キューブリック作品を考察・検証する

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Giacometti
「ジャコメッティの彫刻のような」宇宙人案(左)。スタッフの間では電力のキャラクターに似ていることから「レディキロワット」(右)と呼ばれていた。キューブリックは気に入っていたそうだ。

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「エナジーマン」と呼ばれた宇宙人案。

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「TVマン」と呼ばれた宇宙人案。

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「ジェリーフィッシュ(クラゲ)」と呼ばれた宇宙人案。これらはスリット・スキャンによって作られた。

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「ガーゴイル」と呼ばれた宇宙人案。制作にはキューブリックの妻、クリスティアーヌも手伝った。

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テスト撮影された「ガーゴイル」。ガーゴイルには「怪物」という意味もあり、それはクラークの小説『幼年期の終わり』を想起させる。

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ブルース・ローガンによって試作中のグリッド状の宇宙人。

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The Polka-dot man2

The Polka-dot man3
「ポルカ・ドットマン」と呼ばれた宇宙人案。

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「ポルカ・ドットマン」を演じたダン・リクター(写真左)。リクターは猿人「月を見るもの」を演じている(写真右)。

 キューブリックは『2001年宇宙の旅』に宇宙人(異星人・エイリアン・地球外知的生命体、人類の上位的存在)を登場させようと公開ギリギリまで粘っていたというのはよく知られた話です。その登場シーンは「スターゲート・シークエンス」でした。このシークエンスは(1)ワームホールによる空間転移シークエンス、(2)星の誕生・銀河の誕生、もしくは生命の誕生シークエンス、(3)地球外知的生命体との遭遇シークエンス、(4)原始惑星の誕生シークエンスと続き、やがてボーマンは「白い部屋」に到着します。つまりボーマンは「宇宙空間を光速以上のものすごい速さで移動しながら、宇宙が誕生し、宇宙人と遭遇し、その力によって惑星(世界)が誕生する」というプロセスを目撃するのです。そうなると「スターゲート・シークエンス」は、映画のテーマに関わる重要なシーンの連続ということになるのですが、CGのない当時、キューブリックが求める映像のクオリティと映像表現を両立させるためにはあいまいな表現にならざるを得ず、現在に至っても正しく理解されているとは言い難いのが実情です。そして、その「あいまいさ」にさらに拍車をかけたのは、このシークエンスに「宇宙人が登場しない」からなのです(例外的に「マインドベンダー」シーンで抽象的に登場してる)。

 共同で原案やストーリーを担当したクラークは、意固地になって宇宙人を登場させようとするキューブリックのこの試みには冷ややかで、自著『失われた宇宙の旅2001』で

「人間より数百万年も進んだ生物を、その活動ぶりから、生活環境、できることなら肉体的特徴にいたるまで描写し、スクリーンに映し出そうというのだ。これは原則的に不可能である」

と記しています。キューブリックがここまで異星人に固執した理由の一端に、カール・セーガンの存在があるかも知れません。この天文学者は後にTV番組『コスモス』のパーソナリティ(テーマ曲は『ブレードランナー』で有名なヴァンゲリス)で名を馳せ、映画化された小説『コンタクト』では、この「宇宙人をどう登場させるか問題」を秀逸な方法で(まあ、途中で読めてしまうのですが)回避しています。そのセーガンにキューブリックは意見を求めたところ「宇宙人は描かずに観客に想像させたほうが良い」と提案。しかしキューブリックはセーガンの態度がよほどお気に召さなかったようで「二度と会いたくない」と毛嫌いしてしまいます。どうしても宇宙人を登場させたいと考えていたキューブリックは、嫌いなセーガンの案に屈したくないという意地もあったのかもしれません。

 キューブリックはインタビューで「最後になって見込みのあるアイデアが出てきた」と語っていますが、それは上記の「ポルカ・ドットマン」でした。おそらく白黒反転させ、スターゲート上にドットで描かれた人のシルエットを写しだそうとしたのだと思いますが、後の『トロン』を思い出させるこのアイデアも、時間的に余裕がなくなってボツになりました。もし時間があったとしても、このアイデアもボツになった可能性が高いと思います。結局のところ人が演じている(中の人は「月を見るもの」を演じたダン・リクター)ことはまるわかりで、その程度のクオリティにキューブリックがOKを出すはずがないからです。スターゲート・シークエンスには宇宙人の他にも「都市」や「宇宙船(UFO)」登場させる予定でした。そのひとつであり、小説版にも登場する「紡錘型宇宙船」についてはこちらで記事にしました。

