時計じかけのオレンジ

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画像引用:IMDb - A Clockwork Orange

 アンソニー・バージェスのSF小説「時計じかけのオレンジ」は、仲間と共に暴力犯罪を繰り返して刑務所に入った15歳の少年アレックスが、ルドヴィコ療法という人格矯正治療を受ける話です。映画監督のスタンリー・キューブリックが同名の映画を制作したことで世界的に有名な文学作品になりましたが、原作者のバージェスは後に執筆を後悔していたとのことで、その経緯についてスペインの大手新聞であるエル・パイスがまとめています。

 映画「時計じかけのオレンジ」では、クラシック音楽をバックに陰惨な暴力描写が繰り広げられ、世界中の観客に大きな衝撃を与えました。また、ルドヴィコ療法を受けて一時は暴力や性行為を想像すると生理的嫌悪感を覚えるようになったアレックスが、最終的には元の残虐な心を取り戻すという展開も、自由と管理社会の衝突に対する風刺的な側面が強いものでした。「時計じかけのオレンジ」というタイトルは、アレックスがルドヴィコ療法で強制的に道徳的人間に変えられたように、果汁や甘味がある生物に機械的な道徳を適用する行為を暗示しているとのこと。

 キューブリックの映画が世界中で話題となった後、新聞には「『時計じかけのオレンジ』強姦魔の一味を警察が追う」「『時計じかけのオレンジ』戦争で子どもが死ぬ」など、若者による苛烈な暴力や性犯罪を「時計じかけのオレンジ」と結びつける言説が増加したそうです。

 原作者のバージェスは、イギリスの小説家であるD・H・ローレンスの伝記「Flame into Being(存在の炎)」の中で、「(『時計じかけのオレンジ』の)誤解は死ぬまで私を追いかけます。誤読される危険性があったので、この本を書くべきではありませんでした」と、ローレンスの問題作「チャタレイ夫人の恋人」になぞらえて書いています。バージェスは、「バチカンで修道女がレイプされたら、新聞社から私に電話がかかってきます」と述べ、「時計じかけのオレンジ」のせいで自分が暴力の専門家扱いされてしまったと愚痴をこぼしています。しかし、バージェス氏は問題の根本は小説ではなく、キューブリックの映画の方にあると主張していました。

 1986年にアメリカで「時計じかけのオレンジ」が再刊された時の序文では、「私が初めて『時計じかけのオレンジ』という小説を発表したのは1962年で、世界の文学的な記憶から抹消されるには十分な過去であるはずです」と述べ、作品が大衆の注目を喚起し続けたのはキューブリックの映画の影響だと指摘。また、「私自身はさまざまな理由から、この作品と縁が切れたらうれしいと思っています」「不幸なことに、私の風刺的な本は原罪の毒気をまとった悪い卵のように臭かったため、多くの人にとって魅力的に映ったのです」と述べ、小説自体に芸術的価値はないと否定的な見解を示しています。

 映画の「時計じかけのオレンジ」が話題になる中で、バージェスは自然と映画の広報担当者的な役割も果たすようになり、いくつかの式典にも出席したとのこと。しかし、こうした活動はバージェスを疲弊させ、映画の主演を務めたマルコム・マクダウェルと2人でメディアの前に出て映画に関する論争について話させられた出来事もきっかけとなり、バージェスとキューブリックの関係は悪化したそうです。

 また、「時計じかけのオレンジ」はバージェスの原作小説もキューブリックの映画も大筋は同じですが、原作小説にある「第21章」ではアレックスが改心するパートとなっているのに対し、映画版にはそれがない点が大きな違いです。同じ小説版でも、アメリカで刊行されたバージョンには第21章が含まれていません。この理由についてエル・パイスは、「最後の部分がないのはアメリカ人編集者が介入した結果であり、その前のページで示された結果の方が示唆に富んでいると考えてその章を削除しました。キューブリックも同じように考えていたのです」と説明しています。

