フルメタル・ジャケット

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Full-Metal-Jacket-2
現在はこの画像に差し変わっている(画像引用:IMDb - Full Metal Jacket

「BORN TO KILL」を削除することを決めたのは誰でしょうか? フィリップ・キャッスルの象徴的な芸術作品を変更しただけでなく、そこにそれが存在する意味を完全に誤解しています。ジョーカー二等兵は、「BORN TO KILL」とピースボタンが付いたヘルメットをかぶっていますが、これは「人間の二面性」についての声明です。

(引用:X@MatthewModine


これを引用し、管理人がコメント

『フルメタル・ジャケット』でジョーカーを演じたマシュー・モディーンがアマゾンプライムビデオの「BORN TO KILL」を削除したことに抗議。今のところトップ画像だけの模様。ポリコレもここまで来るともはやファシズム。

(引用:X@KubrickBlogjp

マシューの元のポストに投稿された他の方の指摘によると

(1)画像に文字が入っていると上に文字が乗った際に見辛くなるので消しただけ
(2)画像に文字を入れるのを許可すると、権利元が宣伝コピーを入れた画像を載せようとするから禁止というルールがAmazonにある。

との理由が示されていますが、このコメントはAmazonからの公式な説明ではない(関係者か事情通かも不明)ことに注意が必要です。その上で、この説明に説得力がないことを以下に示します。

(1)ならば「Born To Kill」の文字をぼかせば済む話だし、その方が手間もかからず簡単。もっと言えばシーンの画像(宣材写真)と入れ替えれば良い(現状はそうなっている)だけであって、であればなぜPhotoshopなどで文字を「消去」し、消した跡が不自然にならないようにきれいに「加工」してあるのかの説明にはなっていない。

(2)これも(1)同様に、わざわざ「Born To Kill」を手間をかけて消去した理由にはなっていない。画像差し替えで十分に対応可能。

この問題の悪質な点は、このヘルメットのキービジュアル(キューブリックがアイデアを出し、フィリップ・キャッスルがイラストを描いた)の、「Born To Kill」の文字がないバージョンを初めてみた際、それをそのまま受け入れてしまう危険性がある、という点です。それぐらい自然な形で「消されて」います。かつての北の大国で、粛清者が写った写真の該当部分を自然な形で消し去った有名な話がありますが、それに似た「恐ろしさ」を感じます。繰り返しますが、もし「指摘者」の言う通りなら「Born To Kill」部分をボカす(これも良くないが、少なくとも「見せてはいけない何かがあるな」というのは伝わる」)か、他画像に差し替えれば問題は解決です。ですがAmazonはわざわざ画像加工の手間をかけてまで作品を「改竄」したのです。これはプラットフォーマー(権力者)が、パフォーマー(表現者)の意図を捻じ曲げて、自分の思想に都合の良い情報だけを大衆に伝えようとする「作為」の可能性を疑わざるを得ません。もしそれが誤解だと言うのなら、上記の(1)(2)の説明が説得力を持っているはずです。ですが、私には全くそれは感じられませんでした。

 また、これはAmazonだけの問題ではなく、行き過ぎたプラットフォーマーの「検閲」「干渉」によってオリジナル作品が台無しにされている現状があります。ハリウッドでも度々話題になっており、日本では自殺者まで出す騒ぎになったのは記憶にも新しいところです。これが単に「読みやすさの優先や過剰な宣伝をさせないための方策」なのか、「ハリウッドに巣食うある勢力の圧力に屈した結果」なのか、私たち映画ファンは絶対に無関心であってはいけません。また、プラットフォーマー(権力者)側の言い分を鵜呑みにしてはいけません。それは映画の未来(過去や歴史も)を左右する大きな問題だからです。故に常に注視する必要があるのです。故の過激な私のコメントです。

 なお、現在該当部分は宣材写真に差し替えられています(最初からこうすべき)が、現在に至ってもAmazonはこの件に関して正式なコメントは出していません。不誠実極まりないですね。

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رابرت_کاپا
ジョーカーが撃たれた瞬間のイメージ写真(ロバート・キャパ『崩れ落ちる兵士』)

