまり席を立てなかった唯一の作品、それが「2001年宇宙の旅」でした。あれから何年経ったのでしょうか、キューブリック監督は、「2001年」を見ることなく旅立ってしまいました。
映画監督が映画作家でいられた時代のキューブリック氏、安らかにお休み下さい。
ご冥福をお祈り致します。

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(無題) 投稿者:A*****  投稿日:03月09日(火)08時48分28秒

本当になくなったのでしょうか?Mさんのところで『訃報』を目にした時は
一瞬息が止まりました。TVを全然観ないので・・・今朝の朝刊に載っているのを読んで
まだ70才で、逝かれたと判り残念でなりません。 初めてキューブリック監督の名前を知ったのは
小学校にはいりたての頃、『時計じかけ』のポスターを映画雑誌でみた時でした。忘れもしません。
『シャイニング』もホラーって云うよりもっと、何度観てもコワくなんど観ても、美しい
ホントに目をそらす事の出来ない映像..天国の風景をカメラで切り取って、みせて下さい!!
 御冥福をおいのりしています。

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もう一人の先生だった 投稿者:ケ*****  投稿日:03月10日(水)10時24分24秒

大学でデザインを学んでいた時、「時計じかけのオレンジ」を観た。
それまで、モダンデザインを信奉していた私の脳髄をハンマーでたたき起こした
のがキューブリックと横尾忠則だった。
キューブリック先生、あの世でまた逢おう。

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すばらしい体験をありがとう 投稿者:若*****  投稿日:03月10日(水)09時50分39秒

僕にとって,すべての作品が映画を越えたすばらしい体験となって心に残っています。何回見直しても又見てしまう麻薬のような作品ばかりでした。
これからも繰り返し見続けると思います。おつかれさまでした。そしてすばらしい映画を本当にありがとうございました。
P.S. クーブリック版「ナポレオン」は夢のなかで思い描きます

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(無題) 投稿者:S*****  投稿日:03月10日(水)09時37分00秒

とても悲しいです。
「時計仕掛けのオレンジ」、「2001年・・」など、全ての面においてすばらしい作品だった。
残念・・・・・

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本当にありがとうございました 投稿者:ひ*****  投稿日:03月10日(水)02時50分13秒

本当に悲しい限りです。生まれて始めて、惜しい人を無くした、と思いました。
あんな映画を作れる人はもう、二度と出てこないでしょう。全てに置いて完璧でした。
彼の作品がなかったら、今の映画界はまた違ったものであったと思います。
それくらいすごい影響力を持った作品を作れる人でした。
映画界にぽっかりと大きな穴があいてしまったようで、なんだか淋しいです。
個人的には「博士の異常な愛情」が一番好きでした。

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2001 投稿者:松*****  投稿日:03月10日(水)02時25分00秒

2001 というふうに語られるのは不本意かもしれませんが
2001年を前に逝ってしまってすごく残念です
20世紀が あなたも連れていきたかったんでしょうか?

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映画館で 投稿者:d*****  投稿日:03月10日(水)01時17分11秒

「博士の異常な愛情」等、音楽もどれも素敵でした。
最新作は必ず映画館で観たいと思います。

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We'll Meet Again 投稿者:ま*****  投稿日:03月09日(火)22時40分32秒

また会いましょう。

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we'll meet again 投稿者:g*****  投稿日:03月09日(火)22時24分36秒

まさに2000年を迎えようとしている、
あなたの作品にこれほどまでに
現代性を感じられる今、
あなたを失い、
作品がクラシックとなってしまうことが
哀しい。
さようなら、
そして、
ありがとう、キューブリック。
あなたの作品を、
愛する人と
見つづけます。

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輝きつづける☆ 投稿者:J*****  投稿日:03月09日(火)22時15分44秒

Mr.キューブリック
貴方の作品はこれからも多くの人々がみつづけるでしょう。
なんども、なんども........
輝きつづける☆
「また会いましょう」We'll Meet Again

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「神様」 さようなら 投稿者:M*****  投稿日:03月09日(火)20時23分24秒

「2001年・・・」ラスト約25分間のあの衝撃は大袈裟でなく私の人生においての衝撃でもありました。
映像がこれほどの感動を呼び、芸術がこれほどの力をもつのかと・・・
映像の詩人、映像の哲学者、スタンリー・キューブリック。もうこの作家を超える映像作家は出てきません。
そして「2001年宇宙の旅」これを超える作品も誰の手によっても創られることはないでしょう。
スタンリー・キューブリックと同時代に生き、伝説を共有できたことを幸せに思います。
20世紀の伝説とともに生きていたのですね、我々は・・・

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ひたすら、残念です 投稿者:大*****  投稿日:03月11日(木)01時51分22秒