 キューブリックは「今まで誰も説得力のある宇宙人を描けていない」ことに着目し、「自分ならやり遂げてみせる」という野心を持っていたことは確実です。しかし最終的にこの試みは「想像できないほどのものは、想像できないことが明らかになった」と断念され、それが正しかったことはクラークやセーガンが語った通りです。何よりも宇宙人を具体的に描写しなかったことで、『2001年…』が映画史上に燦然と輝き続ける傑作として、今に語り継がれている事実がそれを証明していると言えるでしょう。

 以上のことからわかるのは、キューブリックが安易に「妥協」してしまえば、『2001年…』が映画史上に残る傑作どころか、安っぽいトンデモSF映画に堕ちてしまっていた可能性があったということです。キューブリックの「完全主義」の「完全」とは「完璧(間違いが全くない)」を求めることではなく(実はキューブリック作品にはいくつもミスがあるし、それを知りつつもそのテイクを採用しているフシがある)、「(安易に)妥協しない」、つまり「(どんなに人に嫌がれようとも)徹底的にこだわり抜く」ことだということが、よく理解できると思います。誤解を生みやすい「完全主義」という言葉を当ブログではなるべく使わないようにしていますが、ネット上に溢れる「解説記事・動画」でさえ、この事実を正しく認識していないというのは憂慮すべき事態です。一人でも多くの方がこの事実を正しく認識して頂けるように願ってやみません。

▼この記事の執筆に当たり、以下の記事を参考にいたしました。
2001italia.it/2001: The aliens that almost were
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anthonyburgess_org
アンソニー・バージェス財団の『時計じかけのオレンジ』のページはこちら

 キューブリックが映画化した『時計じかけのオレンジ』について、原作者のアンソニー・バージェスが小説版の最終章を採用しなかったことについて批判していたことは知られていますが、逆に全く知られていない事実があります。それはバージェスはキューブリックの映画版を「当初は」支持していたという事実です。このことは以前こちらでも記事にしていますが、バージェス財団のサイトにも同様の記述があります。

 バージェスは『リスナー』誌上で公開時に本作を熱烈に評価し、公開後もキューブリックと友好的な創作関係を築いた。キューブリックはバージェスにナポレオン・ボナパルトの生涯を描いた映画の計画について話し、バージェスはこのアイデアを小説『ナポレオン交響曲』(1974年)で使用していたが、完成することはなかった。近年では、キューブリックのナポレオンの脚本をHBOのミニシリーズ化するという話が出ている。

 なのに突然バージェスはキューブリックに反旗を翻し、批判を始めます。同サイトはこう続きます。

 キューブリックとは友好的な関係を保っていたが、バージェスは『スタンリー・キューブリックの時計じかけのオレンジ』という脚本のイラスト版が出版されたことに憤慨していた。バージェスはこれを自分の作品の流用とみなし、『Library Journal』誌でこの本を酷評した。この間、彼は他の小説を無視したジャーナリストたちに不満を抱いていたが、引きこもりのキューブリックは自分の代わりにバージェスとマクダウェルに映画の弁護を依頼した。

 キューブリックの脚本出版を自著の剽窃と考えたバージェスがキューブリックを批判する。これならキューブリックとバージェスの仲違いの原因として納得がいくものです。しかしこの記述だとキューブリック本人への批判であって、映画版への批判ではありません。

 同様に、もう一つ重要な事実が知られていません。アレックスが暴力行為を辞めることを示唆する最終章は「削除された」のではなく、いったん最終章なしで完成していた小説に「付け加えられたもの」という事実です。同サイトには以下の記述があります。