ジョーカー、8歳。プラスチックのライフルを携えて野原を走っている。

「動け、動け、動くんだ!!!」

みんながあなたに何をすべきか指示する。動け、動け、動き続けろ。動きを止めれば、ためらえば、心臓は止まる。足はおもちゃのように巻き上げる機械だ。

ジョーカー、海兵隊員。走りながらライフルを撃つ。

ジョーカー、8歳。おもちゃのライフルを撃つ。

世界中を走り回れるような気分だ。今、アスファルトはトランポリン、素早く優雅に、緑のジャングルの猫のように。

ジョーカー、海兵隊員、走る。

ジョーカー、8歳、走る。

足が瓦礫の上を上へ上へと連れて行く...上へ...上へ...あなたはそれを楽しんでいる...あなたは人間ではなく、動物であり、神のように感じている...あなたは叫ぶ「死ね!死ね!死ね、このクソ野郎ども!死ね!死ね!死ね!」

海兵隊員のジョーカーは、自動小銃の連射で撃たれる。

8歳のジョーカーは、苦痛を伴い胸を押さえ地面に倒れ始める。彼の映像はキャパの有名なスペイン内戦の写真のようなポーズで、静止したフレームが捉えるまでスローダウンする。その写真には、致命傷を負った男がカメラによって落下中に永遠にぶら下がっている。

しかし、この写真は8歳の少年のものだ。

墓地。ジョーカーの葬儀。明るい晴れた日。ジョーカーの母親と父親は青白くやつれた顔で、天蓋の下に集まり、国旗で覆われた棺と対面し、親戚や友人たちに囲まれている。ジョーカーの父親は気難しそうに話す。

「息子は…熱烈に…作家になりたいと望み…ベトナムにいる間、このノートを持っていました…遺体で発見されました。これから…そのノートから数行読みます…息子が持っていた…計り知れない…才能…を示すものです…その才能は…今では…永遠に失われてしまいました」

目に涙を浮かべながら、ジョーカーの父親は汚れて使い古されたノートの特定のページを探し回った。彼はそれを見つけると、たどたどしく声に出して読み始めた。

「私はよく…10歳の頃のことを思い出します…。私は…太陽が昇る前…そして本当に目が覚める前に…ベッドに横になって…これからの長くてエキサイティングな一日を考えるのが好きでした。 空はピンク色に染まり始め、外の静寂は木々のざわめきと鳥の鳴き声に変わりました。私は誰も起こさないように階下に降り、裏庭に出ました。空気は芳香を放ち、冷たく、私は太陽が山の後ろからゆっくりと昇るのを眺め、スズメが露に濡れた草をついばんでいるのを目にしたのです」

「私は幸せを...抑えることができませんでした」ジョーカーの父親はかろうじて話を続ける。「あの庭と町の外の世界について、私は何と知らなかったことか」

ジョーカーの父親は涙でいっぱいになる。妻が彼を抱きしめる。彼は落ち着きを取り戻し、話を続けた。

「そして今、私はA. E. ハウスマンの詩を読みたい。妻と私が彼の墓碑銘として選んだものです」

「我々がここに死んで横たわっているのは...生きることを選ばず...我々の生まれた土地に恥をかかせることを選ばなかったからだ...確かに...命は...失うが大したことではない...だが若者はそう考える...そして我々は若かった...」

涙を流しながら、父親はゆっくりとノートを閉じる。ノートの表紙にジョーカーのピースバッジがピンで留められているのが見える。


引用:Full Metal Jacket / A Screenplay by Stanley Kubrick & Michael Herr



 キューブリックは『フルメタル・ジャケット』のラストシーンについて、脚本段階では上記のようにジョーカーは戦死し、故郷での葬儀のシーンで終わることにしていました。ですが脚本を撮影の叩き台と考え、撮影時にシナリオを発展させることを好むキューブリックはこの結末を決定稿とはせず、判断に迷いもあったのか、エイトボールを演じたドリアン・ヘアウッドによると出演俳優を集めて「この映画の結末はどうしたらいいと思う?」と訊いたそうです。中でも激しい議論となったのがマシュー・モディーンで、モディーンはジョーカーは生き延びるべきだと強く主張し、最終的には原作小説に近い形で(原作でもジョーカーは生き残る。ただし市街戦の後にジャングルでの戦闘に参加している)のラストシーンに落ち着きました。

