キューブリック作品論

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時計じかけのオレンジ (ハヤカワ文庫 NV 142) [文庫](amazon)

第21章が掲載されていない旧版『時計じかけのオレンジ』

 ここで小説『時計…』と映画版『時計…』の制作から公開後の経緯と、バージェスの反応について考察し、推論を展開してみた。だが今度は問題の第21章そのものについて考察し、全く個人的な想いではあるが、ある結論を記してみたい。

 この第21章、読んでいただければ分かるように、それまでのトーンと全く整合性がとれていない。ここに描かれている部分には、権力者も、反権力者も登場しない。あの収監と治療と自殺幇助と逆治療の日々がまったく「なかった」かのような扱いをされている。しかも他の章に比べて極端に短い。まるでやっつけ仕事のようにさえ感じてしまう。

 もし、バージェスが本気で希望を持った終わり方にしたいと思ったのなら、アレックスがどうやって権力者や反権力者の思惑から抜け出し、自由と自立を勝ち取るか描くはずだ。小賢しいアレックスの事である。内務大臣の宣伝担当という役柄を最大限逆利用するとか、収容されている反体制グループを解放、煽動し権力者にぶつけるとか、なにか新しい仲間〈ドルーギー〉と共に行動を起こすに違いない。そうやって両者にたっぷりと仕返しをした後のこの21章なら充分納得できる。だが今の第21章では単なる権力の犬のままだ。その権力の犬のまま嫁を捜して結婚し、大人になって暴力から卒業する・・・もしかしてこれがバージェス流のブラックな結末のつもりなのだろうか?権力者が個人の尊厳を踏みにじってまで強要したルドビコ療法は間違ってました。市内に警察官を多く配置したら治安は良くなりました。それに若者は大人になればいずれ暴力はやめるのだから、自然に任せておくのが一番いい。そんな結末を読者に信じろと?

 冗談ではない。暴力は生きる力だ。暴力性こそ人間性だ。暴力性を否定する事は人間性を否定する事だ。暴力性は老若男女誰もが持ち合わせている。権力も暴力だ。反権力も暴力だ。暴力を止めるのも暴力だ。宗教も言論も暴力だ。世界は暴力で溢れている。それが現実だ。それから目を背けるな。第20章までバージェスはそう描いていたではないか。それが何故突然第21章で「大人になったから暴力から卒業」で終わってしまうのだ?

 キューブリックはこの件に関して

 「それ(第21章)は納得のいかないもので、文体や本の意図とも矛盾している。出版社がバージェスを説き伏せて、バージェスの正しい判断に反して付け足しの章を加えさせたと知っても驚かなかった」

(『ミシェル・シマン キューブリック』より)


と1972年のインタビューで語っている。この時、出版社の編集担当者がどう説き伏せたのかは分からない。ただバージェスは60年代始めはまだ経済的に恵まれてはいなかっただろうことは推察できる。「本を売りたければハッピーエンドにした方がいい」そう言われたら従ってしまうだけの素地はあったかも知れない。また辛い経験を基に執筆したので、この作品に対してあまり思い入れもなかったのかも知れない。そんな投げやりな気持ちのままこの第21章が書かれたというのなら、充分に納得できるし理解もできる。

 それにアメリカでの【完全版】の出版時期(1986年)の遅さも気になる要因の一つだ。バージェスは自著を【完全】に取り戻すのになぜ20年以上もかけてしまったのだろうか。もしかしたら本心では【旧アメリカ版】こそが本来の『時計…』だと思っていたからではないだろうか。バージェスが頑にこの第21章にこだわり、それを削ったアメリカの出版社やキューブリックを批判していたのは周知の事実だ。だがそれは本当に本心からの言動だったのだろうか・・・それも本人が死去してしまった今となっては闇の中だ。

 以前ここでは確証がないという理由もあって「違和感・微妙」という表現を用いた。ただ個人的な話をすれば今後も【完全版】を手にする事はないだろう。自分にとって『時計じかけのオレンジ』とは小説も映画も第20章で終わっているからだ。第21章まであるのが【完全版】だと理解した上でも、第20章では完結していないといくら指摘されても、バージェスがこの物語をいったん第20章で終わらせていたという事実がある限り、旧版の小説『時計じかけのオレンジ』をずっと大切に持っていようと思っている。
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時計じかけのオレンジ (ハヤカワ文庫 NV 142) [文庫](amazon)