その鮮烈な映像表現と、毎回新しいテーマに取り組む創作意欲とバイタリティーに大変魅了されていました。残念、と言うより他に言葉がありません。

新作「Eyes wide shut」を楽しみにしています。

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「AI」が見たかったです 投稿者:伊*****  投稿日:03月11日(木)00時40分21秒

SF者にとって、映画ファンにとって、彼ほど「クールな」巨匠はいませんでした。
あれほどエレガントなカメラワークで、あれほど冷静に、あくまで物語というフォーマットを用いて、
世界を観察する作家は、彼の他にいませんでした。

喪失というものはこういうものなのです。彼が作品を作ることは、もう2度とない。
あり得たかもしれない不在の作品に思いを馳せるなんて、辛すぎるとは思いませんか。
でも、ファンというものは、そういうもの。
ある特定の個人が生み出す、ある特定の虚構というものを、
恋人と同じく愛するようになった呪われた身、すなわち映画ファンが引き受けねばならない、
快楽の代償なのでしょう。

  ある映画の永続的で究極的な最も重要な評判は時評(レビュー)によるものではない。
  もし何かによるとすれば、それは人々が何年もその映画について語ることと、
  彼らがその映画に大してどれだけ多くの愛情を寄せるか、による。
                             スタンリー・キューブリック

だから、彼は死にません。我々が彼の映画を見る限り、彼の映画を語る限り、模倣子(ミーム)は受け継がれ、
彼の生きた証は、永遠に残るのですから。

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心からのご冥福を 投稿者:i*****  投稿日:03月11日(木)00時23分01秒

スタンリ−キューブリックさま。あなたの映画、特に2001年宇宙の旅をみて映画の素晴らしさを
知りました。爾来すべてのあなたの映画を見、記事を読みますますその偉大さを痛感している矢先に
あなたは逝ってしまったのですね。本当に本当に残念でなりません。
もうあなたのような人は現れないでしょう。またあなたのように完全主義を通すことも
ままらなら無い状況ですが、どうか天国でたっぷりとある時間を監督業に費やされることを
お祈り申し上げます。もっとも天国にカメラがあるかは「神のみぞ知る」ですが。
ほんとうにありがとうございました。

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これから寂しくなりますねぇ 投稿者:C*****  投稿日:03月11日(木)00時11分15秒

2001年には劇場で、『2001年宇宙の旅』を見られると期待していました。
その時までキューブリック監督にいて欲しかったです。
情報はほとんど流れてきませんが、イギリスのYahoo!ニュースを見ていたら、だんだん胸が痛くなりました。
これから、もっと寂しくなるでしょう。
ご冥福を心からお祈り致します。
このような追悼掲示板を設置していただき感謝致します。
え*****でした。

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ショックです 投稿者:p*****  投稿日:03月11日(木)00時00分53秒

今年はEWSも公開されて、キューブリックイヤーになるはずだと思っていた矢先にこんなことになるなんて。
フルメタルジャケットで、ライフルを自分の口にくわえて発砲するシーン、得に衝撃的でした。
初期の作品もほとんどビデオ化され、あとはバリーリンドンの再発と全ての作品のDVD化をお願いしたいです。    ご冥福をお祈りいたします。

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Kubrick 投稿者:K*****  投稿日:03月10日(水)23時38分47秒

...。

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残念です 投稿者:ち*****  投稿日:03月10日(水)18時17分52秒

「時計じかけのオレンジ」は大好きな作品です。
この作品は音楽&映像ともに素晴らしく、20年以上経った
今観ても色褪せることはありません。
本当に惜しい人を亡くしました。

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さようなら 投稿者:H*****  投稿日:03月10日(水)17時54分08秒

部屋に飾った"2001"のポスターがすごくさみしげです  合掌

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宇宙を旅しているのだろうか? 投稿者:宇*****  投稿日:03月10日(水)17時44分25秒

1970年代後半、まだビデオなどなかった学生時代、2番館でやっと見ることができた2001年に惚れて、これこそ映画の中の映画だと思っていました。2001年を見て宇宙旅行を夢見、遊園地の無重力遊具で気分が悪くなるまで、青い地球を見ることを夢見ていました。
70歳にもなっていたなんて知らなかった。コンテンポラリーだと思っていた。
今、魂は宇宙に旅立ち、青い地球を見下ろしているのでしょうか?

