キューブリック関連記事

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Trumbull_Nolan
ダグラス・トランブルとクリストファー・ノーラン。

〈前略〉

ークリストファー・ノーラン監督の『2001年…』の70mmプリントについてはどう思われますか?

 彼のカラーグレーディングには同意できない部分もありましたが、彼がやっていることは素晴らしいと思いました。しかし、ワーナー・ブラザースとは『2001年…』に関して以前から親密な関係にあり、彼らのためにそのドキュメンタリーを制作していたので、ちょっとした驚きを感じました。当時、「私はすべてのオリジナルネガがどこにあるか知っています。私はキューブリックの撮影現場で一緒に働いていた人間だから、君たちがやりたい修復にはぜひ協力したい」と言ったんです。しかし、彼らはクリストファー・ノーランに連絡し、私には連絡しませんでした。そうなんです、すべては会社のため。お金の問題です。

 映画の修復を行う場合、ジョージ・ルーカスやロバート・ワイズなど、そもそも映画を作った原理原則を持ち込むことが重要なんです。彼らは『スタートレック』より良くしてくれました。『ブレードランナー』でも、映画をより良いものにするための作業が行われ、私もそれに協力しました。というのも、私はすべての特殊効果の65mmネガを保管しており、それをスタジオに提供したからです。一般的に、このような修復は、映画を作った人たち、特に撮影監督の原則によって行われるものではありません。『ゴッドファーザー』を復元するなら、コッポラを呼びます。

ー今後の修復で考慮してもらいたいフィルムの最も重要な点は何ですか?

 『2001年…』について、映画制作の過程で重要視していたのは「星」の存在でした。フィルムの乳剤の一粒ほどの大きさしかない星が、35mmプリント用に複製したときに消えてしまわないかどうか、非常に気を使いました。そのためにいろいろなテストをして、消えないようにしました。そうしないと、背景が黒くなって星がなくなってしまい、意味をなさなくなってしまうからです。幸いなことに、ブルーレイを含めてその点はよく保存されています。「星」はちゃんとあります。

〈以下略〉

(全文はリンク先へ:IndieWire/2021年5月1日




 私は幸運にも『2001年宇宙の旅』70mmアンレストア版を観る機会に恵まれましたが(詳細はこちら)、その監修をクリストファー・ノーランに依頼した話を知って、「ダグラス・トランブルはキューブリックとクレジットの件で色々モメてたのでシコリがあるんだろうな」と勝手に想像していました。また、現在の若い世代に『2001年…』を知ってもらうためにも、ノーランのネームバリューに頼るというのもいい判断だと思っていました。ですが、実際はワーナー側がトランブルを「スルー」したようです。

 ノーランは『2001年…』に多大な影響を受け、フィルム撮影や保存にこだわりがあることが知られていたので、適任だったとは思いますが、単純に考えれば当時直接制作に携わっていたトランブルの方が適任だったのは間違いありません。ですが、この『70mmアンレストア版』がお披露目されたのは、2018年のカンヌ映画祭での特別上映でした。そんな華やかな場所での広告宣伝効果を考えれば、ノーランの方が適任だと判断されたのだと思います。

Cannes_2018_4
左からキア・デュリア、カタリーナ・キューブリック、 ロン・サンダース、ヤン・ハーラン、クリストファー・ノーラン。2018年カンヌ映画祭にて。

 まあ、お二人で仲良く・・・というのが理想かもしれませんが、エゴが渦巻くショービジネスの世界では、なかなかそうはならないというのは、みなさま周知の事実ですね。
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キューブリックが気に入っていたグレゴリー・ナバ監督の『エル・ノルテ 約束の地』の予告編。確かに『バリー・リンドン』の影響が伺えます。

〈前略〉

−『アイズ ワイド シャット』のスペイン語字幕を作ったというのは本当ですか?

いいえ、『フルメタル・ジャケット』のスペイン語字幕を作成しました。

 クリス・ジェンキンスという素晴らしいミキサーと一緒にトッド-AO社でミキシングをしていたんです。ミックスをしている最中に、トッド-AO社の秘書が突然電話に出て「スタンリー・キューブリックからグレゴリー・ナバに電話です」と言ったんです。私は「冗談だろ?」と思いました。クリスは「冗談はやめてくれよ」と言いました。秘書は「いや、本当に彼です」と言いました。それでミックスを止めて電話に出ました。それは本当にスタンリー・キューブリックでした。彼は電話をかけるアシスタントを持たず、自分で直接電話をかけていました。

 話をしてみると、彼は、映画が完成した後、自分の映画の海外版をすべて自分で監督していたそうです。彼は自分の仕事にとてもこだわりがあり、何でもやりたがる人でした。彼は、外国版の翻訳者を使うことが好きではなく、さまざまな国の映画制作者や作家と一緒に仕事をするのが好きだと言っていました。彼は、スペインのスペイン語とラテンアメリカのスペイン語の違いを理解しており、ラテンアメリカ版『フルメタル・ジャケット』では、ラテンアメリカのスペイン語を理解している脚本家や監督と仕事をしたいと考えていました。彼は『エル・ノルテ』の大ファンでした。彼はそれを気に入っていました。