※第21章が掲載されていない旧版『時計じかけのオレンジ』

 『時計…』の原作は、映画と違ってアレックスの更正を示唆して終わっている。この経緯について時系列でまとめ、問題の「第21章」について推察してみたい。

 まず重要なのはバージェスがこの小説を書き上げた当初は映画版のとおりアレックスが暴力性を取り戻した段階、つまり第20章(3部第6章)で終わっていたという事実だ。だがイギリスのハイネマン出版社のバージェス担当者の要請により第21章(3部第7章)が「付け加え」られた。その内容は「正常に戻ったアレックスが新しい仲間と街に戻ってくるが、昔みたいな破壊衝動はすでになく、代わりに身を落ち着けて家庭を作る相手を捜す」という内容だった。これで完成を見た全21章版小説『時計じかけのオレンジ』は1962年にイギリスで出版されたのだが、その後アメリカで出版された『時計…』にはその21章が「抜け落ちて」いた。(削られたわけではない)つまり、イギリスから送られてきた当初の20章版『時計…』をそのまま印刷してしまったのだ。

 キューブリックはこのアメリカ版を読み1969年末に映画化を決定する。キューブリックも最初から意図的に21章を省いた訳ではないのだ。キューブリックは脚本化していた4ヶ月もの間、その存在に気づかず、1970年5月15日にそのままの形で脚本は完成した。その後第21章に気づいたキューブリックは「本の他の部分と全く調子が合わない」と採用せず、当初の脚本通りに製作を続け1971年始めには映画はほぼ完成した。その頃バージェスと妻は映画の試写に立ち会っているが、その余りにも酷い暴力描写に不快感を催し、退席しようとした妻を「キューブリックに失礼だから」と見続けるように促す一幕もあった。それから少し時間を空けて興行成績アップが狙える1971年のクリスマスシーズン(この映画をカップルで!?)に公開が決定された。

 問題はここからである。この映画の内容を模した(もしくは模したとマスコミに言いがかりをつけられた)暴力事件がマスコミを賑わし始めた。当初バージェスは「映画も文学も、原罪に対して責任を持たない。叔父を殺した人がいても、それをハムレット劇のせいにすることはできない」と擁護していた。だが事態は深刻さを増し、様々な圧力団体がキューブリックやバージェスを非難し始め、やがてそれはエスカレートしてゆき、ありとあらゆる脅迫がキューブリックの元に届くようになった。それは家族、当時まだ10代だった三人の娘にも向けられていた。キューブリックは事態を深く憂慮し(長女のカタリーナはこの映画にエキストラで出演している。この事実がもし当時知られてしまっていたら・・・キューブリックの危機感は痛いほど理解できる)1974年、イギリスでの配給の停止をワーナーに申し出た。それからキューブリックの死後、2000年3月に解禁されるまでイギリス国内での上映は禁止されていた。

 以上の経緯から、以下の事実が読み取れる
(1)バージェスは当初20章で終わりにしようと考えていた事
(2)出版担当者のアドバイス(?)で「自主的に」21章を加えた事
(3)少なくとも製作中や試写の段階まではバージェスは表立ってキューブリックを非難していなかった事
(4)公開してしばらくは映画を擁護していた事
(5)キューブリックに対する圧力団体の脅迫がすさまじく、バージェスも非難に晒されていた事

 これらの事実を踏まえ推察をしてみたい。あの21章に対するバージェスのこだわりぶりとキューブリックに対する非難の理由についてだ。バージェスは1960年には脳腫瘍で死ぬつもりだった。それから来る刹那的創作衝動と妻への遺産の確保、妻がレイプされた苦い記憶、そして自身もアルコールに溺れながらの執筆だった。だが脳腫瘍は誤診で結局彼は生き続けなければならなくなった。(実際1993年まで生き延びた)また、逆に生きる希望も湧いてきたに違いない。そんな中キューブリックに向けられた凄まじい非難と脅迫の数々。せっかく生き延びたバージェスにもすでに非難の声は届いていた。そしてもっと過激な非難や脅迫の矛先がいつ自分に向けられるのかと戦々恐々としたとしても不思議ではない。では、原作者であるバージェスがそれから逃れるにはどうすれば良いか?そう、キューブリックへの責任転嫁と救いのある21章がある事への言及、そして自著への批判である。

