キューブリックを支えたスタッフたち

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『ライフ・イン・ピクチャー』でインタビューに応えるアレキサンダー・シンガー。

 キューブリックのウィリアム・ハワード・タフト高校時代の親友で、初ドキュメンタリー『拳闘試合の日』、劇映画第2作『非情の罠』やハリウッドデビュー作『現金に体を張れ』で制作に協力した、映画監督アレキサンダー・シンガー氏が逝去とIMDbに記載がありました。

 シンガーがキューブリックと知り合ったのは、タフト高校の学内誌にシンガーがオリジナルのSF小説とイラストを発表したところ、それを見たキューブリックが「二人で文学や芸術について話がしたい」と話しかけてきたのがきっかけでした。高校を不本意な成績で卒業後、ルック社に拾われるかたちで就職したキューブリックでしたが、やがてカメラマンという仕事に辟易とし始めました。映画監督への野心を捨てきれないキューブリックは、自身も映画監督を目指していたシンガーと映画製作について語り合います。シンガーはニュース映画制作会社に就職していたので、この時点ではキューブリックより一歩先んじていました。シンガーからニュース映画の制作費を聞いたキューブリックは「ドキュメンタリー映画を安く製作し、それを映画会社に売りつける」ということを思い立ち、実行に移します。それがキューブリックの初ドキュメンタリー『拳闘試合の日』で、シンガーはセカンドカメラマンとして制作に参加しました。また、観客としてエキストラ出演しています。

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『拳闘試合の日』で観客として演技するシンガー。

 その後、キューブリックの劇映画第二作『非情の罠』にもスチールカメラマンとして参加。そこで従軍中に知り合ったジェームズ・B・ハリスをキューブリックに紹介します。ハリウッドにコネのあるハリスは、有能な監督と組んでハリウッド進出を目論んでいました。キューブリックの処女作『恐怖と欲望』を観たハリスはキューブリックの才能に惚れ込み、キューブリックを連れてハリウッドに乗り込みます。そして制作されたのがハリウッドデビュー作『現金に体を張れ』で、その制作にシンガーはセカンドカメラマン(オープニングの競馬場のシークエンスはシンガーの撮影)として参加しました。

 このように、キューブリックが映画監督へステップアップしていった過程において、かなり重要な役割をシンガーは担っていました。特にキューブリックにニュース映画制作のきっかけを作ったこと、ハリウッド進出の立役者、ハリスを紹介したことは重要な出来事でした。その後もキューブリックとシンガーの関係は良好だったようで、キューブリックのドキュメンタリー『ライフ・イン・ピクチャー』に出演し、インタビューに応えています。

 自身の映画監督作品は、『もえつきた夏』(1961)、『プシュケ59』(1964年)、『アカプルコの出来事』(1965)、『地獄のアパッチ』(1971)、『グラス・ハウス』(1972)など。TVシリーズ・TV映画では『チェックメイト』(1962)、『逃亡者 』(1965〜66)、『ラウンダーズ』(1966)、『ザ・モンキーズ』(1967〜68)、『明日なき男』(1967〜68)、『スパイ大作戦』(1967〜69)、『はみだし野郎/アウトサイダー』(1968〜69)、『ザ・ボールド・ワン/ザ・ローヤーズ』(1971〜72)、『西部二人組』(1972)、『ウィーン諜報網』(1973)、『マジシャン』(1974)、『ザ・ファースト36・アワーズ・オブ・ドクター・デュラント』(1975)、『SFタイム・トラベル/シカゴ大火に遭った男たち』(1976)、『グラマー強盗団』(1976)、『ポリス・ストーリー』(1975〜77)、『女刑事ペパー』(1974〜77)、『バンコ』(1977)、『サンゴ礁の美女救出作戦!!シャーク・ハンター 』(1978)、『真珠湾』(1978)、『事件記者ルー・グラント』(1980〜82)、『ザ・リターン・オブ・マーカス・ウェルディ,M.D.』(1984)、『ダラス』(1979〜85)、『探偵レミントン・スティール』(1983〜85)、『ヒルストリート・ブルース』(1983〜85)、『ノッツ・ランディング』(1981〜85)、『女刑事キャグニー&レイシー』(1982〜86)、『冒険野郎マクガイバー』(1985〜87)、『刑事ハンター』(1988)、『イン・ザ・ハート・オブ・ザ・ナイト』(1989)、『ジョーク・アンド・ファットマン』(1989〜92)、『新スタートレック』(1992〜94)、『炎のテキサス・レンジャー』(1993〜94)、『スタートレック:ディープ・スペース・ナイン』(1993〜96)、『スタートレック:ヴォイジャー』(1995〜98)など。

 1928年4月18日、アメリカ・ニューヨーク生まれ、2020年12月18日逝去、享年92歳。
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Tom Howard
『2001年宇宙の旅』公開直後、1968年7月のトム・ハワード。

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トム・ハワードが『2001年…』のために開発した高精細なフロント・プロジェクション。