 それで『フルメタル・ジャケット』のラテン・アメリカのスペイン語に翻訳するために、一緒に働かないかと誘われて、スタンリー・キューブリックと一緒に仕事をすることになったのです。彼は、すべての単語とそのニュアンスにまで気を配るのです。そうしているうちに、メキシコのスペイン語とアルゼンチンのスペイン語には、違いがあることを知ったのです。

 彼は私に電話をかけてきて、5時間も彼と電話をしていたんですよ。彼はとても熱心でした。やがて、とてもいい友達になって、『フルメタル・ジャケット』の字幕のことだけでなく、いろいろなことを話すようになりました。面白いことに、パンデミックの最中にガレージを漁っていたら、一緒に作業した字幕が全部出てきたんです。膨大な量の仕事でした。ですが私たちは、映画製作やカメラの動き、彼の映画についてなどあらゆることについて話したのです。

 彼は『エル・ノルテ』が大好きで、私に電話をかけてきた理由の一つは、彼が映画において何かを成し遂げたということ、例えば『2001年…』で彼が行った、特殊視覚効果の飛躍的な進歩のようなものでした。彼はただ、『2001年…』に使えると思ってやったわけではありません。むしろ、他の映画制作者のために扉を開き、他のアーティストにインスピレーションを与えることを意識していました。そしてもちろん、『2001年…』はその影響を与えました。『スター・ウォーズ』をはじめ、今日に至るまでのすべての映画は、スタンリー・キューブリックが『2001年…』において大躍進を遂げたことによって生まれたものです。

 そして『バリー・リンドン』でも彼は同じことをしました。つまり、蝋燭の光だけでシーンを照らす方法を世界に向けて発信したことです。それは現実的な方法でした。しかし、それは一過性のものに終わってしまい、他の映画監督が、自然の蝋燭の光を使ったシーンを撮るきっかけにならなかったことに、彼はがっかりしていました。

 彼は『エル・ノルテ』で、もちろん私が『バリー・リンドン』の照明にとても触発されていたのを観ました。私たちは、キューブリックが『バリー・リンドン』で成し遂げたことを、超高感度レンズを使って真似しました。彼が『バリー・リンドン』で成し遂げたことを正確に模倣することができたのです。それは『エル・ノルテ』の私にとって非常に重要でした。『エル・ノルテ』の光に政治的な意図を表現したかったからです。というのも、主人公のロサとエンリケは、蝋燭と灯油の世界からやってきたからです。グアテマラの村には電灯がなく、アメリカに来て初めて電灯に出会うのです。そして私はその映像の光がそれを示唆することを望みました。

 彼は『エル・ノルテ』を見て、「やった!『バリー・リンドン』で私がやろうとしたことを理解してくれる映画監督が現れた!」と思ったそうです。私は、他の映画監督に、この自然な照明技術を使ってもらいたいと思っていました。

 私たちは、照明について、感情や心理を表現するために照明がどのように使われているかについて、よく話し合いました。また、カメラの動きについてもよく話し合いました。彼は歴史にとても興味を持っていて、それは私も同じです。ジュリアス・シーザーや、ガリア戦争のアレシアの戦いの戦略についてよく話していました。私たちはちょうど忙しかったですが、とても親しくなり、彼とは何年も友人として付き合ってきました。

 もちろん、彼は『アイズ ワイド シャット』の外国語版ができる前に亡くなっているので、彼が不在のため、あの映画の外国語版で同じような仕事をすることはありませんでした。だから、彼と一緒に仕事をしたのは『フルメタル・ジャケット』で、その結果、彼とはとてもいい友達になりました。彼には同好の士がいて、電話で何時間も話をしたけど、彼は旅行しなかったので、突然自分のために何かをさしてくれと頼まれるのです。例えば自分の映画が上映される映画館を調べてくれとか、音をチェックしてくれとかですね。

 彼が私にさせた1つの大きな仕事のがあります。ジェームズ・ハリスが『スパルタカス』の修復を行ったので、スタンリーからそれを観に行くように、そしてそれを報告するようにも頼まれました。私はそうしました。そして私はそれが上映されていた映画館へ行き、それはセンチュリー・シティでしたが、映画館は「スタンリーキューブリックの『スパルタカス』」と掲げていました。もちろん彼はその作品を愛していましたが、彼はカーク・ダグラスがこれを自分の映画だと考えて大喧嘩をしていたので、映画館の写真を撮って送ってくれと頼まれていて、その通りにしました。