駄文とキューブリック監督作品のビデオ(英語版)、サントラCD、原作、伝記、評論(洋書)などを集めた追悼ページを開きました。よろしければお立ち寄りください。

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非常に残念です。 投稿者:ケ*****  投稿日:03月10日(水)17時31分36秒

僕が観た初めてのクーブリック作品は「フルメタル・ジャケット」でした。
はっきりいってショックだった。僕が観てきたどんな戦争映画よりも真に迫っていた。
戦争を体験しているわけではないけれど、この映画を観たときそう感じました。
それ以来ぼくは、クーブリック作品の虜になりました。
スタンリー・クーブリック先生本当にありがとう。
そして、心よりご冥福をお祈り致します。

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無題 投稿者:藤*****  投稿日:03月16日(火)00時18分07秒

タルコフスキーと共に,一番好きな監督でした。
もう二人とも故人になってしまった。二人を超えるような監督が現れてくれることを祈るし
かないですね。何度見ても,毎回感動させてくれる作品をつくれる監督に,また出会いたい。
2001年のおかげで,人生が楽しくなりました。本当にありがとう。

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(無題) 投稿者:T*****  投稿日:03月14日(日)19時41分31秒

70才にして、多くの人にまだまだ、これからすることが期待されていて
その死を惜しまれるということは、なんにしてもすごい方だったのだな
と思います。

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と***** 投稿者:と*****  投稿日:03月14日(日)10時57分06秒

「時計仕掛けのオレンジ」でマルコム君が「雨に唄えば」を唄いながら老人を虐待しつつ
女性を暴行するシーン。監督は「なんでもいいから適当に歌ってくれ」と注文したらしいですね。
完璧主義なあなたらしくないエピソードだと最初は思いましたが、後からそれが完璧な演出だった
のだということに気付きました。
もう少し生きていて欲しかったと思いますが、それはエゴというものなんでしょうね。
どうか安らかに眠ってください。

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(無題) 投稿者:カ*****  投稿日:03月14日(日)00時36分16秒

僕がキューブリックの作品を見たのは、小学校の時。
それ以来キューブリックの映画を何度も何度も見ました。
特に感じるのは、画面のバランスが最高なこと。一つ一つの
画面がそれだけで一つの作品となっており、そして独創的で
何回見ても、新しい発見があります。
もっともっと見たかったのに、残念でなりません。
キューブリックの映画が好きな人は、みんな独創的で
個性的な人が多いです。既存の概念にとらわれず、
思ったことを完璧に仕上げていく、その精神を僕は
彼の作品から学びました。僕にとって単なる映画
監督ではありませんでした。

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お会いできる日を楽しみにしてます。 投稿者:M*****  投稿日:03月13日(土)23時59分09秒

御冥福をお祈りいたします。

キューブリック氏が死んで、彼が神様ではなく人間だったんだと当たり前の事実にショックを受けてしまいました。
あれだけの作品を創作したのが、我々と同じ人間だったんだと。
死んでも惜しくない人間がいくらでもいるのになんでよりによって…

言いたいことがたくさんあるのに、言葉にならない。

もったいなくて、人には話せなくて、泣きたくなるほどの憧れをかき立てられた作品をありがとうございます。
『AI』が観たかった。悔やんでも悔やみきれないほど口惜しい。
くやしいです。

一度もその肉声も動いている姿も眼にすることはかないませんでしたが、
いつか、別の場所でお会いできることを楽しみにしています。

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合掌 投稿者:泉*****  投稿日:03月13日(土)23時28分07秒

「2001年宇宙の旅」を見たときに魂が震えました。私の生涯で最高の映画です。

スタンリーキューブリック氏は今ごろ『スペースチャイルド』になられたのでしょうか?

合掌

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なんと多い! 投稿者:A*****  投稿日:03月13日(土)21時21分45秒

 亡くなられて、改めて偉大さがわかります。
何百本と映画をみてきました。そのなかには忘れてしまうような作品も多くなってしまいましたが
キューブリックの作品の忘れられないこと。
「2001年‥」「シャイニング」「フルメタル‥」「博士の異常な‥」これだけのキャリア
でこれだけ忘れられない作品を世に出してくれたことに謹んで哀悼します。

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キユーブリック監督記念シアターの建設を望む。 投稿者:F*****  投稿日:03月13日(土)15時54分45秒

キユーブリック監督のご逝去にあたり心よりご冥福をお祈り致します。
監督の作品に出会い本当の意味で映画とは映像と音楽が一体となった総合体験芸術であるとの
認識を深めました。これまでの監督のご活躍に敬意を表するとともに、監督の作品を上映するに
相応しい最新の設備環境を持った大型映像専用シアターの実現を望みます。
又、吾々は監督の作品の意志を汲み、人間性を失うことのない未来世界の実現に努力したいと思います。安らかにお眠りください。

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天才の死● 大変動揺しました 投稿者:超*****  投稿日:03月13日(土)05時30分28秒

小学生の時から娯楽SFも大好きでTVでやる映画はSFしか興味が無かった私が
「2001年」以来、他のSFにリアリティを感じられなくなったりしました。
SFという言葉は私の中で死んだのかもしれません。

