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キューブリック版『シャイニング』でダニーを演じたダニー・ロイド(撮影時5〜6歳)。小説版の設定年齢と同じ。

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TV版『シャイニング』でダニーを演じたコートランド・ミード(OA時10歳)。ゆるい口元が利発さを感じさせない。

 キューブリック版『シャイニング』では、原作で中心的に活躍する「シャイニング」、つまり超能力(ESP能力)がほとんど描かれませんでした。そのため、現在に至るまで「キューブリックの『シャイニング』は『シャイニング』というタイトルながら「シャイニング」ではない」と、原作ファンを中心に批判され続けています。確かにその通りなのですが、あらゆる可能性を探り、判断して映画作りをするキューブリックが、こういった批判の可能性を考慮していなかったとは考えられません。この考察では「キューブリックは『シャイニング』における「シャイニング」の扱いを〈あえて〉矮小化した」という仮定に基づいて、なぜキューブリックがそうしたかのかを考察してみたいと思います。

 さて、いきなり結論を書いてみたいと思います。それは、キューブリックがダニー・トランスを物語の主人公から脇役へと追いやり、ジャックを中心に据えたからです。原作小説では、物語はダニー・トランスと、ダニーが持つ「シャイニング能力」を中心に物語が進行します。しかしキューブリックはダニーを〈あえて〉物語の中心人物から脇役へと追いやり、父親であるジャックをその中心に据えました。その理由は主に以下の3つが考えられます。

‐説のダニー・トランスが5歳児とは思えない問題

 原作小説のダニーは、物語の序盤では言葉の意味がわからなかったり誤解するなど、5歳児らしい言動を繰り返します。しかし、クライマックスになるとジャックさえ気づいていない「幽霊達の真の目的」を看破し、悪と対峙します。長編の小説であればその変化はゆるやかであり、また、文字として読んでいるだけなのでほとんど違和感を感じさせません。しかし2時間で映像を見せる映画では違います。そんな短い時間で急成長するダニーの姿を映像化すれば、単なる御都合主義に陥ってしまう可能性があります。

 そのため、キューブリック版『シャイニング』のダニーは終始5歳児らしさを失いません。常に幽霊や父親に怯え、その真意や意図に気づくことはないのです。唯一聡明さを感じさせるのは、終盤でジャックを迷路でまくシーンのみです。キューブリックはダニーを「リアルな5歳児」にしておきたかったのでしょう。5歳の感受性ならプレコグやテレパシー、イマジナリーフレンドを持っていてもまだリアルに見えるかもしれない・・・そんな思惑があったのかもしれません。しかしそうなると、物語後半の大人顔負けの大活躍を(5歳のダニー・ロイドでは)描けません。であれば、いっそのことストーリーをダニーの物語からジャックの物語へ改変してしまおう。そう判断したのではないでしょうか。ちなみにスティーブン・キングも同じことを思ったようですが、キューブリックとは異なった判断をしました。すなわちダニーを10歳のコートランド・ミードに演じさせたのです。

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 キューブリックは「シャイニング(ESP)能力」について

 (ESPについて)実際のところ、しなければならない調査というものはなかった。この物語は特に要求していなかったし、私はずっとその話題に興味があったから、必要な(こと)だけはわかっていたと思う。ESPとそれに関連した心理現象が、最終的に、それらの存在についての普遍的な科学上の証明を見つけられればいいと思う。(引用:ミシェル・シマン『キューブリック』)

とインタビューで応えています。つまるところキューブリックは、ESPの調査という、そのものがなかった。映画制作上必要でもなかったと言っているわけですが、この後自分の飼い猫が、自分が毛玉を取ろうと考えている時に限って逃げ出してしまうという事実を例に出し、そういった「第六感」「以心伝心」レベルの事象を興味深そうに語っています。