 彼はいつも私に、ちょっとした用事や雑用をさせていました。実際、私たちは『スパルタカス』やその映画がどのように作られたかについてよく話しました。彼はこの映画を公式な作品の一部としては認めていませんでしたが非常に愛着を持っていて、『スパルタカス』の制作についていろいろと興味深い話をしてくれました。私の映画制作人生の中で、最も深く重要な関係のひとつがスタンリー・キューブリックとの関係で、私は彼を師匠のような存在だと思っていました。彼は私と多くの時間を過ごし、私の映画制作や、私がやろうとしていることに関心を持ってくれました。このような素晴らしい人物の頭脳を借りることができたのは素晴らしいことでした。彼の作品は、私の他の映画や『セレナ』に非常に影響を与えました。私にとって彼は、映画史における偉大な映画製作者の中のひとりです。そのような関係を築けたことはとても幸運でしたが、彼は突然、私に電話をかけてくるのです。

−おそらく、彼の作品の中で『フルメタル・ジャケット』が最もアメリカ的な言い回しを持っているのではないでしょうか。

 そうですね。数ある汚い言葉の中でも、メキシコとアルゼンチンでは「ヤリ●ン(c**t)」の言い方が違うので、何時間も悩んだことがあります。彼との経験はとても興味深いものでした。というのも、彼は本当に、本当に細かいのです。彼は映画の中のすべてのことに関わりたがりました。彼は実際に自分の映画を撮っています。彼は『バリー・リンドン』の撮影監督だったのです。他の誰かがクレジットされていても、彼がそれをやったのです。私は彼が映画史上最も偉大な撮影監督だと思います。彼の技術とアイデアは本当に素晴らしいものですが、彼は『シャイニング』では撮影しなかったと言っていました。それは年をとって目が見づらくなったからだそうです。でも『時計じかけのオレンジ』や『バリー・リンドン』では撮影しました。彼は本当に実行する映画監督でした。

(全文はリンク先へ:Roger Ebert.com/Gregory Nava on Working with Stanley Kubrick/2021年4月27日




 数ある「キューブリック伝説」の中でも有名なのが「自作の海外版の翻訳までチェックした」というものがあります。もちろんこれは事実なのですが、ちょっと誤解されている面もあります。この記事の通り、キューブリックは「職業字幕翻訳家」を信用していなくて、それぞれの国に信頼おける自作の翻訳者を決め、その多くは映画監督など「映画製作者」であった、という事実です。日本でキューブリック作品の翻訳担当者として有名なのは映画監督の原田眞人氏ですね。

 キューブリックが字幕翻訳家(日本では戸田奈津子氏)を信頼しなかった理由はわかりませんが、おそらくセリフの微妙なニュアンスは自分と同じ映画製作者ではないと理解してもらえないと考えていたのではないでしょうか。加えて戸田氏が女性だったこともキューブリックにとっては良いことではなかったと思います。「ヤリ●ン(c**t)」(「c**t」とは女性器を指す言葉)を正しく訳すのに何時間もかかったというのですから、この仕事は女性には向かないとキューブリックが判断しても不思議ではないでしょう。キューブリックは自作をとても大切にするので、たくさんの国内外の映画観ていた中で「これぞ」と思った映画製作者に依頼をしていたようです。翻訳は記事のようにキューブリックと担当者の共同作業になり、これについては原田氏も同じ経験をされています。

 ただ、原田氏によると「ある程度進んだら任せてもらった」と語っていたので、全世界の言語の翻訳の、全部が全部を細かくチェックしていたわけではないようです。当然です。そんなことをしていたら本業の監督業をすることができません。ですので、旅行したがらないキューブリックとのやりとりは電話が主で、これは原田氏も同様でした。もしクレジットするなら「翻訳担当:◎◎◎◎、翻訳監修:スタンリー・キューブリック」というのが一番実際に近かったのではないのでしょうか。もちろんそれでも大変な負担です。でも、キューブリックは字幕で自分の意図が捻じ曲げられることを危惧していました(詳細はこちら)。それだけキューブリックは「自作を愛していた」のです。

 「自作を愛していた」のは、公式には自作と認めていなかった『スパルタカス』でも同じだったようです。つまり「気に入ってもなく、評価もしていないが愛着はある」ということです。この心理は同じクリエーターの方なら共感できるのではないでしょうか。いくら「黒歴史」とわかっていても、やっぱり自作には愛着があるものです。キューブリックは劇映画処女作『恐怖と欲望』のフィルムを回収し、すべてを闇に葬ろうとしましたが、それもまた「自作を愛するがゆえ」の行為だったのかもしれません。

 「突然電話をしてきて何かを頼まれる」というのも、キューブリックの周りにいた人たちの共通する体験です。『アイズ…』の脚本担当だったフレデリック・ラファエルや、『時計…』の音響を担当したドルビー社のヨアン・アレンも、全く同様の体験をインタビューで語っています。「キューブリックから電話がかかってくる」というのは、キューブリックのその人に対しての信頼と愛情の証でした(たとえ当人が迷惑がっていたとしても。笑)。逆にその信頼を裏切った相手にはとことん辛辣で、完全没交渉を貫き通しました。それにはマルコム・マクダウェルやアンソニー・バージェスが該当します(もちろんカーク・ダグラスも)。マルコムがインタビューのごとに態度を軟化させていったのは、おそらくそれに気づいたからではないかと思っています(マルコムは「あれ(悪口)は電話してくれという意味だった」と後に語っています)。