10代の頃あの映画を観て以来、時空を超える変成意識が私を襲ったような
そんな思いにもとらわれます。

あの映画は観るというよりある意味、内的体験に近いものだったような気がします。
衝撃でした。アポロの月着陸より凄いインパクトが襲いました。
ああ
天国なのかまだ月のあたりなのかそれとも木星軌道のディスカパリー号のHALとチェス
をしているのか.....キューブリック監督また地球に還る日までさようなら。
みんなの声が聞こえますか。。。。ありがとう。グッバイ。;;

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(無題) 投稿者:ナ*****  投稿日:03月13日(土)05時05分38秒

私のなかに、大きな影響を与えたキューブリック監督。
現在、キューブリック監督の作品にちなんだバーを作ろうと
準備中の矢先でした。
きっといい店づくりをしたいと思います。
新作、楽しみにしております。
御冥福をお祈り致します。
【ご注意】当ブログの記事は報告不要でご自由にご活用頂けますが、引用元の明記、もしくは該当記事へのリンク(URL表記でも可)を貼ることを条件にさせていただいております。それが不可の場合はメールや掲示板にてご一報ください。なお、アクセス稼ぎだけが目的のキュレーションサイトやまとめサイトの作成、デマや陰謀論をSNSで拡散する等を意図する方の当ブログの閲覧、ならびに利用は禁止させていただきます。※当ブログはネタバレありです。

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『2001年宇宙の旅』の舞台裏を知りたいのなら必読のマイケル・ベンソン著『2001:キューブリック、クラーク』とアーサー・C・クラーク著『失われた宇宙の旅2001』。

 1964年12月末、キューブリックは『2001年宇宙の旅』の美術監督への依頼の手紙を手塚治虫に送ります。しかし、当時『鉄腕アトム』で多忙だった手塚は当初は乗り気だったものの周囲の猛反対でこれを断念し、その旨キューブリックに手紙を書きます。翌1965年1月初旬、キューブリックから「残念だ」という旨の返信が届き、二人の手紙のやり取りは終わります(詳細はこちら)。この話は手塚が証拠の手紙を見せることができなかったこと、手塚が1964年を1963年と間違えて覚えていたことなどから「手塚のホラ話」として当時は全く信じられていませんでした。それに加えて手塚の描く「子供っぽい未来感」と、完成した『2001年…』に於けるディテールまでこだわり抜いたリアルな世界観とのギャップがあまりにも大きかったことも影響したのではないかと思います。現在ではこの話は「事実」と確定していますが、では、キューブリックは手塚(『鉄腕アトム』)のどこが気に入って美術監督のオファーをしたのかを、事実を列挙しつつ考察してみたいと思います。

(1)ストーリーからの考察

 1965年2月、後に『2001年宇宙の旅』となるSF作品は『星々の彼方への旅(Journey Beyond the Stars)』として記者発表されます。ここでMGMに渡されていた脚本はクラークが1964年のクリスマスにキューブリックに「結末は未定だがそれ以外は完成した」として渡したものであると思われます。つまり、手塚治虫にオファーした段階は脚本の初稿が出来上がった段階と言えるでしょう。その初稿の詳細については不明ですが、初期段階の脚本(小説)の一端はアーサー・C・クラーク著の『失われた宇宙の旅2001』に掲載されています。以下はその一部の抜粋です。フロイド議員(博士ではない)がロボット開発担当のブルーノ博士とロボット「ソクラテス」(後のHAL)の研究室を訪問し、ロボットの説明と人工睡眠のテストの視察を行うシーンです。