 上記の脚本を読んで思うのは、世の中の事象を冷徹な視点で描くキューブリックにしては珍しく「ウェット」だな、ということです。『突撃』のラストシーンもウェットでしたが、それよりもウェット感は強く、まるでスピルバーグの『プライベート・ライアン』のようで、正直言ってキューブリックらしくありません。ではどうしてこの脚本でいったんOKを出したのか?それは想像するしかありませんが、キューブリックはベトナム戦争に駆り出されていたのが10代〜20代前半の若者たちだった事実に興味を示していて(だからラストシーンで子供の歌である『ミッキーマウス・クラブ・マーチ』を歌わせた)、この脚本でも少年時代のジョーカーの姿を戦闘シーンにダブらせていることから、「ベトナム戦争=若者(子供)の戦争」というテーマがあったことは容易に想像できます。ラストに流れるストーンズの『黒くぬれ!』の採用もその発想からでしょう。

 原作小説『ショート・タイマーズ』を読めば、ベトナムに派遣された兵士の一番の関心事は「戦争に勝つこと」ではなく「生き延びて祖国に帰ること」であったことがわかります。映画の撮影の順番は戦場シーン→訓練シーンだったので、ラストシーンが脚本から大幅に変更され、ジョーカーが生き残ると決まったことはその後の撮影に影響を及ぼしたであろうことは想像に難くありません。パイルの自殺とジョーカーの死をそれぞれ前半、後半のラストで描くことによって、ある種の「効果」を狙った可能性もありますが、原作小説のテーマを考えると葬儀シーンは違和感があります。やはり現状のラストは正解だったと強く思いますね。
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Full-Metal-Jacket-2
画像引用:IMDb - Full Metal Jacket

 このシーンは1968年1月のテト攻勢の一部であるフエ市での戦いを描いている。戦車が前進し、海兵隊が戦車の後ろに回る。しかし、その後、銃撃があった。つまり、事前に見通しを立てていたわけだ。でも、面白いのは、海兵隊員が立ち上がってすぐに、事前照準したそのエリアに入っていくんだ。もし私が悪者、つまり敵だったら、海兵隊がすぐそこにいる間にもう一度発砲していただろう。でも、彼らはそんなことはしない。

 はっきり言っておくが、ここはフエ市とはまったく似ていない。フエ市には、あのような高いビルはない。ビルが密集している。操縦スペースもあまりない。だがここではとても開放的に見える。これはロンドンの郊外、ベクトン・ガス工場で撮影されたからだ。ロンドン郊外だから曇り空なんだ。そのため、フエの戦いではほとんどの時間曇り空で、航空支援が入りにくかった。

 さて、冒頭で建物から発砲が始まったとき、スナイパー1人ではなく、機関銃が何丁も設置されていることにお気づきだろうか。スナイパーなら2、3発撃ってその場から逃げ出すだろう。彼らはその場にいるから動くのは難しい。だから海兵隊は、この地域を砲撃して彼らを攻撃しようとするんだ。

 そうだ、そこで彼は写真を撮っている。兵士が立派なカメラを持っているのは珍しいことではなかった。たまに休暇が取れるからね。サイゴンやホーチミンに行ったりね。将校であれば、香港やそのような場所に行くことができ、それほど高くなくても本当にいいカメラを買うことができた。

 そして、これはベトナム人民軍のスナイパーだっただろう。ベトナム人民軍のスナイパーは特定の標的を狙う。ベトコンのスナイパーは混乱と恐怖を引き起こすだけの戦術を使う傾向があった。だからランダムに誰かを撃つ。無線ヘッドセットをつけて無線で話している男がいたら、おそらく将校だろう。格好の標的だ。視覚的な部分や設定が、私にはすべて間違っているように見える。曇り空以外は現実的だ。どうだろう。たぶん6点かな。