 バージェスのタイプ原稿を調べてみると、彼は常に小説の終わり方について迷っていたことがわかる。第三部第六章の最後に彼はこう書いている「オプションのエピローグが続く」。最終章はアレックスが成長し、自らの意思で暴力を放棄するという贖罪的な内容になっている。アメリカ版の本とキューブリックの映画の締めくくりに使われている最後章では、アレックスが明らかな喜びを持って犯罪の人生に戻っていく。

オプションのエピローグ・・・。この件についてはこの記事でも採り上げた通り、キューブリックとマルコム・マクダウェルの証言があります。両者の証言は「編集者に要求されて最終章を付け足した」で一致しています。

 キューブリックを語るなら絶対外せない評伝『映画監督スタンリー・キューブリック』には映画公開時、当初バージェスやマルコムは映画版を支持、擁護していた事実がはっきりと記載されています。それはこのバージェス財団のサイトでも確認できます。ですので、問題は「なぜバージェスは突如として映画版を批判するに至ったのか?」なのですが、生半可な知識で『時計…』を解説する自称映画評論家、識者、ライター、YouTuberはこの事実を無視(知らない?)し、バージェスが最初からキューブリックの映画版を批判していた、最終章はキューブリックが勝手に削除したかのように解説、拡散させ、個人のブロガーの力ではそれを覆せない状況に陥っています。

 では改めて、なぜバージェスは編集者に要求され、付け足しのオプション程度の扱いだった最終章を映画で採用しなかったことについて、或る日突然それを持ち出してキューブリックを激しく批判し始めたのか、管理人個人の見解はこうです。

キューブリックが最終章のない米国版をベースに映画化、公開したところ、各方面から暴力賛美だと批判が集中した。当初映画版を擁護していた原作者のバージェスも、批判はおろか脅迫までされる事態に発展したため急遽方針転換。脅迫の矛先を自分からそらすために、実際はオプション程度だった最終章を持ち出し、その意味と重要性を事あるたびに主張し、自分は暴力主義者でない事を世間にアピールしつつ、それを映像化しなかったキューブリックを激しく批判した。

むしろ、これ以外の説明を考えることが難しいでしょう。同様の脅迫は主演のマルコム・マクダウェルにもおよび、マルコムもバージェスと同様に、擁護派から一転『時計…』を厳しく批判し始めました(現在は「誰が見ても傑作」と再び擁護派に戻っている)。キューブリックは脅迫に屈して映画を1974年に封印(一般公開は1972年1月から)、英国で上映が許可されたのはキューブリック逝去後でした。つまり3人とも「映画を否定」してしまったのです。それだけ3人の元に届く脅迫はすさまじかったのだと想像できます。

 公開差し止めは家族思いのキューブリックにとって、自宅まで脅迫が届く事態を憂慮したのは間違いないですが、擁護派から一転批判派に鞍替えし、キューブリックを裏切ったバージェスとマルコムについてキューブリックは生涯没交渉を貫きました。マルコムはその後のインタビューによるとキューブリックとの関係修復を望んでいたようですが、キューブリックは相手にしませんでした。『ナポレオン』の脚本を依頼していたバージェスとも縁を切り、結局関係修復はなされませんでした。キューブリックは執念深いのです。

 さて、もう一つの事案「A Clockwork Orange」という言葉の出典についてです。これはバージェス自身が「東ロンドンのコックニー訛りで、時計じかけのオレンジのように奇妙な」と解説しています。しかし財団のサイトでは以下の記述があります。

「時計じかけのオレンジ」の由来は裏付けが難しい。ロンドンのスラングの辞書には記録されておらず、一部の言語学者は、このフレーズの起源はリバプールにあると考えている。この小説が出版された1962年以前にこのフレーズの引用が記録されていないことは明らかであり、その使用法についての唯一の権威はバージェス自身である。バージェスが本物のコックニー訛りのフレーズ「All Lombard Street to a china orange(十中八九という意味)」を記憶違いで覚えているか、あるいは単に作り話をしている可能性もある。

 つまり「All Lombard Street to a china orange」を「A Clockwork Orange」と間違えて記憶し、その語感からバージェス自身が

