初期ドキュメンタリーフィルム

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 私は地元ブロンクスの野球チーム「バラクーダーズ」に所属していた。時折、同じくらいの年齢の男が遊びに来ていたが、その男はあまり良いスポーツマンではなかったので、チームのメンバーは彼が試合に加わることを嫌がった。しかし、私は「入れてあげなよ!」と言って彼を参加させた。その男がキューブリックだった。

 キューブリックが最初の短編映画(『拳闘試合の日』)を作った時、私が音楽家(ジュリアード音楽院オーボエ専攻)であることを知り、その作品のための映画音楽の作曲を依頼された。快諾したが、私はそれまで映画音楽を作曲したことがなかったため、多くの映画を見ることで勉強し始めた。その短編映画はRKOに買い取られ、それが私の映画音楽作曲家としての出発点となった。 

 当時は現在のように映画音楽を教える大学やクラスはなかったため、独学しかなかった。よって映画を見続けることで勉強し続けた。例えばバーナード・ハーマンがあるシーンで流している曲が、画にマッチしていなかった。つまり、そのシーンでハーマンが、目には見えない映画の登場人物の気持ちや心理を曲で表現していることを知った。場面で曲を終わらせる時も、そこには終わらせる必然性がなければならないことを私は知った。つまり映画音楽の文法を理解し始めた。やがて私は学ぶだけではなく、プロの作曲家の仕事や、映画内でのそれの使い方を自分なりに分析、批評するようになり、より映画音楽の手法を身につけた。

 キューブリックが「キューブリック」になりうる前は、私に自由に作曲をさせた。2本目からキューブリックは少しづつ自分のアイデアを出すようになり、徐々に要求も高くなって来た。3本目では既に私たちは激しく議論するようになっていて、それはどちらかが打ち負かされるまでの「ノックアウト・バトル」になった。その時期までにキューブリックは、自己の趣味とスタイルを作り上げる過程にいた。

 キューブリックは議論をする相手としてはハードであり、同時に賢くて才能があった。私たちは議論をしたものの、大体は意見の一致に至った。『突撃』で私はキューブリックのアイデアや意見に合わせると同時に、自分でも全てに納得のいく仕事ができて興奮した。

(ここからはフリード個人の作風の説明になるので省略。フリードのスタイルは『現金に体を張れ』で確立し、同作のメインテーマは彼のトレードマークになったとのこと)

翻訳協力:カウボーイさま




 キューブリック初期作品の音楽を担当したジェラルド・フリードのインタビュー動画がありましたのでご紹介。フリードとキューブリックはタフト高校時代、共通の友人であるアレキサンダー・シンガーを通じて知り合い、キューブリックの初ドキュメンタリー映画『拳闘試合の日』の音楽制作を依頼されたのを皮切りに(フリード曰く「彼は私以外に音楽家を知らなかったから。笑」)、『恐怖と欲望』『非情の罠』『現金に身体を張れ』『突撃』のサウンドトラックを担当しました。一般的に『突撃』は、キューブリックが書いた脚本にカーク・ダグラスが感銘を受け、制作を熱望したと伝わっていますが、フリードによると、カークは同じドイツで『バイキング』の撮影があり、その合間に『突撃』も撮影できるから、というのも理由だったそうです。

 『突撃』以降、キューブリックとフリードは一緒に仕事をすることはありませんでしたが、偶然にもキューブリックが『2001年宇宙の旅』を制作するにあたり参考に観た映画『To the Moon and Beyond』を担当したのもフリードでした。また、後年まで手紙などの交流はあったそうです。

 フリードはその後、『スター・トレック・シリーズ(TV・映画)』『スパイ大作戦』『ルーツ』などのサウンドドラックを担当、『トランスフォーマー:ダーク・オブ・ザ・ムーン』に楽曲提供するなど現在もコンポーザーとして活躍中です。
 
▼この記事の執筆に当たり、以下の記事を参考にいたしました。
A Friendship Odyssey: Stanley Kubrick and Gerald Fried
GERALD FRIED ON STANLEY KUBRICK
Gerald Fried:IMDb
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ccc
赤丸で囲った人物がキューブリック。

 キューブリック初の映像作品『拳闘試合の日』はキューブリックが中心になって友人を巻き込んで制作されたドキュメンタリーですが、それに協力したキューブリックの高校時代の友人、アレキサンダー・シンガーによると、試合のシーンはキューブリックとシンガーが交代で撮影をしていて、ちょうどKOの場面はシンガーが撮影し、キューブリックはその時フィルムを交換中だったそう。それが上記のシーンになります。

 『拳闘試合の日』の動画はYouTubeで観る事ができる場合がありますが、アップされては削除されるという事を繰り返しています。なんらかの形でオフィシャルに観れる環境を整えて欲しいものです。
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オムニバス:ミスター・リンカーン
Omnibus / Mr. Lincoln
The Birth and Death of Abraham Lincoln


制作年:1952年
制作:リチャード・ド・ロシュモン
台本:ジェームズ・エイジー
出演:ロイヤル・ダノ(リンカーン)