 「自分は21章で健全な青少年の更正を示唆して終わらせた。それを悪夢のようなバッドエンドに改作したのはキューブリックだ!」「ちゃんと21章で希望を持って終わる物語だったのに、掲載しなかったアメリカの出版社は許せない!」「あのクズ本は最低の状態で書いたものだ。死さえ宣告されていたんだ。私の真意ではない!」「だから私に責任はない、批判はお門違いだ!」・・・バージェスの批判の裏にこんな卑しさがあったとしても何も不思議ではない。いやむしろ脅迫の凄まじさからすると自然な反応だろう。そんなバージェスを誰が責められる?当のキューブリックも『ロリータ』では自分で脚本を手直ししておきながらクレジットには名前を載せなかった。それは各方面からの批判を受けるのは原作者であるナボコフだけで十分だという計算があったからだと言われている。今回はそれが裏目に出てしまったのだ。現にキューブリックはバージェスの批判に対して何も反論していない。

 『時計じかけのオレンジ【完全版】』を読まれた方なら、あの21章に漂う違和感はお分かりになるかと思う。それは削除されたのではなく付け加えられたものだからだ。もちろんそれはバージェスの意思で行われたことであり、21章で【完全】である事は疑い用がない。だがバージェスの「真意」はどうだったのだろうか?本当にあの内容の21章は「必須」だと考えていたのだろうか?それともどこか救いが欲しいという出版担当者の要求に「妥協」したものなのだろうか?

 個人的にはバージェスは3部×7章の計21章で終わらせたかったのだと思う。でもあの内容には納得していなかったのではないだろうか。そんな感想を「21」という区切りの良い数字と、21章に漂う如何ともし難い違和感の間に感じ取ってしまうのである。

※参考文献『ザ・コンプリート キューブリック全書』『映画監督スタンリーキューブリック』
 
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非情の罠 [DVD](amazon)


 キューブリック初の商業長編劇映画『非情の罠』。キューブリック作品で唯一わかりやすいハッピーエンドで終わっているが、なぜ本作だけそうなったのか、若干の推察を含めつつ考察してみたい。

 この作品、主人公のデイビィは一貫した意思の持ち主のキャラクターなのに、ヒロインのグロリアはいまいちその意思が見えてこない。つまりシーン、シーンでいちいちその印象が異なるのだ。まず二人が初めて会話を交わす、ラパロに襲われた直後のシーン。助けてもらったデイヴィに何故かよそよそしい態度をするグロリア。この時点ではどうやらデイヴィに好意は抱いていないように見える。だが翌朝再びデイヴィが部屋を訪れると二人は身の上話をし、少し打ち解けたようだ。するとグロリアはいきなり一緒にシアトルに行く事を了承してしまう。ちょっと違和感があるが、まあ嫉妬深いラパロよりどう見てもデイヴィの方がマシなので、そんなものかと思って観続けていると、ダンスホールの事務所で執拗に迫るラパロに愛想つかしたかのような態度を取るので、やっぱりデイヴィに惚れたのかとひと安心。でもその後二人が落ち合ってもお金が手に入ったことを喜び合うでもなく、割と淡々としてたりする。

 するとグロリアが誘拐され、デイヴィが救出に向かうのだが、逆にデイヴィも捕まってしまう。ここでグロリアはこの映画最大級の愛の言葉をデイヴィではなくラパロにつぶやくのだ。しかもキスまで。もちろんグロリアにとっては必死の命乞いなのだろうが、デイヴィにはっきりと愛の意思を示さないままにこれだから、ものすごい違和感がある。結局ラパロは死にグロリアは警察によって救出、デイヴィも正当防衛で無罪放免となり駅でグロリアを待つことになる。さすがのデイヴィもグロリアの本心に懐疑的になり「彼女は来るのだろうか、いや来やしない」などと呟いたりしている。結局最後は彼女は現れてハッピーエンドとなるのだが、なんだか釈然としない。それもそのはず、グロリアの意思が見事にバラバラだからだ。