(全文はリンク先へ:SCREEN RANT / Stanley Kubrick's 1987 War Movie Has Some Visual Details "Wrong," Says Expert/2024年1月26日




 専門家が言うならまあそうなんだろうな、という感想ですね。公開当時から「フエ(ベトナム)には見えない」という評はあったし、CGでいくらでもリアルな映像が作れる現在からすると、リアリティに欠けると言う評価は納得できます。

 ですが、公開当時に「撮影は全部ロンドン周辺とイギリス南部」と何の事前情報もなしに看破できた人はほとんどいなかったと思います。少なくとも管理人は違和感なく受け入れていました。まあ、これもキューブリックの飛行機嫌いと遠方ロケ嫌いがなせる技なのですが、本人も「奇跡のように1平方キロに及ぶ廃墟が見つかった。本当の建物を破壊するというこのような機会に巡りあったものは、未だかつてないと思う」と満足げだったので、まあいいんじゃないでしょうか。
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Matthew Modine
画像引用:IMDb - Matthew Modine

〈前略〉

—スタンリー・キューブリック監督と『フルメタル・ジャケット』を製作することは、どのようなことだったのでしょうか?

 私は彼を映画人として尊敬しています。そして、一人の男性として、父親として、夫として、彼を知ることになったのです。彼はおそらく、私がこれまで一緒に仕事をした中で最も自立した映画人だったと思います。彼は20ヵ月間働き続けても経済的に存続できる方法を考え出したのです。彼がしたことは探求し、実験することができる環境を作ることでした。彼はよく「何テイクやったのか?と聞かれるのが滑稽だ」と言っていました。彼はこう言いました。「モーツァルトに『ヴォルフガング、あなたのコンチェルトにはいくつの音があるのか?』と言われるのを想像してみてくれ。あるいはピカソに『あの絵は何画なんだ?』と。それはとても失礼なことで、誰が気にするんだ? 結果にこそ興味があるはずだろう?」

—『フルメタル・ジャケット』は、あなたが最も誇りに思っている映画ですか?

 誰も見たことのないような子供たちも、私は大好きなんだと思います。アラン・パーカー監督の『バーディ』は大好きです。あれは役者として並外れた経験でした。また、『アラバマ物語』を1962年に映画化したプロデューサー、アラン・パクラとは、アルバート・フィニー主演の『オーファンズ』という映画で一緒に仕事をしたことがあります。私は彼との仕事がとても好きで、マイク・フィギス監督の『明日にむかって…』に出演したのは、純粋に彼ともう一度仕事をしたかったからです。彼は本当に生きる喜びを持っていて、いざ仕事をしようとするととても集中し、準備をしていて、これまで一緒に仕事をしたどの俳優とも違うのです。おそらく次に比べるなら、もう一人の紳士である『運命の瞬間/そしてエイズは蔓延した』で一緒に仕事をしたイアン・マッケランでしょう。

〈以下略〉

(全文はリンク先へ:The Guardian/2022年11月13日




 マシュー・モディーンはキューブリックに対して、いつも肯定的な発言ばかりではありませんでした。ギリギリまで判断を先送りしテイクを際限なく繰り返すキューブリックのやり方、特に拘束時間の長さにはかなり苛立ちを感じていたようです。インタビューにある「一人の男性として、父親として、夫として」とは、『フルメタル・ジャケット』の撮影時モディーンは新婚で、妻は長男(ボーマンと命名)を妊娠中で撮影中に出産したことを示唆しています。にもかかわらずキューブリックは撮影を優先させたので、かなりストレスや不満を抱え込んでいたらしく、当時のインタビューではそれを感じさせる発言もいくつかしています。

 ですが、それから長い時間を経て考え方も変化したのか、最近では肯定的な発言が目立つようになりました。キューブリックは全身全霊で自作に取り組みますが(書籍『2001:キューブリック、クラーク』を読めば、その熱量の凄まじさが伺えます)、俳優やスタッフにも同レベルの熱量を求めるため、そのことが周囲との軋轢を生む場合があったのは否定できない事実です。でもそれは製作者の立場になってみないとなかなか理解できない部分です。モディーンのキューブリックに対する心境の変化は、自身の映画制作における立場の変化、つまり単なる俳優ではなくプロデュースなど映画製作にも関与し始めたことも影響しているのではないかと思います。