1959年、『親指トム』で第31回アカデミー賞特殊効果賞を受賞するトム・ハワード。とても控えめな性格だったそうだ。

 デヴィッド・リーンの『陽気な幽霊』(1945)、ジョージ・パルの『親指トム』(1958)で二度のオスカー(特殊効果賞)を受賞していたトム・ハワードは、当時まだ30代後半の若造だったキューブリックにとって頼れる存在だったのは間違いありません。当時ハワードはボアハムウッドMGMスタジオ所属の特殊視覚効果監督だったからです。若いスタッフが多かった『2001年宇宙の旅』の制作現場で、当時50代半ばだったハワードは少し浮いた存在だったかもしれません。ですが、この人なしには「人類の夜明け」の高精細なフロント・プロジェクションは実現しませんでした。

 ロケを嫌がるキューブリックは「人類の夜明け」のパート全てをセットで撮影することに決定しました。しかしそうするにはスタジオ内にアフリカの風景を再現しなければなりません。近景は作り込むことができても、遠景は当時の一般的な方法であるマットペインティングやリア・プロジェクションでは、70mmシネラマで制作していた『2001年』が求める水準に達しないことは明らかでした。そこでキューブリックが下した判断がフロント・プロジェクションの採用だったのですが、当時まだ一般的でなかったこの技術をここまで大々的に使用した例はありません。ハワードはキューブリックの高い要求に応えるべく、フロント・プロジェクション用の背景用スクリーン、大量の照明、そしてハーフミラーを組み込んだ特殊な撮影装置(8×10で撮影された背景のポジフィルムは、カメラの真上に設置されたプロジェクターからハーフミラーを通して背景スクリーンに投影された)を開発、それを実現させました。また、宇宙船が動いて見えるように、コンピュータでサーボ制御されたステッピングモーターを発明するなどしました。

 キューブリックは『2001年…』における特殊効果の貢献度をまず自分、次にウォーリー・ヴィーヴァース、次にダルラス・トランブル、そしてトム・ハワードであると公式の声明を出しています(コン・ペダーソンは進行・管理業務が主だったので名前は挙がっていないが、それも大きな貢献のひとつであることは変わりない)。「貢献度」というのは「完成作品から見た貢献した範囲」と言い換えることができるので、作品全般に関与したキューブリック、ヴィーヴァース、トランブルの後になってしまうのは仕方ないにしても、やはり大きな貢献だったことには変わりありません。『2001年…』以降、ハワードは『戦争と冒険』『星の王子さま』などでも特殊効果を担当しましたが、1974年を最後に映画界を引退しました。MGMが倒産した時期と重なりますので、そのタイミングで引退を判断したのではないかと考えています。

 1930年代に映画界に入り、1945年にその革新的な技術力にMGM社が注目、ボアハムウッドにある英国スタジオ部門の視覚効果監督に招聘、それから引退するまで150本もの映画に関わり、そのうち85本の仕事を成し遂げました。英国撮影監督協会の創設メンバーでもあり、まさに「英国特撮界のレジェンド」と言うべき人物だと言えるでしょう。『原子怪獣現わる』(1953)に影響された『ゴジラ』(1954)に、再び影響され返した(『原子…』のスタッフが参加した)『怪獣ゴラゴ』(1961)で特殊効果を担当したのもハワードでした。1985年8月30日、ハートフォードシャーの自宅で亡くなりました。享年75歳でした。
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 故スタンリー・キューブリック監督の右腕として知られるエミリオ・ダレッサンドロを追ったドキュメンタリー映画『エス・イズ・フォー・スタンリー(原題) / S Is For Stanley』について、アレックス・インファセリ監督が、1月27日(現地時間)ニューヨークのジェームズ・ホテルで語った。

〈以下略〉

(全文はリンク先へ:シネマトゥデイ/2017年2月3日




 キューブリックのパーソナルアシスタント兼運転手のエミリオ・ダレッサンドロについてはこのブログでも何度か採り上げています。この『S Is For Stanley』は書籍『Stanley Kubrick and Me』として刊行されていますが、ドキュメンタリーも制作していたんですね。上記の動画は観ていましたが書籍のPVと勘違いしていました。

 そのドキュメンタリーの監督のインタビューなんですが・・・ちょっと話を盛りすぎていて違和感があります。もちろんキューブリックのプライベートおけるエミリオの役割は小さくなかったですし、キューブリック作品にもスタッフとして参加(『アイズ…』では新聞スタンドのおじさんとしてエキストラ出演)していますが、その役割は主に「使い走り」であって、キューブリックのクリエイティブな側面には全く寄与していないと言っていいでしょう。そもそもエミリオ自身がこのインタビューで映画自体に興味がなかったことを明かしています。

 現在メキシコシティで開催中の『スタンリー・キューブリック展』についても、そこに展示されている品々のほとんどはキューブリック邸の倉庫に眠っていたものなので、ここでもエミリオは貢献していません(キューブリックの指示で整理や管理はしていたかも知れませんが)。それにエミリオとキューブリックが知り合ったのは『時計…』の頃なので、「その頃のキューブリックは、アート映画として評価されていても、興行面では成功を収めていなかったため、ディープな映画ファン以外の知名度はそこそこだったんだ」というコメントにも違和感があります。キューブリック作品にエミリオが多大な影響を与えたような印象を与え、集客に結びつけようとする意図がありありと透けて見えます。