 ドアが開いた。ソクラテスはかるがると優雅に歩き、議員団と対面した。
「おはようございます、フロイド上院議員。適応マシン研究所一般ロボット工学部門へようこそいらっしゃいました。わたしはソクラテスといいます。どうぞ最新の成果をごらんください」
上院議員とその同行者たちは目を見張っている。写真ではいくらもソクラテスとその先行モデルを見ているが、じっさいに動き、しゃべるスチールと透明プラスチックの優雅さはじかに出会ってみないことにはわからない。外見はおおよそ人間の背丈や体つきに模してあるものの、異様に人間っぽいというわけではなく、ホラー映画の金属モンスターにあるような剽軽さや不愉快さはない。 ソクラテスの持ちまえのメカニックな美は、独自の物差しで計らなければいけないものだ。
 脚部は大きな円いパッドの上にのり、すべりのよいショックアブソーバー、自在継ぎ手、引っ張りバネの精巧な集合体が、軽い金属のフレームワークに支えられている。一歩踏みだすごとにうっとりするようなリズムで屈伸するさまは、まるでそれ自体に命がそなわっているようだ。
 ヒップから上では−多少の擬人的用語はどうしても避けられない−ソクラテスの体は平凡な筒形で、あちこちに見える検査ふたの下には電子機器が隠れている。両腕は、脚をもっと細くデリケートにしたものだと思えばいい。右の手首から先は単純な三本指となり、ぐるぐると回転する。左手のほうは万能工具で、いろいろと取り揃えた便利な器具のなかには、コルク抜き兼缶切りも含まれる。どうやらソクラテスはあらゆる非常事態に対処できるようだ。
 首から上は顔ではなく、種々のセンサーの集合から成るむきだしのフレームワークである。一台のTVカメラで360度の視野が得られるが、これは四つの広角レンズがそれぞれ四つの方位を向いているからである。人間とちがい、ソクラテスには自由に動く首は必要ない。彼はぐるりをいっぺんに見ることができるのだ。
「わたしはあらゆる宇宙活動用に設計されておりまして」 ソクラテスは説明し、独特のスタイルで身を揺すりながら医療区画のほうへ歩いていく。 「独立した行動もとれるし、本部からでもコントロールがききます。 通常の障害物にぶつかったときや、かんたんな非常事態の判定くらいは、内蔵された知性で楽に処理できます。いまわたしはモルフェウス計画の管理をまかされています」

〈中略〉

「さて、ここがそうです。どうなりとご判断を」
 ロボットに案内されて、すでに一行は広い殺風景な部屋のなかにいた。まん中には宇宙カプセルの実物大模型がいすわっている。長さ六メートル、直径三メートルの円筒形で、 片側にはエアロックがあり、周囲にはポンプや電子機器、記録装置、 TVモニターなどが並んでいた。窓はひとつもないが、内部の全景はずらりと並んだモニター画面で見ること ができる。そのうちの二つには、少々おだやかならぬ像が映っていた―意識のない男二人のクローズアップだ。目は閉じられており、剃りあげた頭に金属のキャップをかぶり、 体には電極やピックアップ装置を付け、二人とも呼吸しているようには見えない。
「眠り姫ならぬ眠り公子ですよ」とブルーノはウィルキンズ下院議員にいった(しかし、 いいながらも戸惑いをおぼえる。どうしてここへ来ると、いつも声を低くしてしまうのか? かりにあの二人が目を覚ましていても、声がとどくはずはないのに)。「左がホワイトヘッド、右がカミンスキーです」

(引用:『失われた宇宙の旅2001』P136〜139抜粋)


 読んでいただけたらわかるように、なんとも微笑ましい子供向けマンガのような未来図です。登場する「ソクラテス」なるロボットは『禁断の惑星』のロビーを彷彿とさせます。そしてそれは手塚治虫が描く未来図とも共通することに気がつくでしょう。これなら手塚にオファーがあっても不思議ではありません。ちなみにこの一連のシークエンスは早い段階でボツになっています。

(2)美術デザインからの考察

 以下はリチャード・マッケンナが描いた初期の宇宙ステーションとオリオン号のストーリーボードです。これなら手塚でも描けそうです。

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1965年春頃にリチャード・マッケンナが描いた宇宙ステーションとシャトルのストーリーボード。

(3)NASA出身のスタッフの参加

 このように、当初はSF空想マンガのような世界観で進んでいた『星々の彼方への旅』ですが、あるスタッフが加入したことにより、究極リアル志向に舵を切ります。それは元NASAのフレデリック・オードウェイとハリー・ラングです。1965年春頃から仕事を始めた二人にとって、『星々の彼方への旅』での科学的根拠のない、単なる空想で描かれたデザインが気に入らなかったに違いありません。キューブリックは二人のコネからもたらされるNASAのリアルな現場のデザインを知り、猛然とリアル志向へと舵を切ったのだと思います。クラークが「(1964年末の)決定稿(と思っていた初稿)が次々とボツにされた」と語るキューブリックの心変わりに、オードウェイとラングの存在があったであろうことは想像に難くありません。

 上記のストーリーボードはロイ・カーノンによって描き直されています。このレベルになると手塚には描けないでしょう。ロイ・カーノンは1966年製作のドキュメンタリー『2001年という“未来”(A Look Behind The Future)』に登場しています(詳細はこちら。7:50頃)。

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1965年にロイ・カーノンが描いた宇宙ステーションとシャトルのストーリーボード。

(4)キューブリックはどこで『鉄腕アトム』を知ったのか?