〈以下略〉

(全文はリンク先へ:Gigazine/2024年2月6日




 『時計』を批判されてからのバージェスの言い分はいつも同じで、曰く「あの本はクズ」「最終章を映像化しなかったキューブリックが悪い」です。実は批判が始まる前は「叔父を殺した人がいたとしても、それをハムレット劇のせいにすることはできない」と映画を擁護していましたが、突如として立場を180度変えてしまいました。このバージェス変節(同時期にマルコム・マクダウェルも変節)の原因はやはり「脅迫」以外に考えようがありません。三者に浴びせられた凄まじい批判と脅迫。それに屈したバージェスとマクダウェルは映画を批判することで矛先をキューブリックに向け、キューブリックは映画を英国国内で上映禁止にし、封印してしまいました。

 最終章については「主人公を好ましい人物にするように出版社の編集者に言われ、しぶしぶ付け加えた」が紛れもない真実です。バージェスは批判が始まるとこの一件を一切語りませんでしたが、そのことがバージェスの「批判の矛先逸らし」の心理を明確に裏付けていると考えます。キューブリックはこの事実を知っていたので、「何をいまさらイヤイヤ付け加えた最終章を持ち出して【これが真意】などど言い張るんだ?」とバージェスの裏切りに激怒しただろうし、生涯没交渉を貫いた事もこれで納得ができます。

 キューブリックはこのような経緯や事実を発表し、反論することもできはずですが、黙って映画を取り下げ、その後もこの件については黙して語りませんでした。おそらく無益な口論で時間を浪費するより、早く次作を作りたかったんだと思います。バージェスに依頼していた、ナポレオンの人生を交響曲に翻案した小説『ナポレオン交響曲』は受け取らず(バージェスは後にこれを出版している)、『バリー・リンドン』の製作に邁進するのはよく知られている通りです。
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キャットレディがアレックスをぶん殴る像もベートヴェン。このように劇中にはベートーヴェンがいくつも登場している。

 深夜まで開いているファストフード店やファミリーレストランが抱える悩みの1つに、不良やホームレスがたむろしてしまうことがあります。イギリス・ウェールズ地方のレクサム市にあるマクドナルドでは不良がたむろしないようにするため、Wi-Fiをオフにした上に、店内のBGMをベートーベンなどのクラシック音楽に切り替える対策を行っていると報じられています。

〈中略〉

 ヒューズ警部補は「有名なファストフード店が夕方17時からクラシック音楽を流すことで、地元で手に負えない不良がベートーヴェンの愛好家でない限り、いくつかの問題は阻止できるはずです」とコメントしました。

 なお、地元メディアのWales Onlineは「映画『時計じかけのオレンジ』では、ベートーヴェンの交響曲第9番やエルガーの『威風堂々』などのクラシック曲がチンピラ集団による凶悪行為のBGMとなっていました」と述べ、マクドナルドの試みがうまくいくかどうかはまだわからないとしています。

(全文はリンク先へ:Gigazine/2023年2月1日




 『時計じかけのオレンジ』で不良集団(ドルーグ)の暴行のテーマ曲になっていたのはロッシーニの『泥棒かささぎ』やジーン・ケリーの『雨に唄えば』で、必ずしも『第九』ではなかったのですが、まあ細かいことは置いといて、店内のBGMをクラシックに変える程度のことでそういった不良行為が抑止できるとはちょっと思えません。まあ、あまり真面目に受け取るような記事ではないとは思いますが(Gigazinだし。笑)、昨今問題になっている回転すし店などにおける飲食テロ行為も、元を辿れば稚拙な「承認欲求」「存在感誇示」ですので、BGMを変えた程度のことでどうにかなる問題でもない気がします。Wi-Fiオフは効果あるかも知れないですが。

 ところで『時計…』とマクドナルドといえば、劇中に登場したレコードショップ「チェルシー・ドラッグストア」が現在マクドナルドになっているという記事はこちら。暴力のテーマ曲だった『泥棒かささぎ』は代替曲で、当初はこのシーンのサントラの作曲をモリコーネに依頼しようとしていたのでは?という考察記事はこちらにありますので、興味のある方は是非どうぞ。
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画像引用:wikipedia - Mick Jagger

〈前略〉

 『時計じかけのオレンジ』公開50周年を迎えたゲストのマルコム・マクダウェルは、ミック・ジャガーがこの映画に出演したかったことや、ポール・マッカートニーがマクダウェルの別の作品『レイジング・ムーン』の音楽を担当しそうになったことなどを語りました。

〈中略〉

 マクダウェルは、ジャガーと映画とのつながりや、シンガーが 『時計じかけのオレンジ 』の主演を望んでいたことについて、次のように話しています。「俺たちは昔、友達だった。ニューヨークでつるんでいたんだ。当時はアンディ・ウォーホルとかの〈ダチ仲間〉だったんだ。ある晩、セントラルパークの東側にある誰かのアパートでたむろしていたんだ。ジャガーが『時計じかけのオレンジ』でアレックスを演じたいというので、窓際の席に座って話していたんだ。キューブリックがこの作品を手に入れる前に、ミック・ジャガーとストーンズが(『時計…』を)やりたがっていたんだ!」。すごい、それは見てみたい!