 実はキューブリックは当初、この映画をバッドエンドのつもりで撮っていた。だからプロットに歪みが生じてしまったのだ。ここからは推察だが、グロリアはラパロにはうんざりだが、だからと言ってデイヴィにも惚れていたという訳ではなく、ラパロの許から助け出してくれさえすればそれで良かったのではないか。そのためにデイヴィを利用したに過ぎなかったのだと。つまりラストシーンで結局グロリアは現れず、デイヴィが一人が汽車に乗って終われば、ちょっとシニカルでほろ苦い、通じ合っているようで実は通じ合っていないという、いかにも都会の男女にありがちな思惑がすれ違うさまを観ることになり、それをキューブリックはやりたかったのではないだろうか。そう考えると違和感だらけだったグロリアの意思も理解できるし、あまり評判の宜しくないこの作品も十二分に「キューブリック的」だと納得できる。

 しかしキューブリックは興行成績を気にし、結末をハッピーエンドに変えてしまった。(監禁から助かった後、デイヴィとグロリアのラブシーンを予定していたが、グロリアを演じたケーンの抵抗にあって取りやめになっている)だが誰がそれを責められるだろうか。資金集めから撮影、編集、アフレコ、上映の交渉まで全て一人でこなしていたキューブリックにとって、制作費の回収と自身の知名度アップは作品の結末をねじ曲げても達成したかった目標のはず。それは次作の制作における自身の自由度に直結するからだ。

 本作がキューブリックの思惑通りに稼がなかったのはその後の証言で明らかだ。だが納得はではきなくても公開した事がきっかけとなってハリスと知り合い、少なくとも資金面での苦労はかなり軽減する。キューブリックは「妥協のしどころ」を心得ていた。それは『スパルタカス』でも『シャイニング』でも同じだ。そんなキューブリックを完全主義者のレッテルでしか語れない評論家やファンは、もうそろそろ目を覚まして欲しいものだ。
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 1991年にVHSビデオソフト(16,800円!)として発売される以前は、『時計…』を観るためには名画座でのリバイバル上映を待つしかなかったのですが、幸運にも1985年頃大阪(今は亡き大毎地下)で観る事ができました。(ボカシつきのやつですね)それまではアンソニー・バージェスの原作で我慢するしかなかく、何度も何度も読み返していたものですから、キューブリックの映画版を初めて見た時は結構醒めていて「なんじゃこのカラフルさ加減」とか「目がチカチカする」とか「いちいちエロいな」とか思いながら観ていたのを憶えています。それもそのはず、原作はモノトーンでくすんだイメージがあったものですから、そのあまりの違いに違和感があったのでしょう。キューブリックの映画版が自分の中での『時計…』になってましってからは、すっかりその事を忘れてしまっていたのですが、

 「バージェスは、デディ・ボーイズやモッズやロッカーズなど、イギリスの不良集団を目撃したことがあった」

(『映画監督 スタンリーキューブリック』より)


との一文を読んで、当時自分が持った印象は間違っていなかったんだ、と再認識したのです。

 モッズムーブメントについては今更説明するまでもなく、上記の映画『さらば青春の光』を観れば一発です。そうなんです、この陰鬱とした、鬱屈したモノトーンのイメージがバージェスの『時計じかけのオレンジ』なのです。R&Bやロカビリーをベートーヴェンに、ヴェスパをディランゴ95に置き換えればバージェスが描いていた世界そのままです。主人公のジミーが湯船につかりながらキンクスの『You Really Got Me』を歌ったりしてますしね。モッズの聖典と化しているこの映画を、映像化されなかったバージェス版『時計じかけのオレンジ』と思って観るのは We are the MODSな人たちに怒られそうですが、参考にはなりそうです。もちろん名作ですから未見の方も純粋に映画としても楽しめます。『時計…』が好きなら気に入る可能性大。おすすめです。