 キューブリックはよく複雑なパーソナリティの持ち主だったように語られるのですが、実際のその言動はシンプルを旨としていたように感じます。もしかしたら複雑なのはキューブリックではなくて映画製作というプロセスの方だったのかもしれません。こうして身近な関係者が語るキューブリック像はそれを示唆していますが、それはキューブリック作品も観ても感じる「究極のシンプルさ」「ミニマムさ」にも通ずるものがあります。ですがそこに辿り付くまでには膨大な量の情報処理と、いくつもの選択肢をくぐり抜けなければならない・・・。ひょっとしたらキューブリックはそんな風に考えていたのかも知れませんね。
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 アルフレッド・ヒッチコックから黒澤 明まで、オスカーはこれまでにいくつもの過ちを犯してきました

 「アカデミー賞受賞」というキーワードは、実に偉大なパワーを持っています。これを受賞することは、まさしく偉業…大きな業績となります。俳優や監督にとってはギャランティが大幅に増えることを意味し(ハル・ベリーの『キャットウーマン』の出演料が1400万ドルだったことがその証拠です)、受賞した映画はチケットやレンタルによる売り上げが大幅にアップするのですから。

 ですが、このように金銭的なメリットやその場で得られる賞賛は得られるものの、この受賞はクリエイターたちにとって肥やしとなる、本当に役立つものなのでしょうか? そして「その栄光は本物なのか?」「忖度が優先されていないか?」とも考えてしまいます。

〈中略〉

 キューブリック監督はこれまで、作品賞に3回ノミネートされましたが、一度も受賞はしていません。さらに、おそらく他のどの作品よりも作品賞を受賞するはずだった『2001年宇宙の旅』は、1969年の第41回アカデミー賞でノミネートすらされていなかったのです。

 この年、キューブリック監督は監督賞にノミネートされましたが、サー・キャロル・リード監督の『オリバー!』(同年の作品賞も受賞しています)に敗れ、『2001年宇宙の旅』は特殊効果賞の受賞にとどまりました。

 『2001年宇宙の旅』は確かに、アカデミー賞にアピールするにはあまりにも実験的で突飛な作品であり、キューブリックの映画は一般的で古き良き時代の映画に反するものだったというわけです。

 『時計じかけのオレンジ』は『フレンチ・コネクション』に敗れ、『カッコーの巣の上で』は『バリー・リンドン』(※正しくは『バリー・リンドン』は『カッコーの巣の上で』)に敗れています。他にも1965年には、『博士の異常な愛情』がジャック・ワーナー監督の『マイ・フェア・レディ』に敗れ、1988年には『フルメタル・ジャケット』が落選するなど、ついに正義の審判は下されませんでした。

〈以下略〉

(全文はリンク先へ:Esquire/2021年4月28日




 オスカーシーズンには必ずと言っていいほど話題になる「オスカーを手にしていない偉大な監督」という話題ですが、この記事ではキューブリックの他にはオーソン・ウェルズ、黒澤明、スパイク・リー、クエンティン・タランティーノ、アルフレッド・ヒッチコックの名前が挙がっています。

 キューブリックはオスカーを手にしたがっていましたが、それは興行にも良い影響があると考えていたからです。もちろん名誉欲も全くなかったわけではないでしょう。ですが、「ハリウッドの異端」としてその名を轟かせながらもイギリスに住み続け、『2001年…』がノミネートされた1969年の第41回アカデミー賞の会場に姿を見せなかった(代わりにクラークが出席した)キューブリックに、アカデミー会員が良い印象を持っていたとはとても思えません。

 映画産業というのは巨大な利権で、ハリウッドはそれで動いている世界でもあります。キューブリックほどの影響力がある監督がハリウッドで映画を作れば、潤う映画関係者というのは非常に多いのではないかと想像します。ですがキューブリックはそうしませんでした。そういった「ハリウッドのしがらみ」に生涯背を向け続けたのです。そんなキューブリックに対してアカデミー会員が「仕事をよこさない奴にこっちが賞を与える義務などない」と考えるのは至極当然と言えるでしょう。「賞」というものに夢をみてはいけません(マスコミは夢しか語りませんが)。何事にも「利権」「利害」というものは見え隠れするものです。多くの映画ファンがアカデミー賞を「茶番」と断ずるのはそれが主な理由ですが(最近は人種問題やジェンダーに振り回され、さらにその「茶番」が加速している)、正統な映画評論家が姿を消し、映画「コメンテーター」が幅を利かせている現在の映画マスコミもすっかりその利権構造に取り込まれ、その「茶番」の片棒を担いでいる姿は正視に耐えません。ですが、それが最近ネット配信に押されつつある映画産業を支えているというのも、紛れも無い事実なのです。