 その晩、マクダウェルはイタリアの聴衆に他の2つのことを話した。「ミック・ジャガーは私にこう言ったんだ、マルコム、50歳でこれをやるなんて考えられない!」マクダウェルはストーンズのリードボーカルの動きを真似て言った。「50? それで、今、彼らはどうなっているんだ?80? ファンタスティック!」。その夜、セントラルパークの暗い空間を見て、ミック・ジャガーはジョン・レノンが住んでいたダコタ・ビルの方を指さした、とマクダウェルは回想している。「そして彼は私に『王様はあそこに住んでいる』と言ったんだ。その瞬間、もちろん彼らはジョンが何であるかを知り、彼が王であることを知った。『それでおしまいだ』とね」。

 ビートルズと同じくリバプールで育ったこの俳優も、グループとの付き合いは長い。まだシルバー・ビートルズと呼ばれ、カバーばかり歌っていた頃の彼らのステージを、地元で何度も見たことがあるのだ。「ガールフレンドに連れられて見に行ったんだ。私は、人前で話す人があんなに下品な言葉を使うのを聞いたことがなかったので驚いた。でも、何度も何度も足を運んだ。もちろん、彼らはレノンとマッカートニーという、当時のモーツァルトだ。そして彼らの音楽は、今も発売当時と同じように人気がある」。マクダウェルの息子の一人であるシンガー、ベケット・マクダウェルが演奏したビートルズのカバーの抜粋音声も流れ、自慢のパパを喜ばせていました。

〈以下略〉

(全文はリンク先へ:Variety.com/2022年11月26日



 トリノ映画祭に出席したマルコム・マクダウェルの講演の記事がありましたのでご紹介。

 マルコムとミックがニューヨークでつるんでいたというのは面白い話ですね。ジョンがダコタハウスに引越したのは1973年ですので、その頃の話になりますが、キューブリックが『時計』の映画化権を獲得する以前はローリング・ストーンズのメンバーが「ドルーグ」を演じる予定だったのは有名な話です(詳細はこちら)。その映画化の脚本を担当していたのがテリー・サザーンで、そのサザーンからキューブリックに原作本が渡され、それを読んだキューブリックが映画化権を買って実現したという流れです。

 サザーンは当時既に人気バンドであったストーンズを主演に映画を作ることに苦労していて、「スタンリーなら映画化できるかも」と考えてキューブリックに原作本を渡したのですが、当時『2001年宇宙の旅』の製作中で小説を読む余裕はなく、やっと読んだのは『ナポレオン』の企画が頓挫(中断)した後でした。つまりキューブリックにとって『時計』は本命の企画である『ナポレオン』のつなぎの企画でしかなかったのです。低予算なのも、次作『ナポレオン』で大金が必要なのを考慮した可能性もあります(もちろん内容が内容だけにレイティングで上映館が制限され、大きな興収が得られないことも)。その「つなぎの企画」が歴史的名作として語り継がれるのですから、運命というのは面白いですね。

 マクダウェルがデビュー前のビートルズを観ていた、というのもすごい話です。彼らにしてみれば、狭い地元のいちエピソードに過ぎないのでしょうけど、ファンからすれば垂涎モノですね。
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 『チャイルド・プレイ』が『チャッキー』と題されTVシリーズ化されたそうなのですが、第2シーズンの第3話でチャッキーが『時計じかけのオレンジ』のルドヴィコ療法の餌食に。見させらている映画は例のアレなものばかりです(笑。ちょっと面白いですね。

 第一シーズンはHuluで配信されたそうなのですが、この第二シーズンもそのうち配信されるでしょう。何がどうなってどうしてこうなってしまったのか・・・それは配信で確認ですね。