 明らかに私はそれに新たな意味を与えなければならない。新しい次元を暗示した有機的なもの、生き生きとしたもの、甘いもの、つまり生命であるオレンジと、機械的なもの、冷たいもの、規則正しいものの融合を示唆している。私はそれらを一種の撞着語法のようなものとしてまとめた。

可能性があるのです。つまりインスパイアはされつつも、完全にバージェスの造語ということです。個人的にはこの説が一番説得力を持っていると思っています。また自身は後年に突然

私自身、6年近くマレー語に親しんでいたので、マレー語は私の英語に影響を与え、今でも私の思考に影響を与えている。私が『時計じかけのオレンジ』という小説を書いたとき、マレー語で「人」を表す言葉である「オラン」がタイトルに含まれていることを、ヨーロッパ人の読者は誰も気づいていなかった(マレー語の英語学習者は必ず「オラン・スカッシュ」と書く)
(引用:Why not Catch-21? : the stories behind the titles


と言い出しました。どうも後付けくさいこのコメントに長い間違和感を感じていたのですが、記憶間違いに気がついたバージェスの後付け説明だと考えれば納得できます。言語学者のバージェスが「All Lombard Street to a china orange」を「A Clockwork Orange」と間違えていたなんてかっこ悪いですからね。そもそもこの記述はアンソニー・バージェス財団のサイトに記述がありません。財団も「違和感」を感じて採用しなかったのかもしれません。

 財団のサイトはバージェスと『時計じかけのオレンジ』の関係についてこう総括しています。

 バージェスは彼の最も有名な小説と複雑な関係を持っていた。彼はこう書いている。「私はこの本が他の本よりも好きではない。最近まで未開封の瓶に入れて保管していた」。しかし、バージェスがこの本を積極的に嫌っていたと言うのは大げさではないか。バージェスの態度は人生の様々な時期に変化したが、彼は何度も『時計じかけのオレンジ』に戻ってきて、舞台化したり、記事を書いたり、さらには映画『時計じかけの遺言』や『エンダービーの果て』の制作を基にした小説を書いたりしている。後者では、バージェスの名を冠した詩人に「『時計じかけのオレンジ』を『黄色い老犬』のように見せている」と、脚本の翻案によって与えられた不名誉に対応するように求めている。

 このようにバージェスの『時計じかけのオレンジ』に対する思いは一方的に肯定でも否定でもなく、その時々で複雑でした。1960年代半ばまでにたった3872部しか売れなかったとこのサイトには書かれています。イギリスより暴力が身近にあるアメリカなら、最終章がない方が受けがいいかも知れない・・・本売りたいバージェスがそう考えたとしても不思議ではありません。もしバージェスが最終章がない方が自分の真意だと考えていたなら、映画公開当初の擁護も理解できます。そしてその後の脅迫行為に屈して批判に転じる際、実はオプションでしかない最終章をキューブリックが採用しなかったことを好都合とばかりに利用する・・・それもありうる話です。バージェスの場合、財団のサイトでさえ「バージェスの態度は人生の様々な時期に変化した」と書かれる始末です。表出したその時々のコメントは重要ですが、それを短絡的に鵜呑みにはできないということです。バージェスの発言は、その時々のバージェスの置かれた状況をよく勘案しなければならないと考えています。
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GradyTwins
画像引用:IMDb - The Shining

 キューブリック初心者の映画好き女子に、おすすめしやすい順で勝手にランキング。かなり独断と偏見に満ちてます。ネタ程度にどうぞ。



シャイニング [Blu-ray](amazon)


1位 シャイニング

 主演がジャック・ニコルソンだし登場人物も少なめ、ストーリーもシンプルだからおすすめしやすい。コンチネンタル版でもいいけど、北米版の方が説明多めで分かりやすいかな。女子はお化け屋敷的な「びっくり」を怖がるけど、そういう演出は少なめなのも安心。双子の少女は今やオサレなアパレルアイコンに。



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2位 アイズ ワイド シャット

 トム・クルーズ&ニコール・キッドマンなので、出演俳優的にはものすごくおすすめしやすいし、セレブな雰囲気や美しい映像もアピールポイント。ただ性描写が過激なのはちょっと・・・。あと難解な印象も残るのでそれも若干マイナス。