 もちろんこのドキュメンタリーは観たいと思いますし、管理人のようなコアなキューブリックファンには興味深い内容であるのは間違いありません。しかし、そこで語られているのは恐らくキューブリックのプライベートに関することがほとんどだと思われます。ですので、キューブリックの生涯を俯瞰した評伝『映画監督スタンリー・キューブリック』の内容が頭に入っている人でないと楽しめないと思います。ドキュメンタリー映画として公開しても集客は望めないでしょう。

 DVDやBDの特典映像で構いませんので、ぜひ視聴してみたいです。ワーナーには何らかの形でのリリースを期待したいですね。
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Tony Frewin-1
アンソニー・フリューイン(Wikipedia)
Anthony Frewin(IMDb)

 1965年9月から1968年までと1979年から1999年の23年間、キューブリックのパーソナル・アシスタントとして活躍した。担当したキューブリック作品は『2001年…』『時計…』『シャイニング』『フルメタル…』『アイズ…』の5作品。年代から考えると、フリューインはキューブリックが少し手狭なアボッツ・ミードに住んでいた時代はキューブリックと行動を共にしていない。広大なハートフォードシャーの屋敷に引っ越した際に、キューブリックが再びアシスタントとして雇い入れたのではないかと推察されるが詳細は不明。

 キューブリックの名を騙ったコメディ『アイ・アム・キューブリック』では脚本を、キューブリックのドキュメンタリー『ア・ライフ・イン・ピクチャーズ』ではプロデューサーを担当した。

 1947年、イギリス・ロンドン出身。
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 2012年にキューブリックのパーソナル・アシスタント兼運転手、エミリオ・ダレッサンドロの回顧録『キューブリックと私(Stanley Kubrick e me・イタリア語版)』が上梓された際に出演したTVインタビューの動画です。だいたい以下のような内容を話しているようです。


エミリオ:

「(キューブリックと知り合ったのは)巨大なペニスの置物(ザ・ロッキングマシーン)をセット(ロケ地)に届けたことでした」
「その日は道路が凍結していたので、スタッフは高価なアート作品を運ぶのを嫌がりました」
「映画会社から私のタクシー会社に連絡がありました」
「会社は私が元レーシングドライバーだと知っていたので、そんな悪条件でも運転できると考えたのです」
「スタンリーはそのミッションを果たした人物を知りたがりました」
「そして彼と会い、彼との仕事が始まりました」

フィリッポ:

「スタンリーは古い新聞の切り抜きからエミリオが元F1レーシングドライバーだと知りました」
「スタンリーはその件についてエミリオに尋ねました」
「スタンリーはエミリオを非常に魅力的に感じました」
「それから二人の30年間に渡る友情が始まったのです」

エミリオ:

「スタンリーから他の仕事はできるか?と訊かれました」
「私にはあなたがニューヨークの新聞スタンドの販売員のように見える、と」
「OK、それだけなら演りましょう、と言いました」
「この2秒あまりのシーンに2週間かかりました」
「毎晩『エミリオはキオスクに行く」です」
「30分のフィルムテストをやっていました」

「フェリーニの電話の通訳を頼まれた際、私とスタンリーはメモを片手に床に座りました」
「しかし私は彼らが話す(専門的な)内容を理解することができませんでした」
「私はフェリーニが語る内容をなんでも書き留め、英語に翻訳してスタンリーに伝えました」
「その後、スタンリーの回答をフェリーニに伝えました」
「私はその内容を理解できませんでした」

「スタンリーの真実は、プロジェクトを止めたことがないという事です」
「スタンリーはアメリカとヨーロッパ両方のタイムゾーンで働いていました」
「仕事以外の時間はありませんでした。しかし、彼は疲れ知らずでした」
「彼はめったに風邪をひきません。常に体調は良好でした」

(フィリッポによる『2001年…』の解説)
(エミリオによる『時計…』の上映禁止の話)
(フィリッポによる「月面着陸捏造説」の話)

エミリオ:

「キューブリック作品で一番好きなのは『スパルタカス』です。しかしスタンリーは理解しかねていました」
「すべての作品が素晴らしいです。しかし私はそれらを鑑賞する時間がありませんでした。あまりにも長いのです。2時間もあります。」
「私には私の他の仕事があります」

「スタンリーの死は未だに信じられません」
「父が亡くなった時の方がまだましでした」
「スタンリーの死はすべてを壊してしまったのです」

「スタンリーとの30年間は素晴らしかったです」
「私は一日の終わりに、私が行った仕事に対して感謝するスタンリーの笑顔を見ました」
「私は疲れていてもそれが見たいために働き続けました。私はその笑顔が好きでした」





 ここで登場しているフィリッポ・ウリビエリとは、イタリアのキューブリック研究家で、この『キューブリックと私』の共同著者でもあります。フィリッポのサイト『Archivio Kubrick』は有名で、デザインを見てわかるようにiMac時代、2001年にスタートしています。

 このインタビューからもわかるように、非常に心温まるエピソードが満載のようです。是非とも邦訳をお願いしたいですね。
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