『時計…』の劇場での乱闘シーンなど、暴力シーンに使われた、ジョアキーノ・ロッシーニのペンによるオペラのオープニング曲『泥棒かささぎ〈序曲〉』。このオペラ『泥棒かささぎ』のストーリーは以下のようなものです。
村のお屋敷の召使いのニネッタは、家の主人の息子ジャンネットとは結婚を誓い合った仲。しかし二人の仲を快く思っていない女主人は、ニネッタになにかとつらくあたります。今日も銀の食器が足らなくなっているのに気づいてニネッタのせいだと咎めます。かつてニネッタに横恋慕したものの、袖にされてしまった腹黒い代官は、これを聞いて又とないチャンスだと、ニネッタを逮捕してしまいます。当時の法律では、召使いが泥棒をした場合には死刑にできるのです。代官は「死刑になりたくなければ、わしと一夜を共にするがよい。」ともちかけますが、ニネッタは断固はねつけます。
かわいそうなニネッタ!とうとう裁判で死刑を宣告されてしまいます。と、その時、びっくりするような知らせがもたらされました。食器盗みの真犯人が分かったというのです。いったい誰だったと思います?台所から銀のスプーンやフォークをくわえては、巣まで運んでいっていたのは、お屋敷のまわりに住み着いていたいたずら好きなかささぎだったのです。疑いがとけたニネッタは、改心した女主人にも祝福され、晴れてジャンネットと結婚することができましたとさ。めでたしめでたし。
(引用元:ジュラシック・ページ/どろぼうかささぎ)
まるでチュンチュンと、かささぎ(暴漢)がそこらじゅうを飛び回っているような軽快な曲ですが、キューブリックがこの曲を選んだ意図を想像すると、やはり「暴力シーンをコミカルに見せることによって厳しいレイティングを避けようとした」と考えざるを得ません。これは『時計…』全般に言えるのですが、全編で使用された様々なクラシックやポップス(『第九』『雨に唄えば』はその典型)がこの作品を一種のコミカルな「歌劇」のように彩っていて、それらが映像の色彩のカラフルさと相まって一種独特な、サイケデリックな高揚感がある世界観を構築しているのがわかります。
実は原作小説はこれとは真逆で、薄汚れて陰鬱としたモノクロームの荒廃したロンドンが舞台になっています。ですので、それに準じた陰鬱で激しい選曲をするとより過激さが強調されてしまい、レイティングを厳しくされてしまう可能性があったのです。「X指定」(ポルノ映画と同義)ではなく「R指定」を狙っていた(詳細はこちら)キューブリックは、「シリアスさを笑いで回避する」という、過去にも使った(『博士の異常な愛情』はその典型)同じ手段を用いて、『時計…』での厳しいレイティングを避けようとしたのだと思います。ですが、その「笑い」があまりにも効果的すぎて、暴力を肯定的に見せてしまうという副産物を生み出してしまいました。もちろんキューブリックはある程度それは承知の上だったとは思いますが、今回ばかりはキューブリックの想像をはるかに超え、「暴力賛美」との激しい非難の集中砲火を浴びることになってしまったのです(ちなみにキューブリックは「この映画が暴力賛美と捉えられているのが理解できないでいる」と語っている)。
ところで、キューブリックが『時計…』のサントラをエンニオ・モリコーネに依頼しようとしていて、『殺人捜査』とそっくりな曲を望むほど気に入っていた(ソースはこちら)という話があるのですが、その曲は以下になります。
この曲、なんとなく『泥棒かささぎ』と似ているような・・・。もしそうなら、キューブリックはやはり暴力シーンにコミカルな劇伴を使うことにより、シリアスさを回避しようとしていたんだと思います(もちろんよく言われる「音楽の皮肉な使い方」効果も)。
情報提供:シネマホリックさま