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3位 バリー・リンドン

 ヨーロッパ版大河ドラマと言えば説明も早いし、絵画のような風景や美しい衣装も好印象。恋愛ものの要素もあって、女子には受け入れられやすいかも。ただ長尺なのと印象が平板なので「退屈」と言われる危険性あり。



2001年宇宙の旅 [Blu-ray](amazon)


4位 2001年宇宙の旅

 1、2位でハリウッド映画にはないジリジリとしたキューブリック作品の独特の緊張感・世界観を知り、3位でゆっくりとしたテンポや長尺なのに慣れたところでこれを。ただし観賞後は質問攻めになる可能性大なので解説はほどほどに。



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5位 突撃

 キューブリック作品の持つ、いわゆる劇映画的な面白さはここに結実しているので、初心者にはかなり観やすいかと。映像作家としてではなく、演出家としてのキューブリック作品として4位と比較するといいかも。



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6位 スパルタカス

 キューブリックが嫌ったハリウッド大作主義的な作風は、初心者にはかえってとっつきやすいかな。ホモォなところも一部女子には好感かも。ただし「雇われ仕事だった」ことはちゃんと説明しておきましょう。



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7位 非情の罠

 短いし、分かりやすいし、ハッピーエンドだし。キューブリックってこんなのも撮ってたんだよ、と巨匠を身近に感じてもらえる好機になるかも。ただし「当時26歳」ってことはちゃんと強調しておきましょう。



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8位 現金に身体を張れ

 「フィルム・ノワール」などという専門用語ではなく、「犯罪サスペンスもの」と言えばおすすめしやすいかな。ただ、登場人物も多いし時間経過の描写も今の感覚からすると観づらいだけ、と言われそう。ステレオタイプな悪女シェリーもマイナス材料。



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9位 フルメタル・ジャケット

 ここから難易度があがってきます。後半の戦闘シーンは『プライベート・ライアン』が凄惨な戦争描写のタブーを破っちゃったんで問題ないと思うけど、前半のイジメはキツいと感じる女子は多そう。野郎には大好評の侮蔑語淫語満載の軍曹語録も女子にはどん引き。



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10位 ロリータ

 タイトルだけでダメだし必至。ただ雑貨屋などで当時のビジュアルが、ポスターやポストカードとして売られていたりするので、その線ですすめれば可能性はなくはないかも。でもいくらエロシーンはないと説明しても、「俺はロリコンじゃない!」という事を信じてもらえるだけのルックスが備わっていなければ逆効果。でなければ潔く諦めましょう。



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11位 博士の異常な愛情

 ただ悪趣味、ひたすら悪趣味。制作年の時代背景を知らなければその一言で済まされそう。ギャグが寒いのも、特撮がチープなのも現在の視点からはハードル高め。



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12位 時計じかけのオレンジ

 イジメがあってエロで悪趣味で、さらに暴力満載といいところなし。深いテーマ性などおかまいなしに、ただひたすらの拒否反応まちがいなし。ただし一部女子にはやたらウケがいいので、「この人なら・・・」と相手を選んで勧めるのはアリ。



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13位 恐怖と欲望

 作品として観るより、キューブリックの志向を確認するための貴重な資料として観るべきものなので最後でいいかと。ただ、ここまでたどり着いた女子はすでに「キューブリック沼」に没入済みです。おめでとう!!(意味深




 ・・・こんな感じでしょうか。想定できる一般的な女子の反応を、目一杯自分なりに考慮したらこうなりました。まあでも基本的にキューブリックは男性向けではありますね。あまり女性が観ることに配慮して作ってない気がします。でも、このアンケートによると一定数女性の支持はあるようなので、もっと女子の一般層に面白さの認知が広がると嬉しいですね。

初出:2014年7月21日
加筆・修正:2020年9月13日
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pinkfloyd_2001
ピンク・フロイドの最高傑作(異論は認めない。笑)『夜明けの口笛吹き』と、『2001年宇宙の旅』のMGM版サントラ。