 そういう現実を理解した上でも、アカデミーに対してはやはり苦言を言わざるを得ません。つまり、今秋開館予定の『アカデミー博物館』におけるキューブリックの厚遇ぶりについてです。オスカーではキューブリックを冷遇しつつ、そのネームバリューと影響力が金を生むと知るや、ちゃっかりそれを利用する・・・。まさしく「巨大な利権構造」そのものの思考ですが、それならそれでもういい加減、公式の場でキューブリック個人に対して何らかの賞を贈るべきです。せめて妻のクリスティアーヌが存命のうちに(クリスティアーヌはハリウッドの華やかな世界に憧れがあったそうだ)。そうでないと、あまりにもキューブリックやその関係者(特にキューブリックに心身ともに尽くしたレオン・ヴィタリ)が可哀想だと、私は思います。

2021年4月30日追記:誤解があるといけませんので、私個人のアカデミー賞に関する意見の経緯をご説明いたします。まず、2013年のこの記事「お願いだから「アカデミー特別賞」なんて中途半端な代物を贈る事なく、死して後も尚「ハリウッドに背を向け続けた映画界最大の巨匠」であり続けて欲しいものです」と書いた通り、私はこの頃までは「キューブリックに(いまさら特別賞的な)アカデミー賞は不必要」という立場でした。しかし、2015年になってアカデミーが『2001年宇宙の旅』のアリエス1B宇宙船の撮影モデルを4000万円で落札したり、アカデミー博物館の公式サイトのトップページに『シャイニング』を登場させたり(ちなみに『シャイニング』はアカデミー賞に全く絡んでいません。ラジー賞には絡みましたが。笑)、博物館のTVCMを『シャイニング』のパロディにしたりと、大々的にキューブリック作品をフューチャーしていることを知ります。加えて博物館はアリエス1Bだけでなく、私が知る限り『シャイニング』でジャック・ニコルソンが着用した赤いジャケット、使用された斧、『2001年…』の月面用宇宙服とヘルメットも収蔵しています。ここまで露骨にキューブリックに「すり寄って」こられると、さすがにいちファンとして釈然としないものを感じずにはいられません。上記の「せめて・・・公式の場でキューブリック個人に対して何らかの賞を贈るべき」とは、そういう経緯があってのことだと、ここでお知らせしておきたいと思います。
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1968年、サードアルバムのジャケット写真用フォトセッション時のドアーズ。左からジョン・デンズモア(ドラム)、レイ・マンザレク(キーボード)、ジム・モリソン(ボーカル)、ロビー・クリーガー(ギター)。

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閉鎖が決定してしまった、パシフィック・シアターが運営していたロサンゼルスにあるシネラマドーム。

〈前略〉

 それは『2001年宇宙の旅』の初日(※レイの記憶が正しければ1968年4月10日か11日)で、誰かがドアーズに6枚ほどのチケットを用意してくれたんだ。午後はリハーサルがあったので、7時からの上映だった。ジョン(・デンズモア)、ロビー(・クリーガー)、ジム(・モリソン)、ドロシー(※のちにマンザレクの妻になるドロシー・フジカワ)、あと誰だったか忘れたけど、車に乗ってハリウッドのシネラマスクリーンのある劇場に行ったんだ。

 マリファナを吸って劇場に入ると、そこは満員だった。残っている席は最前列だけだ。ここは映画を見るのには一番よくない場所だ。バランスが悪い。理想的なのは真ん中に座ることだ。で、最前列に座って「ああくそ、どうしよう。ラリってるし、座って映画を見よう」と思ってたんだよ。

 結果的には最高の席になったよ。スクリーンの前に座ると、目の前には宇宙しかなく、そこに猿がいて、日の出があって、キューブリックのやり方には圧倒されたよ。私たちは口をあんぐり開けて座ってるだけだった。あのオープニングと音楽は本当に素晴らしかった。モリソンは、最初の2分間、猿が出てくる直前のシークエンスが終わって黒くなったところで立ち上がって、「今まで見た中で最高の映画だ、もう行こう」と言った。

 「座れよジム、コメディアンかよ」と言ったんだ。

(全文はリンク先へ:VARIETY/2021年4月14日




 映画館チェーンのパシフィック・シアターが廃業し、シネラマドームを閉鎖するというニュースが最近報じられ、残念に思っていましたが、なんとドアーズのキーボーディスト、レイ・マンザレクが1968年のシネラマドームでの『2001年宇宙の旅』の初日をメンバーと観たという記事がありましたのでご紹介。

