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数枚の紙をまとめただけの台本を手にしたジューン・ランドールと台詞の練習をするジャック・ニコルソン。(『メイキング・ザ・シャイニング』より)

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撮影の現場で「アイデアを出して」とジューン・ランドールに指示されるジャック・ニコルソン(『メイキング・ザ・シャイニング』より)

 キューブリックは「脚本、撮影、編集は映画監督がしなければならないこと」と語り、映画制作におけるこの3点の重要性を語っています。キューブリック全作品13作とドキュメンタリー3本の内、キューブリックが撮影だけを担当したドキュメンタリー『海の旅人たち』以外の全作品で「脚本、撮影、編集」を担当しています(ノークレジットでも参加している)。その3つの中で今回は「脚本」について記事にしたいと思います。

 キューブリックはイメージフォーラム1988年6月号に掲載されたロングインタビューで、明確にこう応えています。

(脚本は)リハーサルでも状況に応じて変える。撮影現場で重点の置き方が変わることもあるから、シナリオ(脚本)の最終決定稿が完成するのは、撮影現場で最後のショットが終わった時だ。

つまり、脚本として冊子(本)になったものは叩き台でしかなく、撮影時も脚本は変化し、発展する。すなわち撮影とは脚本を映像化する作業ではなく、脚本を発展させつつ同時に撮影もするということ。だからリハーサルも重要になってくる、という趣旨です。

 このことは一般的な映画制作の手順とは大きく異なります。おそらくキューブリック独自の制作方法と言っていいと思います。なぜなら、この方法を実現するためには、資金提供を受けた映画会社から制作期間と資金面で大幅な自由を確保しておかなければならないからです。それを可能にした監督は数少なく、生涯にわたってそれを確保し続けたキューブリックは稀有な存在だと言えると思います。

 もちろんそれはキューブリックが苦労に苦労を重ねて手に入れた「特権」だったわけですが、これを「特権」と言ってしまうことに映画業界のいびつさがあると考えています。他の分野のアーティスト、例えば小説や絵画、音楽や写真などであれば「これだ!と思えるアイデアに行き当たるまでトライ&エラーを繰り返す」というのは「当たり前のこと」です。しかし映画制作でそれが許されるのは脚本や絵コンテ、ストーリーボードの段階までで、撮影に入ると「いかに効率よく脚本を映像化するか」が求められます(もちろんそうしなければならない現実的な事情は理解しています)。キューブリックは撮影の段階でも「これだ!と思えるアイデアに行き当たるまでトライ&エラーを繰り返し」ました。ですがそれを映画界では「特権」と言われてしまうのです。キューブリックが他の映画関係者から「アーティスト(芸術家)」と呼ばれるのは、他の分野のアーティストが当たり前のようにしていることを、映画の世界で実現させていたからだと思います。

 このように映画界の常識とは異なるキューブリック「特権」的な(もちろん特権ではなく当たり前であるべきことですが)映画制作環境を知らずに、他の映画監督と同じだと考えてキューブリックを評したり、批判したりするのは完全に間違いです。『スパルタカス』で脚本のクレジットについて、当時赤狩りでハリウッドから(表向き)追放されていたダルトン・トランボの名前を出すか否か揉めた時、キューブリックは「自分の名前を出せばいい」と言ったのも、「私は撮影時にも脚本を発展させているのだから、クレジットされるに値する」と考えていたからだと思います。ですが、その意図をカークは理解せず「脚本を一行も書いていないのになんて傲慢な奴」と呆れ、批判しました。もちろんキューブリックは自身の名前を売りたいという欲求があった(当時キューブリックは一般的な知名度はなかった)ことは否めないかも知れません。しかし個人的にはそこにキューブリックの確固たる信念を感じます。つまり「脚本、撮影、編集は映画監督がしなければならないこと」という信念です。

 キューブリックの(撮影前に一応完成していた)脚本にとらわれない姿勢は、撮影現場に原作小説を持ち込んでそれを台本がわりにしたり、台本係に日々変わるセリフを記録させ、それを翌日の台本(と言っても数枚の紙)にしたり(『メイキング・ザ・シャイニング』に数枚の紙でしかない台本が映っている)、俳優のアドリブやスタッフの思いつきのアイデアを試したり(『2001:キューブリック、クラーク』でもその舞台裏の記述がある)と、非常に柔軟で自由自在でした。その事実があるからこそ「脚本が完成するのは、撮影現場で最後のショットが終わった時」とインタビューで応えているのです。

 さて、アマチュアかプロであるかに関わらず、小説でも絵でも音楽でも写真でも創作活動をされている方なら、この「これだ!と思えるアイデアに行き当たるまでトライ&エラーを繰り返す」ということは当たり前だと感じているでしょうし、たとえ創作活動をされていない方でも、それを感覚として理解されている方はいらっしゃると思います。私は個人的な印象として、そういった「創作心(そうさくごころ※私の造語です)がある人」にはキューブリック作品は理解され、共感されやすいのではないかと思っています。キューブリックのファンにアーティストやクリエイターが多いという事実もそれを裏付けているでしょう(全てが全てそうだと断定しているわけではありません)。

 であれば、キューブリックの「これだ!と思えるアイデアに行き当たるまでトライ&エラーを繰り返す」という創作者としての「当然のこだわり」を、同じ創作者なら理解すべきだと私は思います。その理解があれば、面白おかしく「些細なミスも許さない偏執的完全主義者キューブリックの鬼リテイク」などと事実誤認も甚だしい揶揄などできないはずです。映画作品において監督の名前はその作品の作者として永遠について回るのです(死後においても)。だからこそキューブリックはとことんこだわって映画作りを行ったのです。その心理も創作者なら、創作心をお持ちの方なら共感できるでしょう。