 『Astro Boy(鉄腕アトム)』はアメリカNBCにより1963年9月7日から全米放映スタート、1965年まで104話が放送されました。キューブリックは1963年秋頃から1965年夏頃までニューヨークのマンションに家族とともに在住、自宅マンションで仕事をしていた時期もあるので、その時に子供が観ていた『Astro Boy』を一緒に観た可能性が高いと思われます。

(5)もし手塚治虫が『2001年宇宙の旅』制作に参加していたら・・・

 『2001年…』の美術部門には有名無名の多くのアーティストが参加しています。キューブリックが手塚にオファーしたのは美術部門のトップではなく、未来メカを描き慣れたリチャード・マッケンナなロイ・カーノンのような立場としてだった可能性があります。どちらにしてもキューブリックの面接やテストをパスしなければならず、もしパスしたとしても全身全霊でキューブリックの厳しい要求に応えなければなりません。あの「エゴの塊」のような手塚治虫がそんな立場を許容するはずがなく、喧嘩別れは必至だったでしょう。

 手塚は『2001年…』参加のオファーをもらったこともあり、手紙の一件以降キューブリックに対してシンパシーを感じ、ニューヨークに行くたびに会いに行ったが会えなかったそうです(その頃はイギリスに引っ越した後だった)。また、手塚作品にもその影響は感じられ、「ファン」というなら「手塚治虫はキューブリックのファンだった」と言えるでしょう。この二人の共同作業が実現することはありませんでしたが、上記の経緯から仲違いを産むことになったであろうことは確実なため、結果的に「実現しなくて良かった」と言えるのではないでしょうか。

(6)手塚治虫による『2001年宇宙の旅』を観た感想

 その手塚は『2001年宇宙の旅』を観た後、このような感想を漏らしています。

 「革命ですよ。あれは。学術的にもそうだし、セットや、とくにメカのデザインは。あれはやらなくてよかったと思った。僕はキューブリックのアイデアではないと思うんですよね。相当しっかりした、いろんな方面からのアドバイザーがいたと思います。それをかなりリアルな、NASAがその頃あったかどうか知らないが、そういうところからの助言があったのではないか」「そこまでやるんだったら僕はやらない方がよかった」

 つまり、「自分がオファーされた時はこんなリアル志向ではなかった」という印象があったからであり、手塚はまさしく「見てきたかのように」現場の変化を言い当てていたのです。



●『2001年宇宙の旅』製作年表(クラークの参加から撮影開始まで)

1964年4月:キューブリックとクラークがニューヨークで対面し、SF映画の構想を話し合う。

1964年12月:スターゲート到着までの全体の筋書きが完成するが、まだ全体の三分の二までで、しかもおおざっぱな下書きに過ぎなかった(以下「初稿」)。

1964年12月末:『鉄腕アトム』を観た(のだろうと手塚は語っている)キューブリックから手塚治虫へ美術監督オファーの手紙が届くが、手塚は多忙でスタッフの反対もあり、この誘いを断る。

1965年1月初め:キューブリックから「残念だ」という返信が届く。

1965年1月末:元NASAのフレデリック・オードウェイと、ハリー・ラングがアドバイザーとデザイナーとしてプロジェクトに参加。

1965年2月末:MGMにより、仮題『星々の彼方への旅(Journey Beyond the Stars)』のとして製作を発表。

1965年春:初稿が次々にボツにされ、クラークは小説(脚本)の書き直しを強いられる。同じ頃、プロダクションデザイナーとしてトニー・マスターズが参加。

1965年4月末:タイトルが『2001年宇宙の旅』に決定。

1965年夏:製作拠点をニューヨークからロンドンへ移動。

1965年10月:未定だったラストシーン(スターチャイルドの登場)が決定する。

1965年12月末:『2001年宇宙の旅』の撮影がロンドンで開始。



 余談ですが手塚治虫のご子息、手塚眞氏は近年「キューブリックは『鉄腕アトム』(手塚治虫)のファンだった」と吹聴するようになりました(詳細はこちら)。ビジュアリストを自称していた頃にはそんなことは一言も言っていなかったにもかかわらずです。氏の態度の変化の理由は定かではありませんが、最近の活動は偉大なる父親の遺産に関わるものが多いと感じます。それが意味するところの明言は避けますが、どちらにしても氏のこの発言は全く根拠がないため「真に受けないこと」を推奨したいと思います。
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手塚治虫とキューブリックは同じ1928年生まれ。また、嗜好も似通った点がある(と感じる)。(画像引用:wikipedia - 手塚治虫wikipedia - Stanley Kubrick