 さて、1998年にパリにあるジム・モリソンの墓におもむき、2003年の伝説のサマソニで再結成ドアーズを観ている管理人が張り切ってご説明(笑)いたしますと、このドアーズというバンド、1967年にロサンゼルスでデビューしたロックバンドで、『2001年…』が公開された1968年4月は、サードアルバム『太陽を待ちながら(Waiting for the Sun)』を録音していた頃です。ですのでメンバー全員揃って、録音スタジオから今一番ホットな映画『2001年…』を観に行ったんでしょう。実はこのエピソード、ドラマーのジョン・デンズモアが著した自叙伝『ドアーズ(Riders on the Storm)』の中に、ほんの少しだけ記述があったのですが、それにはメンバー全員で行ったとは書かれていませんでした。ですので、ジムが『2001年…』を観たのかはっきりしなかったのですが、これでその事実があったことが明確になりました。

 この時メンバーが録音していたサードアルバム『太陽を待ちながら』は、実はあまり出来の良いアルバムではありません。なぜならアルバム片面を埋める大作『セレブレーション・オブ・ザ・リザード』が『大地に触れずに(Not to Touch the Earth)』のセクションを残してボツになったからです。ドアーズはそれまでファースト『ドアーズ』での『ジ・エンド』、セカンド『ストレンジ・デイズ』での『音楽が終わったら(When the Musics Over)』と、長編の曲を収録してきました。ですがそれがサードの『太陽…』では不可能になったのです。加えてジムの飲酒癖(ジムの問題はドラッグではなくアルコールだった)や創作モチベーションの低下、女性問題、正体不明の取り巻きとの乱痴気騒ぎなどもあり、その結果、中途半端なアルバムが出来上がってしまったわけです。ですがそれはまだいい方で、次の『ソフトパレード』はさらに・・・これ以上はやめておきましょう(笑。

 さて、これで当時の「ヒッピー文化」「サイケデリック・ムーブメント」に『2001年…』が受け入られていたことがより明確になったわけですが、誤解ないように申し添えますと、ドアーズはこの「ヒッピー文化」とは距離を置いていました。ドアーズは「モンタレー」にも「ウッドストック」にも呼ばれていません。メンバーもサウンド的にはどちらかというとアッパー系よりダウナー系と感じていたらしく、西海岸より東海岸の都市で人気があったそうです(ジムが初めて逮捕されたニューヘイブンも東海岸)。ですのでドアーズを「サイケ」とカテゴライズするのは間違っていると言えます。それは『2001年…』を「サイケ映画」とカテゴライズするようなものだと言えば、キューブリックファンの方にはニュアンスを理解していただけるのではないかと思います。

 キューブリックやクラークは「ヒッピー文化」「サイケデリック・ムーブメント」には与しませんでしたが、世の中全てが「狂って」いた1960年代後半の巨大な「うねり」には、いくらキューブリックといえども無関係ではいられませんでした。それは次作『時計じかけのオレンジ』でより明確になるのですが、「サイケ」を知らない世代はそれを「アート」と一括りにしてしまう傾向があります。それは正しくないし、誤解を招きやすいので、この時代を語るには避けて通れない、「サイケデリック・ムーブメント」とはいかなるものだったのかを、ぼんやりとでもいいのでイメージを持っておくと、この時代の映画や音楽を追体験する際にとても役に立つと私は思います。
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2001年発売の特典DVDドキュメンタリー『ア・ライフ・イン・ピクチャーズ』で元気にインタビューに応えるシェリー・デュバル。引用記事の写真はこの頃の彼女がそのまま年齢を重ねたように見える。

キューブリックがシェリーをウェンディ役に抜擢したきっかけになった作品『3人の女性』。

〈前略〉

 『3人の女性』のクライマックスは、医者を呼んでくれというミリーの頼みを無視して、ピンキー(シェリー・デュバル)が見守る中、無気力なミリーが死産を強いられるという生々しいシーンです。このシーンには生々しい恐怖があり、キューブリック監督は、コロラド州のロッキー山脈にある幽霊ホテルを舞台にしたスティーブン・キングの小説を映画化するにあたり、デュバルを妻役として起用することに決めました。デュバルは、会ったことのないキューブリック本人(「彼は私が泣くのがうまいと言った」)からの電話でオファーを受けました。台本はありませんでした。キューブリックはシェリーにキングの小説『シャイニング』のコピーを送り、それを読むように言いました。

 デュバルは当時、マンハッタンでポール・サイモンと暮らしていました。「本当に怖い場面で、ポールが入ってくるのが聞こえなかった。彼は後ろから忍び寄ってきて「ちぇっ!」って言ったの。「わっ!」「なぜそんなことをしたのって言ったの」。2年間一緒に暮らしていた2人ですが、次第に疎遠になっていきました。1ヶ月後の1979年(1978年の間違い?)の元旦、デュバルが『シャイニング』の撮影を始めるためにロンドンへ向かうコンコルド機に乗ろうとしていた時、空港でサイモンは彼女と別れました。彼女は大西洋を横断する旅の間ずっと泣いていましたが、この先に待ち受ける感情的なマラソンのための単なるウォーミングアップに過ぎなかったことがわかります。彼女がロンドンに到着すると、キューブリックは娘のビビアンを連れてデュバルに会いました。「私たちは素敵なディナーを食べて、それだけでした」とデュバルは言います。「残りの時間は仕事をしていました」。