 キューブリックは「リアル」や「リアリティ」にこだわる監督です。ここで言う「リアル」とは、「根拠」「裏付け」「整合性」という意味です。『2001年宇宙の旅』では、異星人を「科学的に定義された神」という「根拠」を設定できました。しかし『シャイニング』では、ESPについてキューブリックが納得いくだけの根拠を探す方法さえありませんでした。根拠がないものを「ない」として描くことを嫌うキューブリックが採った方法は、ESPの描写を最低限にすることでした。ラストシーンで「シャイニング能力」が活躍する原作小説と、全く描写されない映画の違いはこうして生まれたのだと思います。

最恐の恐怖映画を作りたいキューブリックにとって「シャイニング」は不要

 キューブリックは常々「どのジャンルの映画も一度は作られている。我々がすべきことはそれよりもいい映画をつくることだ」と語っていました。当時のホラー映画ブームで評価されていたのは『エクソシスト』『オーメン』『サスペリア』などですが、キューブリックはこれらを超える「最恐の恐怖映画」を目指したのです。そこでキューブリックが考えた「恐怖の視覚描写」とは、「廊下や迷路を走り回る映像」「血のエレベーター」「双子の少女」「狂気のタイプライター」「斧を振り回すジャック」「恐怖に叫ぶウェンディ」「ホモ行為に及ぶ犬男と紳士」など、どれも原作小説に登場しないものばかりです。ですが、小説では重要な役割を果たすシャイニング能力は、キューブリックが目指す「最恐の恐怖映画」には必要ありません。キューブリックはダニーのシャイニング能力が恐怖描写に関係する部分(双子の少女や血のエレベーター、REDMUMの幻視)と、物語上必要な部分(テレパシーでハロランと通じ合う)のみを残し、あとは捨て去ってしまったのです。そうなるとダニー(ハロランも)が物語で果たす役割は少なくなり、脇役へと追いやられるのは必然と言えるでしょう。

結論:キューブリック版『シャイニング』で「シャイニング」の描写が少ないのは、ダニー・トランスを主人公から脇役へと追いやり、ジャックを物語の中心に据えたから。その理由は以上の通り。

 キングは掲示板でファンと交流した際、「自分の書いた小説のキャラで実際に会えるとなると誰に会いたいか?」という質問に対して「ダニー・トランス」と応えています。原作小説に描かれた頭が良く行動力があり、勇気を振り絞って悪と戦うダニー少年は、キングの理想の少年像なのでしょう。そう考えるとTVドラマ版『シャイニング』や続編『ドクター・スリープ』で、ダニーとシャイニング能力を物語の中心に「取り戻した」のは当然だと言えます。そのかわり両作品はキューブリックが否定した「根拠もリアリティもどこ吹く風、御都合主義のオンパレード」となってしまったのも仕方がないことでしょう。

 作り手側の意図は説明した通りですが、受け手側は結局のところキューブリックとキングの映像化に対する考え方の違いの、どちらに共感するのか? 楽しめるのか? に尽きると思います。「たとえフィクションでもリアリティ(根拠)を感じないと楽しめない」と思うならキューブリック支持、「フィクションはフィクションとしてリアリティ(根拠)無視でも楽しめる」と思うならキング支持、となるでしょう。どう感じるかは受け手の自由です。だた、作り手側の考え方を知っておとくことは、その作品を理解する上で役に立つことは間違いないでしょう。

 余談ですが、「シャイニング」でなくなってしまった映画のタイトルが『シャイニング』である理由ですが、『シャイニング』はキューブリック作品中唯一「映画会社が映画化権を持っていた小説を映画化したもの」だからです。キューブリックは通常、自分でお気に入りの小説を探し出して作者と直接交渉して映画化権を購入、それを映画会社に売り込むという方法を採っています。しかし『シャイニング』だけは違います。権利を持つワーナーがメディアミックスの観点からタイトル変更を許可するとは思えないし、キューブリックもそこまで必要ないと考えていたのかもしれません。