 キューブリックが『2001年宇宙の旅』(この時点では『星々の彼方への旅』というタイトルだった)のプロダクション・デザイナー(美術監督)としての手塚治虫へ依頼の手紙を送ったが、手塚は多忙なためやむなくそれを断ったという話は以前こちらで詳しくその経緯を説明しています。手塚存命時は「いつもの手塚のホラ話」として周囲に一笑に付され、相手にされていなかったという事実は(手塚は「証拠の手紙を見せたいけど誤って燃やしてしまった」と嘆いていた)、この当時を知っている方なら常識だと思いますが、その後手紙の封筒が発見され、事実であることは前述の記事で検証した通りです。ところが手塚もキューブリックも没した現在、この話はいつの間にか「単なる仕事のオファーの話」から「キューブリックは手塚のファンだった」というトンデモ話が信じられているという状況になってしまいました。

 日本人のプライドをくすぐるこの話、テレビで毎日の様に流される「日本はこんなに素晴らしい!」という自画自賛番組と同様、実に浅ましい日本人の「外国コンプレックス」を見るようで、同じ日本人として恥ずかしい限りなのですが、まず厳然たる事実として、世界中のキューブリックファン、研究者の中で「キューブリックは手塚治虫のファンだった」という主張をしている人は一人も存在せず、そんな証拠(キューブリックが「ファンだ」と語った証言や、手塚宛のファンレターなどの手紙)などないという現実を受け入れる必要があります。

 そもそも、キューブリックが手塚のアニメや漫画を自ら進んで観たり読んだりするはずがありません。キューブリックは1999年に没するまで骨の髄まで「映画人間」でした。キューブリックのアニメに対する認識は「子供向け」というもので、それは『シャイニング』『アイズ ワイド シャット』で子供がTVでアニメを観ているシーンを登場させていることからも明らかです。また『フルメタル・ジャケット』での「ミッキーマウス」については、「兵士らはついこの間までディズニーを見ているような年齢だった(ことを示すため)」と語っています。さらに、まだ幼かった娘らとディズニーアニメ映画『バンビ』を観に行った際、残酷シーンについて「年齢による視聴制限をかけるべきだ」とも語っています。

 また別にキューブリック存命時、世界に於ける日本のアニメやマンガの受け入れられ方も知っておく必要があります。ウォシャウスキー兄弟の『マトリクス』は1999年公開で、その着想元に押井守監督の『攻殻機動隊』があることはよく知られた事実ですが、その頃盛んに言われていた「ジャパニメーション」というムーブメントについて押井氏本人が、「そんな動きが本当にあるのか、海外で調べてきた人がいるのか?」と懐疑的な発言をしています。現在「ANIME」として世界中に認知されている日本のアニメが世界で一般化したのは2000年代以降、インターネットによって不法アップロードされたアニメ(日本語が得意な外国人有志が字幕を勝手に付けていた)がYouTubeで観られるようになってからで、『エヴァ』も『ハルヒ』もそうやって世界に伝播していったのです。つまり、キューブリック存命時(1990年代まで)の世界に於ける日本アニメの置かれた状況は、「ほとんど知られてなく、知っている人はごくわずかなマニア層だけ」であり、そのためキューブリックが手塚の漫画やアニメに触れる機会などなかっただろうし、そもそもキューブリック自身の「アニメは子供向け」という考えにより、アニメや漫画を観たいと思う状況にはなかったでしょう。

 では、キューブリックが原案を担当した『A.I.』と手塚治虫の『鉄腕アトム』の類似性についてはどう説明するのか?ということですが、プロデューサーであるキューブリックの義弟、ヤン・ハーラン(『2001年…』にもアシスタントとして参加している)は『鉄腕アトム』について「知らなかった」と明言しているし、そもそも『A.I.』も『鉄腕アトム』も元ネタは『ピノキオ』であるため、多少の類似性があって当たり前でしょう。キューブリックと手塚は感性や嗜好に共通点がある、同い年であることもこの類似性をもたらした可能性もあります。どちらにしても「似た作品がある→ファンだ、影響だ」という短絡的思考回路(思い込み)は「浅はか」というほかありません。

 以上、時系列、当時の状況、当人の嗜好などを整理し、まとめてご説明させていただきましたが、とにかく「キューブリックは手塚治虫のファン」というデタラメを、人の話をすぐ信じる「ピュア」な御仁がSNSで自慢げに拡散することは、キューブリックファンはもちろん、手塚ファンにとっても迷惑極まりない話です。もし「日本人はこんなにすごいんだぞ!」自慢をしたいのなら、「キューブリックは黒澤明の大ファンだった」という「事実」を大いに広めていただけたらと思います(詳細はこちら)。

 なお、『2001:キューブリック、クラーク』を読めば、手塚治虫が『2001年…』に貢献できる部分が全くないということがよくわかると思います(喧嘩別れは必至でしょう)。手塚信者の皆様にはぜひご一読していただくことをおすすめいたします。
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1949年、ルック社カメラマン時代のキューブリック。(画像引用:wikipedia - Stanley Kubrick