 『3人の女』が撮影開始から終了まで6週間を要したのに対し、『シャイニング』は56週間を要しました。これは1979年2月にEMIエルスツリー・スタジオで発生した火災が原因の一つで、当時建設されたオーバールック・ホテルのセットが焼け落ち、再建が必要になったからです。しかし、それはキューブリックの有名な厳格なプロセスによるものでもありました。スケジュールは過酷で、監督は週6日、1日最大16時間の撮影を行いました。その間、デュバルは、雪に覆われたリゾートホテルの中で、最終的には家族を斧で切り刻もうとする正気を失った作家(ニコルソン)の妻を演じ、絶対的なヒステリー状態になるまで自分自身を追い込む必要がありました。当時ガールフレンドだったアンジェリカ・ヒューストンと一緒にロンドンの自宅を借りたニコルソンとは異なり、デュバルはハートフォード・シャーのスタジオ脇にアパートを借り、撮影期間中は犬と2羽の鳥と共に暮らしていました。「誰もそんなことはしないわ」と69歳のハッストンは言います。「ロンドンへの行き来では2時間の渋滞に巻き込まれるかもしれないのに」。しかし、シェリーは1年半の間、そのようなことをしていました。彼女は自分でアパートを買ってそこに住んでいました。とても献身的だったからです。自分や他の人を犠牲にしたくなかったからです」

 デュバルは「(キューブリックは)少なくとも35テイク目までは何も撮影しません。35テイク、走って泣いて、小さな男の子を抱きかかえる。大変でした。最初のリハーサルから本番まで。難しいです。シーンの前には、ソニーのウォークマンをつけて悲しい曲を聴くんです。あるいは、自分の人生の中でとても悲しいことや、家族や友達がいなくて寂しいことを考えたりするんです。でも、しばらくすると体が反発してくるんです。〈私にこんなことをするのはやめて。毎日泣きたくない 〉と。その思いだけで泣いてしまうこともありました。月曜日の朝にとても早く起きて、一日中泣かなければならない予定だったことに気づきました。私はただ泣き始めました。〈いいえ、無理だ、無理だ 〉。それでもやってしまいました。どうやってやったんでしょう。ジャックもそう言っていました 〈どうやってやったのか分からない 〉って 」。

 キューブリックが彼女の演技を引き出すために、彼女に異常で残酷な行為や虐待をしたと感じたかどうかを聞かれ、デュバルはこう答えています。「彼はその気質を持っています。彼は確かにそうなんです。でもそれは、過去に誰かが彼にそういう態度をとったことがあるからだと思います。彼の最初の2作は『非情の罠』と『現金に体を張れ』でした」。私は彼女にそれが何を意味するのかを聞いてみました。キューブリックはスキャットマン・クローザース演じる親切なシェフ、ディック・ハロランよりもジャック・トランスだったのでしょうか?「いいえ、彼はとても温かくて親切でした」と彼女は言います。「彼はジャックと私と一緒に多くの時間を過ごしました。クルーが待っている間、彼はただ座って何時間も話したがっていました。クルーは「スタンリー、60人ほど待っているんだけど」と言っていました。でもそれもとても重要な仕事でした。

 しかし、ヒューストンが覚えているように、監督は、そしてニコルソンは、デュバルに過度に乱暴な態度をとることがあったそうです。「当時、ジャックが言っていたことですが、シェリーはこの作品の感情的な内容に対処するのに苦労していたように感じました。そして、彼らは同情的には見えませんでした。それは、少年たちがいじめているように見えました。それは完全に私の状況に対する読み違いだったかもしれませんが、私はそう感じました。あの頃の彼女を見ていると、全体的に少し拷問されているような、動揺しているような感じがしました。誰も彼女に気を使っていなかったと思います」。それでも、最終的に出来上がった作品の強烈な力を否定できないとヒューストンは認めています。「彼女は実際に映画を背負っていたんだんです。ジャックは、ある種の喜劇的なものと恐ろしいものとの間で揺れ動き、キューブリックにとって、それが最もミステリアスで興味をそそるものでした」とヒューストンは言います。「しかし、彼女がその混乱の真っ只中にいることは大変だったに違いありません。そして彼女はそれを引き受けました。彼女は信じられないほど勇敢だったと思います。」