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劇場公開時のパンフレットにははっきりと「メカニックな悪夢の世界」と書かれている。これなら間違いようがない。

 昨今、『時計じかけのオレンジ(A Clockwork Orange)』を観て「なんだ、時計なんて出てこないじゃないか!」「タイトルが意味不明」という感想をよく目にします。これは「時計じかけ」の「時計」という言葉に引っかかってしまっているからで、英単語の「Clockwork 」とは「機械じかけ」「ゼンマイじかけ」という意味です。ですので『時計じかけのオレンジ』は正確を期すなら『機械じかけのオレンジ』と訳すべきです。

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英語圏における「Clockwork 」の一般的なイメージ。(画像引用:pixabay

 もちろん1971年の公開当時は「時計じかけ」と表記しても、世の中は機械じかけの時計(アナログ時計)ばかりだったので「時計じかけ=機械じかけ」と理解しやすかったのですが、公開から50年を経た現在、ほとんどの時計はデジタルなので、今の世代、特にデジタルネイティブであるZ世代にはピンと来ないのかも知れません。

 では「機械じかけのオレンジ」とはどういう意味かというと、機械でできた有機体(オレンジ)、つまり「機械化された人間」という意味で、これは物語後半でルドヴィコ療法で機械人間にされたアレックスの状態を指しています。ちなみに原作小説では小説家が家のタイプライターで書いていた小説のタイトルが『時計じかけのオレンジ』という設定で、押し入ったアレックスが面白半分にそれを読み、ビリビリに破くというシーンがあります。また、ルドヴィコ療法後のステージ試験のシーンでアレックスが「まるで俺は時計じかけのオレンジみたいじゃないか!」と叫ぶシーンがあります。キューブリックはどちらのシーンも採用しませんでしたが、その理由は「映像で表現すれば説明しなくてもわかるだろう」ということだと思います。(『時計じかけのオレンジ」という言葉はコックニー(ロンドンの下町言葉)が由来という説は正しくありません。詳細はこちら

 また、時々省略されがちになる「A Clockwork Orange」の「a」についてですが、これについては明確にはバージェスもキューブリックも説明していません。ただ不定冠詞の「a」には不特定多数のものの中の1つを指すという役割があるので「一人の機械じかけのオレンジ」「機械じかけのオレンジである一人」というニュアンスを感じさせます。そこには「機械じかけのオレンジなのはアレックスだけの問題ではなく、人間なら誰しも起こりうる問題である」というバージェスの意図を感じさせます。もちろんその「a」は主人公である「アレックス(Alex)」に通じ、それを強調するために原作小説ではアレックスがアルファベットの「A」が入ったセーターを着ているシーンが存在します。

 このように、小説では文章によって「時計じかけ(機械じかけ)」や「A」の意味や意図がふんだんに示唆されているのですが、映画では省略されています。キューブリックはセリフや言葉で意図や意味を説明するのを嫌い、映像や役者の演技・表情、編集で表現するのを好む監督ですので、視聴する側にある程度の映像理解力、読解力がが必要になります。キューブリック作品を「わからない」「意味不明」と簡単に投げ出すと「ああ、この人は理解力、読解力がないんだな」と思われてしまいますので、キューブリック作品を鑑賞する際は「映像を読み解くぞ!」という心構えを持って接していただくことをお薦めいたします。

 余談ですが「映画を観るのにそんな心構えなんか必要ない」「映画は何も考えず楽しむものだ」としてキューブリック作品(に限らず)を批判する方がいらっしゃいます。その場合はそれにふさわしいわかりやすい作品が数多ありますので、そういう映画作品をお楽しみください。管理人はどちらのタイプの映画も楽しめますが(『トップガン マーヴェリック』は楽しめました。映画作品としての評価は低いですが。笑)、ある一方を過剰に評価し、ある一方を過剰に批判し排除するというのは映画の楽しみ方のスタンスとしては正しくないと思います。創作物の楽しみ方は人それぞれですが、近視眼的な思い込みで自らその範囲を狭めてしまっては意味がありません。「他人が褒めている作品を貶して自らの自尊心を誇示したい」と考える層が一定数存在するのは理解していますが、大抵の場合は誰も何も言わないだけでバレバレですので、フィルマークスやTwitter、Amazonなどに映画レビューを書き込む際にはお気をつけください。
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