 キューブリックが映画監督になる以前は報道カメラマン(正確には写真誌カメラマン)だったのは有名な話です。当然ですが使用するカメラはムービーカメラではなくスチールカメラで、主にローライフレックス(詳しくはこちら)を好んで使っていて、写真集『Through a Different Lens: Stanley Kubrick Photographs』(詳しくはこちら)に掲載されている正方形の写真は、ほぼローライで撮影されてものと考えて良いでしょう。

 スチールカメラマンが被写体を撮影する際、それがヤラセであれ、ドキュメントであれ、ワンカットしか撮影しないということはありません。必ず複数テイク撮影します。理由は「その瞬間」のベストを求めてということもありますが、絞りを変えてみたり、ライティングやアングル、レンズやフィルターを変えてみたりと技術的な問題もあるからです。キューブリックはルック社時代に「ブツ撮り」もしていますが、どんな簡単な撮影でも露出を変えて数カットは撮影しています。

 もちろんキューブリックの存命時はデジカメはありませんので、写真の仕上がりはフィルムの現像が終わり、ベタ焼き(フィルムを大きな印画紙に並べて現像すること。現在で言うところのサムネール)を見るまでは判断できません。この段階になって複数のテイクの中からベストのテイクを選び、ネガを印画紙に大きく焼き付けて、そのプリントを印刷に回すというのが写真誌制作のプロセスになります。

 以上のように、キューブリックにとって撮影とは「数多くテイクを撮ってベストのカットをチョイスする」というのは「当たり前の行為」だったのです。ところが映画を撮り始めた当初はテイク数は多くありませんでした。キューブリックは「最初の頃は映画界の古い慣習に従うしかなかった」という旨の発言をしていますがそれだけではなく、予算も時間も限られる中、スチール写真のように「複数テイクを撮ってベストのカットをチョイスする」という行為が現実的に、立場的に難しかったのだと思います。

 それが変化するのは『ロリータ』の頃からです。『スパルタカス』で業界内で一定の地位を確保し、それまでの借金生活(パートナーのハリスにお金を借りて生活していた)からも抜け出しました。ハリウッドから離れた(『ロリータ』はイギリスで撮影された)解放感も手伝ったのでしょう、この頃からテイク数が増え始めます。いや、正しく言うならば「本来やりたかったスタイルでの映画製作を始めた」と言うべきでしょう。キューブリックは「映画製作で一番安いのはフィルム代、だからいっぱい撮影しないと」と語っていたそうですが(それを聞いた俳優は震え上がったそう。笑)、その発想の原点は「スチールカメラでたくさんのテイクを撮っていたルック社カメラマン時代にある」と判断するのは当然至極のように思えます。

 キューブリックはまた「行き当たりばったり」(クラーク談)だったとも伝わっています。キューブリックは撮影前に完全にプランを練り上げ、その通りに撮影するという方法を好みませんでした。その原点もルック社カメラマン時代にあると考えます。アドリブを好み、俳優やスタッフのアイデアを反映させ、撮影の「現場で起こったこと」をフィルムに収める・・・。これはもはや「コントロールされたドキュメンタリー」というべきもので、それはすなわちルックの誌面と全く同じ(ルックは事実を伝える報道誌ではなく、ヤラセ込みで紙面を面白くする「写真誌」だった)ということだと思います。

結論:キューブリックが多テイクなのは、ルック社カメラマン時代にスチールカメラで撮影していた方法を採用したから。その理由は、より良い作品に仕上げるために現場のアイデアやアドリブを撮影に反映させ、その後ベストのカットをチョイスしたかったから。

 ちなみにキューブリックは撮影したすべてのフィルムを現像させていたそうです(通常は現像するまでもない、明らかなボツテイクは現像しない)。それはカットを切り貼りしてベストのフィルムを作るためだったのですが、音声のテイクだけ他のテイクから持ってくる、ということまでしていたそうです(だから時間がかかる)。そこまでこだわるからこその「多テイク」なのですが、画家や小説家や音楽家が同じように多テイクを繰り返し、ベストテイクをチョイスしても批判されないのに、なぜか映画業界だけが「一発撮りが至高」と言われ、多テイクは批判される傾向にあるように思います。もちろん「スケジュールが〜」「予算が〜」というのも理解できるのですが、そのプレッシャーがあまりにも強すぎるために作家性が摩滅させられているのだとしたら、キューブリックのような作家性あふれる映画監督が将来登場するのは絶望的、ということになってしまいます。であるならば、キューブリックが自身の作家性を発揮するために採用した「多テイク」という方法を、短絡的に「偏執的だ!」「狂気だ!」と揶揄するのではなく、もう少し作家側の心情を理解し、配慮してあげる環境が必要ではないか、と私は思います。
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