 『シャイニング』には、ギネス世界記録になった「セリフのある1つのシーンのほとんどがリテイク」のシーケンスがあります。クローザースとダニー・トランスを演じた幼い俳優のダニー・ロイドが、ホテルの恐ろしい過去をイメージできる超能力である「輝き」について話し合っているシーンです。キューブリックは俳優に148回それをさせました。しかし、もう1つはるかに要求の厳しいシーンである階段のシーンは127回撮影されました。「それは難しいシーンでしたが、映画の中で最高のシーンの1つであることがわかりました」とデュバルは言います。「もう一度映画を見たいです。久しぶりです」

 彼女の提案で、私はシーンをグーグルで検索し、彼女の車のダッシュボードにiPhoneを置いて再生ボタンを押しました。71歳のデュバルが30歳の自分にジャック・ニコルソンが「脳天をかち割る」と脅されて、弱々しくバットを振るのを見ている体験を忘れることはないと思います。

「なんで泣いているの?」とデュバルに聞いてみました。

「これを約3週間かけて撮影したからです」と彼女は答えます。「毎日。とても大変でした。ジャックはとても良かったですが、とても怖かったです。私は何人もの女性がこの種のことを経験するか想像することができるのです」

〈以下略〉

(全文はリンク先へ:Hollywood Reporter/2021年2月11日




 シェリーにとってこの『シャイニング』での経験はとても大変だったことは否定できません。そしてキューブリックはシェリーに対して特別厳しく当たったことも事実です。実はキューブリックが俳優に対して公衆の面前で、こんなにも高圧的で接したのはシェリー以外にいません。キューブリックはたいていの場合は俳優をセットの隅に引っ張っていき、そこで一対一で話し合うというのが常でした。しかしシェリーの場合は違いました。その理由は証言がありませんので推察するしかありませんが、ヒントは伺うことができます。それは『シャイニング』のメイキングのドキュメンタリー、『メイキング・オブ・シャイニング』にあります。

 『メイキング…』でのキューブリックとシェリーのやりとりは非常に激しいものがあります。キューブリックが「皆の時間をムダにするな」と言えば「このクソドア」など、シェリーもキューブリックに食ってかかっています。このインタビューの通り、キューブリックはシェリーをオーディションなしでキャスティングしました。それは「いじめられやすそうな女性」というキューブリックが望んだウェンディのキャラクターにぴったり(原作では自立した強い意志を持つ美女)だったからです。しかし、当のシェリーは非常に気の強い女性でした。それは『メイキング…』でも、本編『シャイニング』でも見て取ることができます。多くの場合、シェリーの演技はキューブリックが言うように、「本当に怖がっているように見えない」のです。特に顕著なのはジャックが食糧倉庫に閉じ込められ、「雪上車を見に行ってみろ!」と煽るシーンです。「なあに?」と振り返るシェリーの表情にはあきらかに「演技」の要素が見えます。また、有名なトイレのドアをぶち破るシーンも本当に怯えているようには見えません(その反面、階段で言い争うシーンは素晴らしい演技をしている)。キューブリックはシェリーから漂ってくる「演技臭さ」を消そうと躍起になっていました。ですが、それは完全に成功したとは言えず、キューブリックも最終的には妥協を強いられたのだと思います。

 シェリーはルックス的、持っている雰囲気的にはキューブリックが望む「いじめられやすそうな女性」にぴったりでした。キューブリックが想定外だったのはシェリーの「気の強さ」であり、それが「演技から透けて見えてしまう」点でした。忍耐と妥協を強いられたのはキューブリックも同じだったと思います。そのことはおそらくシェリーも気が付いていたんでしょう。それは上記の記事に「シェリーはこの作品の感情的な内容に対処するのに苦労していたように感じました」にある通りです。

 シェリーがポール・サイモンと同棲していたという話は初めて知りました。父親は1995年に74歳で死去、母親はコロナで昨年3月に亡くなり、1994年1月17日のノースリッジ地震で被災者になってしまったことも知ることができました。シェリーは2002年頃まで女優業やプロデュース業に活躍していましたが、それ以降パタリと姿を見せなくなります。それが久しぶりに表舞台に登場したのが、2016年11月にあの悪名高いフィル博士の番組で、精神疾患を患っている姿を晒し者にされた時です。これには数多くの非難の声が挙がりました(かつて一緒に仕事をしたキューブリックの娘、ヴィヴィアンも激しく非難した)。シェリーの精神疾患の原因は定かではありませんが(キューブリックが原因とする批判も目立ちましたが、それを言うならなぜシェリーは『シャイニング』以降、2002年まで元気に映画業界で活躍できたのかを、説得力ある知見で説明して欲しいものだ)、現在のシェリーは安定しているようだし、映画業界にも未練はなさそうなので、このまま穏やかな隠居生活を送って欲しいものだと思っています。

 なお、記事には『シャイニング』マニアのリー・アンクリッチ監督が『シャイニング』の詳細なメイキング本を制作中のとの記述があります。それが『2001年宇宙の旅』の『2001:キューブリック・クラーク』のような良著になることを期待しつつ、この記事をお読みになった出版関係者の皆様には、是非とも邦訳をお願いしたいですね。
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