追記:この『さらば青春の光』で主人公ジミーを演じたフィル・ダニエルズはバージェスが改訂した舞台版『時計じかけのオレンジ2004』でアレックスを演じたそうです。
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KD&SK

 生前「『スパルタカス』は私の作品ではない」と発言していたキューブリック。作品の製作に関する事全てを把握しコントロールするのが信条のキューブリックにとって、そうはならなかった本作品を除外したい気持ちは痛いほど分かる。実質的に現場を取り仕切っていたのがカーク・ダグラスとドルトン・トランボであり、事あるたびに衝突していたという事実を考えれば、キューブリックがいつ降板しても不思議ではない状態にあったはず。では何故そんな屈辱的な状況にも関わらずこの仕事を降りなかったのか。当時のキューブリックの置かれた状況からまずは考察してみたい。

 キューブリックにとってハリウッド3作目に当たる本作は、『突撃』で獲得したハリウッド内での地位を確たるものにし、さらに一般レベルでの認知度を広めるには絶好のチャンスだったに違いない。何故なら当時流行の歴史スペクタルカラー大作であり、スターが軒並み出演する話題作でもあり、何よりもビックネーム、カーク・ダグラスが主演するのである。これはもうヒット確実で上手く行けばアカデミー賞さえ狙えると考えるのが当然である。キューブリックはこの作品に「監督」としてクレジットされれば、その後の作品制作の資金集めやマスコミの注目度など、メリットは計り知れないと考えたはず。そのためにはなんとしてでもこのプロジェクトをやり遂げなければならず、それによる数々の(キューブリックにとっての)不合理には耐える以外になかったのであろう。

 その野心の一旦は、本作を監督しながら着々と次作『ロリータ』の準備をしていたことからも伺える。つまり『スパルタカス』の話題がまだホットな内に、あまり間を空けず矢継ぎ早に作品をリリースしたいというキューブリックの思惑が垣間見える。そんな野心丸出しのキューブリックを見てカークが好意的に思うはずはなく、両者の不仲は決定的なものになる。カークにとってキューブリックは「才能を見いだし、チャンスを与えてやった後輩監督」なのであり、「自分はキューブリックの恩人」という自負もあったはず。そんなカークを顧みず、自身の野望のためにひたすら邁進するキューブリックに理解を示す要素など皆無だ。

 本作は世界中で大々的に興行され大ヒットし、アカデミー賞(助演男優賞・撮影賞・衣裳デザイン賞)を受賞する。自分のやり方は間違ってなかったとカークの自尊心はさぞかし満たされたであろう。この時点での勝者はカークであり、キューブリックは敗者だ。それもカークだけではなく、ハリウッドが持つ「優れた映画を作り出すシステム」に負けたのだ。それでもキューブリックは自分の信念を曲げなかった。優れた映画とは『スパルタカス』のような作品を言うのではない。自分がこれから生み出そうとしている作品こそ「優れた映画」なのだ、と。その為には自作を全てコントロールしなければならず、それはハリウッドでは不可能だ。キューブリックがハリウッドに背を向け、ロンドンに向う判断をするのにそんなに時間はかからなかったであろう事は想像に難くない。

 それから半世紀が経ち、立場は完全に入れ替わった。『スパルタカス』は古臭く仰々しい過去の遺物でしかなく、カーク・ダグラスも完全に過去の人と成った。同時期の同傾向の作品『ベン・ハー』や『十戒』、『クレオパトラ』等も含め、当時を知る者のノスタルジー趣味や一部の映画ファンに顧みられる以外にニーズはない。(それはそれで尊重すべきで否定している訳ではない)それに対しキューブリックの諸作品は今現在も尚、新しいファンを獲得し続けている。時間という残酷な裁定に勝ったのはキューブリックだ。その「キューブリックが監督した」という冠を戴ける『スパルタカス』は他の同時期の作品より影響力や認知度、セールスの面で有利なのは間違いない。その意味においてカークはキューブリックに感謝すべきなのか?それとも過去の恩を考慮し引き分けとするのか?その判断はまだ存命である(寿命の点ではカークの勝ちだ)カークの心中に思いを馳せるだけにとどめておきたいと思う。
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