 日本版wikipediaのピンク・フロイドの項目には以下の記述があります。

この頃バンドはテレビ映画などのサウンドトラックも担当していた。スタンリー・キューブリックがこの年(1968年)に発表した映画『2001年宇宙の旅』では、フロイドに音楽制作の依頼が来ていたという話が伝わっている。

「伝わっている」とはまた責任放棄的な書き方ですが、それもそのはず、この記述にソースは示されていません。ですが、世の中には「wikiに書かれていることは全て正しい」と裏取もせず信じ込む人は後を絶ちません。実はこの件に関しては、2名の証言者がいます。ひとりはキューブリックの義弟であるヤン・ハーラン。そしてもう一人はキューブリックの長女カタリーナ。その証言は以下の通りです。

ヤン・ハーラン:私の頃(ヤンがキューブリック作品を手伝うようになったのは『時計…』の頃から)より以前ですが、そんなことはないと思います。聞いたこともない。後になって本当だったのかもしれないし、そうでなかったのかもしれない。もしそうなら、忘れていただけかもしれませんが。(引用:Jan Harlan: The Man Behind Stanley Kubrick

カタリーナ・キューブリック:スタンリーが映画に役立ちそうなものなら何でも聞いていたことは知っていました。彼がピンク・フロイドを検討した可能性は十分にあります。(引用:reddit/Stanley Kubrick's daughter Katharina Kubrick, and grandson Joe. AMA


つまり、「可能性のレベル」であって、「確定的な情報はない」ということです。そしてもちろんのこと、ロジャー・ウォーターズをはじめとするメンバーの誰一人も「キューブリックから『2001年』の音楽制作のオファーがあった」との証言はありません。

 続いて、以下は管理人の個人的な推論です。

(1)この頃のピンク・フロイドはサイケデリックバンドで、キューブリックが興味を惹くような音楽性を有していない。

 1967年にデビューしたピンク・フロイドは、この頃シングル『アーノルド・レーン』『エミリーはプレイガール』(大好きな曲なんですが酷い邦題だ。笑)と、アルバム『夜明けの口笛吹き』をリリースしていたのみです。確かにアルバム収録曲、『天の支配』『星空のドライブ』などは「宇宙」を感じさせますが、キューブリックの嗜好とはかなり異なると感じます。

(2)キューブリックは1966年の撮影時に現場でクラシックをかけていたり、粗編集でもクラシックを使用していたことから、早い段階からクラッシックの採用を検討していた。

 そもそもキューブリックは当時のサイケデリック・ドラッグカルチャーに疎く、ドラッグそのものにも興味を示しませんでした。キューブリックが実際に音楽制作をオファーしたのはアレックス・ノースですが、その音楽も交響楽であり、クラシックの範疇です。

 もしキューブリックがこの頃のピンク・フロイドを耳にし(その可能性は否定できない。なにしろ制作現場はヒッピーかぶれの若者が大勢いたのだから)、映画の使用を検討していたとしても、それはカタリーナが言う通り「可能性は十分にある」程度のものでしかありません。それに、実際にオファーがあったという証言が現時点で存在しない以上、結局はそれ以上でも以下でもありません。

結論:以上の通り、キューブリックがピンク・フロイドに『2001年宇宙の旅』の音楽を依頼した事実はなく、現時点で言えることは「可能性のレベル」で、そもそもこの頃キューブリックはピンク・フロイドの存在を認識していたかどうかさえ不明である。

 では、なぜこんなソースも何もない話がさも事実であるかのように現在まで伝わっているのでしょうか? 実は「スターゲート・シークエンスと『エコーズ』が〈偶然〉にもシンクロしている」と、「キューブリックが『時計じかけのオレンジ』のサントラに使いたいと『原子心母』の使用許可を求めた」という2つの事案があり、この2つが混同されてしまったからではないかと予想しています。特に『原子心母』の件は日本語版wikiに書かれていないこともあってか(本来なら確定情報であるこちらを記載すべき)、あまり一般には知られておらず、そのことがかえって『2001年…』のソースのない話を信じ込ませる遠因になっているのではないでしょうか。