 リンカーンの生涯を描く全5話からなるテレビ作品。NBCのテレビシリーズ「オムニバス」のために制作された。1951年夏、『恐怖と欲望』を製作中、資金難に陥ったキューブリックはド・ロシュモンに助けを求め、この作品の第2班監督の仕事をもらった。

『フィルムメーカーズ スタンリー・キューブリック』より)


 よくフィルムが残っていましたね・・・。1951年の夏といえば、『恐怖…』の撮影をカリフォルニアで終えた直後。どうやらすでにこの時点で資金が底を尽き、ポストプロダクションの資金捻出のために、当時キューブリックの後見人的立場だったド・ロシュモンにこの仕事を紹介してもらったそうです。キューブリックは「僕らは実はド・ロシェモンの子供だよ」とロシュモンの妻に語り、『突撃』の頃になってやっとこの頃借りた500ドルを全額返済しています。キューブリックはその際「自分が将来しかるべき立場に立ったときに、援助を受けるべき若い監督に出会ったら、ド・ロシュモンを手本にしたい」とメモを添え、ド・ロシュモンは返信の手紙で「いまやアメリカで一番ホットになった若い監督への賭けが終わったことを惜しくさえ感じる」と書き、結びに『ロリータ』の映画化を薦めていたそうです。

 キューブリックのキャリアの初期の頃、重要な存在だったリチャード・ド・ロシュモンとのちょっといい話、ですね。
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 キューブリックが1953年6月に船員国際労働組合の広報用に撮影技術だけを提供したドキュメンタリー。クレジットには「監督・撮影」とあるが、実際には雇われ仕事として撮影を担当したに過ぎなかったようだ。もちろん編集も担当していない。

 当時25歳のこの時点でドキュメンタリー映画3本(内1本は未確認)、劇映画を1本製作していたキューブリックは、初めてカラー作品あるにも関わらず、海千山千の海の男たちを向こうに回して堂々とカメラを回していた事にまず驚く。これは年配のベテランカメラマンの仕事と言っても誰一人疑う者はいないだろう。キューブリックは以前勤めていたルック社の得意先であるアメリカ労働総同盟から、メキシコ湾岸地域事務所の広報映画を作りたいとのオファーがあり、これを引き受けたようだ。

 内容は特に特筆すべきものはなく、組合の活動内容の紹介に終始し、関係者以外にとっては退屈以外の何物でもない。並々ならぬ映画への情熱とこだわりがあったキューブリックが、単なる広報映画のオファーを引き受けた理由は分からないが、カラー撮影の経験ができる、この春に公開になった初めての劇場用作品『恐怖と欲望』の制作費の穴埋めになる等の考えがあったであろう事は容易に想像できる。それだけキューブリックは自らの映画監督としての才能に賭けていたのだ。そのためならこの程度の撮影技術の提供なら致し方ない、と割り切っていたのではないだろうか。

 ただ、最大の誤算はその後あまりにも偉大な監督になりすぎてしまい、本来なら時の彼方に埋もれて、忘れ去られてしまう筈のフィルムがこうして陽の目を浴びてしまったことだろう。クライアントである船員国際労働組合のサイトに堂々と、しかも誇らしげにアップロードされているさまをキューブリックが知ったら、さぞかしバツの悪い思いをするに違いない。
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 キューブリックが生まれて始めて製作・撮影・監督した映像作品は、映画館で上映されるニュース・フィルムという形で実現した。その後の映画監督してのキャリアは、全てこの16分のモノクロ短編映画から出発したという意味で、非常に価値のある、記念碑的作品だ・・・とはいえ、観ていただければ分かる通り、当時のニュース・フィルムの範疇を超えるものではなく、ごく当たり前でありきたりな物。キューブリックが製作したものでなければ時の彼方に忘れ去られ、棄てられていたであろう。

 ただし、この時キューブリックはまだ21歳。そんな若造が制作費3900ドル(約140万円。ただし実際は4500ドルかかったという話も)を自力で調達し製作、それを配給会社に4000ドル(約144万円)で売りつけるという事をやってのけたのであり、この事実だけでも特筆に値する。21世紀の現在でも、ここまでの強い自信と野心を持って行動できる若者がどれほどいるだろうか。

 映像的には洗練され、当時のプロの水準に達していることは疑いない。登場するボクサーとマネージャーは個人的にも交流のあった双子の兄弟。キューブリックは映像デビューするにあたり一番身近でコントロールしやすい取材対象を、スタッフも身近な友人・知人ばかりを集め、なおかつ金銭面も自己資金で賄い、不足分は父に借りるなどリスクを最小限に抑えて作品を創っている。一見保守的で後ろ向きな方法と思われがちだが、要するに全て自分のコントロール下に置きたかったのだろう。失敗できないというプレッシャーもかなりあったに違いない。

 「成功しても失敗してもリスクは全て自分が負う。そのかわり自分の作品に関する事柄には全て関与する」この方針はこのデビュー作以降、『スパルタカス』を除き生涯変わることはなかった。
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