1963年、ピート・ジョージ原作のシリアスな偶発核戦争小説、『赤い警報』を読んだキューブリックは、この作品を映画化することにする。原作通り、シリアスな作品にするつもりだったキューブリックは、次々にくだらないアイデアが浮かんでくるのを押さえきれなかった。それならばと、ストーリーをまるっきりブラックコメディーに改変してしまう。それが功を奏し、『博士の異常な愛情:または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか(Dr.Strangelove or:How I Learned to Stop Worrying and Love the Bomb)』 と改題した本作は、 ブラックコメディーの傑作として完成する。

 1964年1月、『博士の異常な愛情』公開。 東京オリンピックに沸く日本以外、興行的にも成功し、作品自体も各方面で大絶賛される。

 同年4月、キューブリックはSF界の巨匠、アーサー・C・クラークとニューヨークで初めて顔を合わせる。長年の夢であった、「語り草になる、いいSF映画」を製作するためだ。またこの年の暮れ、実現はしなかったが、キューブリックは手塚治虫に美術監督依頼の手紙を書いている。

 1965年2月、『星々の彼方への旅(Journey Beyond the Stars)』と題された作品は、 クラークとキューブリックの共同脚本、 MGMの出資により製作を開始する。製作は、キューブリックの細部までこだわる徹底した完全主義と、クラークとの微妙なコンセプトの食い違い、新しい特撮技術の考案など、 膨大な製作費と3年の年月が費やされる。

 1968年4月、やっと完成した作品は、タイトルを 『2001年宇宙の旅(2001:A spasce Odyssey)』とし、一般公開された。当初、スケールの壮大さ、ストーリー性を排した暗喩の多用。説明的なセリフの徹底した排除など、とても一般的とは言えない映画に、観客はもちろん、評論家までもが翻弄されてしまう。しかし、クラークの小説版の出版も手伝って、徐々に最高傑作、金字塔、比類なき偉大な作品との評価を得る。この作品によって、キューブリックは「巨匠」の高みまで登り詰めたのだ。だが、この年のアカデミー賞では、「特殊視覚効果賞」のみの受賞であった。原作者であるクラークは、この扱いに露骨に不快感を表明している。

 1969年、キューブリックの次回作はMGMの出資による大作、『ナポレオン』とアナウンスされるが、資金繰りが悪化したMGMはこれを断念する。

 1970年3月、 キューブリックは一転して、 小予算と小規模のスタッフでアンソニー・バージェスの小説、『時計じかけのオレンジ(A Clockwork Orange)』の映画化を決定する。

 1971年12月、ワーナー・ブラザースの配給により、『時計じかけのオレンジ』が一般公開される。激しい暴力描写とセックス賛美に、一部の観客や評論家に拒否反応はあったものの、この年の「ニューヨーク批評家協会賞」を受賞する。

 この時期に創られた『博士の…』『2001年…』『時計じかけ…』の3作品は、 キューブリックの創造性、 評価、興業成績において、もっとも充実していたことは間違いないだろう。