 キューブリックがピンク・フロイドのサントラ起用をオファーしたのは『2001年宇宙の旅』ではなく、『時計じかけのオレンジ』である。この事実がもっと一般に広まれば、こんなソースも何もない単なる未確認情報が安易に拡散されることはなくなると思います。

追記:ただし、この件に関し今後新しいソースが出てこないとは限りません。その際はまた追記するか、改めて記事にしたいと思います。

▼この記事の執筆に当たり、以下の記事を参考にいたしました。
2001 Italia.it/Investigating the myths around the '2001'-Pink Floyd connection
wikipedia:Atom Heart Mother
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キューブリック版『シャイニング』でダニーを演じたダニー・ロイド(撮影時5〜6歳)。小説版の設定年齢と同じ。

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TV版『シャイニング』でダニーを演じたコートランド・ミード(OA時10歳)。ゆるい口元が利発さを感じさせない。

 キューブリック版『シャイニング』では、原作で中心的に活躍する「シャイニング」、つまり超能力(ESP能力)がほとんど描かれませんでした。そのため、現在に至るまで「キューブリックの『シャイニング』は『シャイニング』というタイトルながら「シャイニング」ではない」と、原作ファンを中心に批判され続けています。確かにその通りなのですが、あらゆる可能性を探り、判断して映画作りをするキューブリックが、こういった批判の可能性を考慮していなかったとは考えられません。この考察では「キューブリックは『シャイニング』における「シャイニング」の扱いを〈あえて〉矮小化した」という仮定に基づいて、なぜキューブリックがそうしたかのかを考察してみたいと思います。

 さて、いきなり結論を書いてみたいと思います。それは、キューブリックがダニー・トランスを物語の主人公から脇役へと追いやり、ジャックを中心に据えたからです。原作小説では、物語はダニー・トランスと、ダニーが持つ「シャイニング能力」を中心に物語が進行します。しかしキューブリックはダニーを〈あえて〉物語の中心人物から脇役へと追いやり、父親であるジャックをその中心に据えました。その理由は主に以下の3つが考えられます。

‐説のダニー・トランスが5歳児とは思えない問題

 原作小説のダニーは、物語の序盤では言葉の意味がわからなかったり誤解するなど、5歳児らしい言動を繰り返します。しかし、クライマックスになるとジャックさえ気づいていない「幽霊達の真の目的」を看破し、悪と対峙します。長編の小説であればその変化はゆるやかであり、また、文字として読んでいるだけなのでほとんど違和感を感じさせません。しかし2時間で映像を見せる映画では違います。そんな短い時間で急成長するダニーの姿を映像化すれば、単なる御都合主義に陥ってしまう可能性があります。

 そのため、キューブリック版『シャイニング』のダニーは終始5歳児らしさを失いません。常に幽霊や父親に怯え、その真意や意図に気づくことはないのです。唯一聡明さを感じさせるのは、終盤でジャックを迷路でまくシーンのみです。キューブリックはダニーを「リアルな5歳児」にしておきたかったのでしょう。5歳の感受性ならプレコグやテレパシー、イマジナリーフレンドを持っていてもまだリアルに見えるかもしれない・・・そんな思惑があったのかもしれません。しかしそうなると、物語後半の大人顔負けの大活躍を(5歳のダニー・ロイドでは)描けません。であれば、いっそのことストーリーをダニーの物語からジャックの物語へ改変してしまおう。そう判断したのではないでしょうか。ちなみにスティーブン・キングも同じことを思ったようですが、キューブリックとは異なった判断をしました。すなわちダニーを10歳のコートランド・ミードに演じさせたのです。

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 キューブリックは「シャイニング(ESP)能力」について

 (ESPについて)実際のところ、しなければならない調査というものはなかった。この物語は特に要求していなかったし、私はずっとその話題に興味があったから、必要な(こと)だけはわかっていたと思う。ESPとそれに関連した心理現象が、最終的に、それらの存在についての普遍的な科学上の証明を見つけられればいいと思う。(引用:ミシェル・シマン『キューブリック』)

とインタビューで応えています。つまるところキューブリックは、ESPの調査という、そのものがなかった。映画制作上必要でもなかったと言っているわけですが、この後自分の飼い猫が、自分が毛玉を取ろうと考えている時に限って逃げ出してしまうという事実を例に出し、そういった「第六感」「以心伝心」レベルの事象を興味深そうに語っています。