 キューブリックはテイクを多さを批判されるのにうんざりしていたのか、モーツアルトやピカソを引き合いに出し「それはとても失礼なことで、誰が気にするんだ? 結果にこそ興味があるはずだろう?」と言っていたそうです。これはキューブリックが映画を「個人の創作物」として捉えていた証左と言えます。ただし個人で創作する音楽や絵画とは違い、映画製作には多くの協力者の存在が不可欠です。当のキューブリックも優秀な俳優やスタッフの存在に頼っていたし、その人たちに対する評価や賛辞も惜しみませんでした。それでもキューブリックは「いち作家」であろうとし続けました。その理由は以下の言葉が示していると思います。

「ある問題に対して君が他人の感情を損なうことを恐れたり、意見の対立を避けるという過ちを犯し、その映画に欠点が生じたとしても、その映画はその後君の生きている限りずっと君とともにある君の作品なのだ」

つまり他のスタッフは去ってしまっても、映画監督だけがその作品と取り残されてしまうのです。駄作を作ってしまったら、その駄作とともに永遠に名前が残るのです。キューブリックにとってそれは絶対許されないことでした。いやどのレベルの、どんなクリエーターでも駄作とわかっていながら発表することなんて屈辱に決まっています。キューブリックにとって映画監督とは「職種」を意味するのではなく「作家」と同義でした。だからこそ、自身がハリウッドと戦って勝ち取った映画制作における絶対的自由(製作期間や予算、キャスティング権など)を最大限に発揮し、徹底的にこだわったのです。それをモディーンは「私がこれまで一緒に仕事をした中で最も自立した映画人」と評しているのです。

 ところでこのインタビューでモディーンは『ストレンジャー・シングス』のマーティン・ブレンナー博士が白髪なのは「日本のアニメで邪悪なキャラは白髪をしているから」と応えています。その日本のアニメがどのアニメを指してのことなのか、ちょっと気になりますね。
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FMJ_ketsu
これが戸田氏の訳だったらどんな「甘い」ものになっていたのやら・・・。

※P144より抜粋

Q『フルメタル・ジャケット』の字幕訳者を交代した理由は?

 そのマシュー・モディーンが主演した『フルメタル・ジャケット』の監督、スタンリー・キューブリックは究極の完璧主義者でした。自分の映画が公開されるときは、あらゆる国のポスターデザイン、宣伝コピーなどの宣材を全て、フィルムの現像の焼き上がりチェックまで、とにかく全てに目を通します。たとえば日本で印刷したポスターは色が気に入らないと言って、自分が住んでいて目の届くイギリスで印刷させていたほどです。

 じつは『2001年宇宙の旅』(1968年)、『時計じかけのオレンジ』(1972年)など、過去の作品は大先輩の高瀬鎮夫さんが字幕をつけられていて、「キューブリックは字幕原稿の逆翻訳を要求するバカげたことをなさる大先生だ」とぼやいておられました。その高瀬さんが亡くなられ、私に回ってきたのが『フルメタル・ジャケット』だったのです。

 ベトナム戦争たけなわの頃、アメリカ国内の陸軍基地(注:海兵隊基地の間違い)でしごき抜かれた新兵たちが、やがて地獄のようなベトナムの戦地へと送られて行く。これだけで言葉の汚さは想像つくでしょうが、とくに前半の鬼軍曹のしごき場面のすさまじいことといったら!日本人にはまったくないののしり文句を、新兵に浴びせまくるのです。たとえば、「Go to hell, you son of a bitch!」というセリフに「貴様など地獄へ堕ちろ!」という字幕をつけたとします。キューブリック監督の要求通り、その字幕を文字通り英語に直すと、「You - hell - drop」となり、英語の構文に整えるとなると「You drop down to hell !」のようなことになる。「Go to hell, you son of a bitch !」が「You drop down to hell !」になって戻ってきたら、キューブリック監督でんくても「違う!」と怒るでしょ。英語とフランス語のように語源を共有し(注:語源が語族という意図なら英語はゲルマン語族、フランス語はラテン語族で全く異なる)、いまも血縁関係を保っている言語同士ならともかく、まったく異質の言語の間で翻訳・逆翻訳をやって、元の文章に戻ることはありません。