 キューブリックは「リアル」や「リアリティ」にこだわる監督です。ここで言う「リアル」とは、「根拠」「裏付け」「整合性」という意味です。『2001年宇宙の旅』では、異星人を「科学的に定義された神」という「根拠」を設定できました。しかし『シャイニング』では、ESPについてキューブリックが納得いくだけの根拠を探す方法さえありませんでした。根拠がないものを「ない」として描くことを嫌うキューブリックが採った方法は、ESPの描写を最低限にすることでした。ラストシーンで「シャイニング能力」が活躍する原作小説と、全く描写されない映画の違いはこうして生まれたのだと思います。

最恐の恐怖映画を作りたいキューブリックにとって「シャイニング」は不要

 キューブリックは常々「どのジャンルの映画も一度は作られている。我々がすべきことはそれよりもいい映画をつくることだ」と語っていました。当時のホラー映画ブームで評価されていたのは『エクソシスト』『オーメン』『サスペリア』などですが、キューブリックはこれらを超える「最恐の恐怖映画」を目指したのです。そこでキューブリックが考えた「恐怖の視覚描写」とは、「廊下や迷路を走り回る映像」「血のエレベーター」「双子の少女」「狂気のタイプライター」「斧を振り回すジャック」「恐怖に叫ぶウェンディ」「ホモ行為に及ぶ犬男と紳士」など、どれも原作小説に登場しないものばかりです。ですが、小説では重要な役割を果たすシャイニング能力は、キューブリックが目指す「最恐の恐怖映画」には必要ありません。キューブリックはダニーのシャイニング能力が恐怖描写に関係する部分(双子の少女や血のエレベーター、REDMUMの幻視)と、物語上必要な部分(テレパシーでハロランと通じ合う)のみを残し、あとは捨て去ってしまったのです。そうなるとダニー(ハロランも)が物語で果たす役割は少なくなり、脇役へと追いやられるのは必然と言えるでしょう。

結論:キューブリック版『シャイニング』で「シャイニング」の描写が少ないのは、ダニー・トランスを主人公から脇役へと追いやり、ジャックを物語の中心に据えたから。その理由は以上の通り。

 キングは掲示板でファンと交流した際、「自分の書いた小説のキャラで実際に会えるとなると誰に会いたいか?」という質問に対して「ダニー・トランス」と応えています。原作小説に描かれた頭が良く行動力があり、勇気を振り絞って悪と戦うダニー少年は、キングの理想の少年像なのでしょう。そう考えるとTVドラマ版『シャイニング』や続編『ドクター・スリープ』で、ダニーとシャイニング能力を物語の中心に「取り戻した」のは当然だと言えます。そのかわり両作品はキューブリックが否定した「根拠もリアリティもどこ吹く風、御都合主義のオンパレード」となってしまったのも仕方がないことでしょう。

 作り手側の意図は説明した通りですが、受け手側は結局のところキューブリックとキングの映像化に対する考え方の違いの、どちらに共感するのか? 楽しめるのか? に尽きると思います。「たとえフィクションでもリアリティ(根拠)を感じないと楽しめない」と思うならキューブリック支持、「フィクションはフィクションとしてリアリティ(根拠)無視でも楽しめる」と思うならキング支持、となるでしょう。どう感じるかは受け手の自由です。だた、作り手側の考え方を知っておとくことは、その作品を理解する上で役に立つことは間違いないでしょう。

 余談ですが、「シャイニング」でなくなってしまった映画のタイトルが『シャイニング』である理由ですが、『シャイニング』はキューブリック作品中唯一「映画会社が映画化権を持っていた小説を映画化したもの」だからです。キューブリックは通常、自分でお気に入りの小説を探し出して作者と直接交渉して映画化権を購入、それを映画会社に売り込むという方法を採っています。しかし『シャイニング』だけは違います。権利を持つワーナーがメディアミックスの観点からタイトル変更を許可するとは思えないし、キューブリックもそこまで必要ないと考えていたのかもしれません。
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