 「a son of a bitch !」の気持ちは「貴様」という「you」とは違う日本語の人称でじゅうぶん表現されていると思います。〈中略〉そういう言語の違いを考慮せず、逆翻訳の文字ずらだけを見るのはナンセンスです。

 「a son of a bitch !」を直訳すれば「メス犬の息子」「ふしだらな女の息子」です。でも、日本人同士でケンカしている時に、「メス犬の息子め!」と言われてもなんのこっちゃ?で、気が抜けてしまいます。〈中略〉

 映画を観ている時に、観客が感情移入してドラマに浸りたいのは当然。その時に「メス犬の息子め!」と聞きなれない表現に訳しても、観客は「??」と戸惑うばかり。「コノヤロー!」と抵抗のない表現にして、自分をケンカしている気分になってもらうのが字幕の役目だと思います。

 Q:字幕の役目とは?

 〈中略〉「字幕を読む」という行為は、映画鑑賞に割り込んでくる余分な作業。字幕はそもそも、あってはほしくない余分な存在なのです。その余分なものに、観客がその表現に一瞬でも戸惑ったり、画面が変わっても読みきれなかったりして、鑑賞を妨げられるような字幕は、良い字幕とは言えません。

 そこで『フルメタル・ジャケット』ですが、日本人には唖然とするほど、卑猥な侮蔑語やフレーズが機関銃のような早口で乱射されます。監督は、これもすべて忠実に字幕にのせろと要求して来ましたが、そんな翻訳は絶対に読み切れるものではありません。字幕を読むのに追われて、観客は映像など見ている余裕がありません。「ケツの穴でミルクを飲むまでしごき倒す!」という文章を読んで、そのイメージが瞬間に咀嚼できますか?もちろんシナリオは一言一句磨き抜かれたもので、どの言葉もなんらかの意味があって、そこにあるのですから、勝手に切り捨ててよいものではない。でも読み切れず、内容のイメージも即座に把握できない「画面の字の羅列」にどういう意味があるのでしょうか?

 字幕の担当者としては、オリジナルの台詞をあくまで尊重しつつも、「字幕を読む=余分な作業」が、観客の負担にならず、映画のすべてー映像、芝居、音楽、その他の要素ーをトータルに楽しんでもらいたい。そこにはおのずと正しいバランスがあるはずで、そのバランスを第一に考えることが、字幕を作る者の持つべき姿勢であり、責任だと思っています。

 Q:キューブリック監督に、字幕事情を説明しましたか?

 残念ながら、この問題は一方通行で進んで、結局『フルメタル・ジャケット』の字幕は、映画監督の原田正人さんが手がけることになりました。

 原田さんはキューブリック監督の要求通りに翻訳しても字幕は読めると考えていました。シナリオがすでにしっかり頭に入っていて、2度も3度も映画を見返せば、むろんそれで問題はないでしょう。でも、入場料を払って映画館に来る観客は、まったくの白紙の状態で字幕を読むのです。ややこしい文章では、理解するのに翻訳した人間の2倍、あるいは3倍はかかる。そのあとに映画そのものを楽しむ余裕はどれほど残っているのでしょうか?

 当時、ある映画評論家が「フィルム・メーカーが心血を注いだシナリオの言葉は一語たりとも切るべきではない。読み切れなければ2度でも3度でも観ればいいのだ」と言いました。そりゃあ、評論家は2度でも3度でもタダで試写を観られます。しかし2000円近い入場料を払い、2時間あまりの娯楽を求めて映画館に足を運ぶ一般の観客はどうなるの?腹を立てていた私に清水俊二先生は「映画は評論家のためにつくられているものではない」と、一刀両断。溜飲の下がるひと言でした(笑)。

Q「誤訳だ」と批判されることに対しては、どんな気持ち?

 お叱りや間違いの指摘は真摯に受け止めますが、基本的には気にしないことにしてます。ほとんどの指摘が文字数の制限とか、字幕に課せられる制約を理解していないので・・・。〈中略〉

Q:新しいスターたちが次々と誕生した90年代。来日と字幕作りで大忙し?

 年間50本近く、フル回転で字幕をつけてたでしょうか。若手のスターが続々と来日してきましたから、二枚目好きのミーハーとしては楽しかったですね(笑)。

(引用元:戸田奈津子 金子裕子『KEEP ON DREAMING』〈2014年発行〉)




 なんだ、そうだったのか!戸田先生、誤解して申し訳ありませんでした!!・・・と思った方は・・・いらしゃらないと思います。もうどこからツッコンでいいのやら(笑。

 「a son of a bitch !」を直訳すれば「メス犬の息子」

—一般的には「売女の息子」ですね。割と日本人でも知っている方は多いのではないでしょうか。

 「ケツの穴でミルクを飲むまでしごき倒す!」という文章を読んで、そのイメージが瞬間に咀嚼できますか?

—できますが何か?

 そんな翻訳は絶対に読み切れるものではありません。

—そもそも『フルメタル…』の公開当時も、映像ソフト化時も、そして現在に至るまで、観客や視聴者から「字幕が読み切れない」「字幕を追い切れない」という話を聞いたことがありません。その時点で戸田氏の言っていることに説得力はゼロです。

 そこにはおのずと正しいバランスがあるはずで、そのバランスを第一に考えることが、字幕を作る者の持つべき姿勢であり、責任だと思っています。

—バランスが正しい、正しくないと、訳のニュアンスが正しい、正しくないは別の問題です。問題をすり替えないでいただきたい。

 そりゃあ、評論家は2度でも3度でもタダで試写を観られます。しかし2000円近い入場料を払い、2時間あまりの娯楽を求めて映画館に足を運ぶ一般の観客はどうなるの?

—2014年時点でこんなこと言う人がまだいるとは。とっくに気に入った映画はDVDやBDで繰り替えし鑑賞する時代です。戸田氏の時代感覚は昭和で終わっているようです。

 お叱りや間違いの指摘は真摯に受け止めますが、基本的には気にしないことにしてます。

—いや、気にしてください!「間違い」なんですから。

 若手のスターが続々と来日してきましたから、二枚目好きのミーハーとしては楽しかったですね(笑)。

—はい、自覚はあるようですね。だったら自分の字幕翻訳家としてのスキルの低さも自覚して欲しいです。

 とまあ、みなさまの代わりにツッコンでみましたが、そもそも戸田奈津子というお方、自身のスキルの低さや誤訳を頑として認めないというプライドの高さに加え、問題を「映画字幕の技術的事情」に巧みにすり替え、さらに言えばその言い訳が世間に理解されるだろうと考えている「甘さ」「世間知らず」が見え隠れします。そしてそれが映画ファンから蛇蝎のごとく嫌われている原因なのですが、まあそれさえもご本人は理解できていないでしょう。

 ところで本書は主に映画スター交友裏話という体裁で、戸田氏のミーハーぶりがいかんなく発揮されています。それに表紙にはバッチリとご本人のご尊顔が登場していますので、書影は当ブログには載せません。Amazonへのリンクを一応貼っておきますが(こちら)、ぶっちゃけ図書館で借りて読めば十分な本ではあります(管理人はそうしました)。

 管理人は原田氏の訳を全面的に支持するわけではありませんが(意味が通らない日本語がある)、それでも『フルメタル…』のハートマン軍曹語録(詳細はこちら)がネットミームとして定着した功績を考えればそれもまた「味」と肯定的に捉えています。ですがもし戸田氏の訳がOKになっていたら・・・『ロード・オブ・ザ・リング』ファンの苦労がこちらにのしかかってきたわけですから、それが避けられただけでも御の字だと、キューブリックファンは思わなければいけないのかも知れませんね。

追記・訂正:2024年3月27日
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