1954年、自主製作映画第2弾、『非情の罠(Killer's Kiss)』の製作を開始する。その最中、キューブリックは1人のプロデューサー志望の青年、ジェームズ・B・ハリスと出会う。ハリスはテレビや映画などの配給会社、『フラミンゴ・フィルムズ』のオーナーの息子で、有能な監督を探していたところだった。

 1955年9月、 『非情の罠』が完成し、 ユナイテッド・アーティスツの配給で全米で、やがて世界中で公開される。(日本では、映画の輸入制限枠の関係から、短縮版で公開)犯罪サスペンス物のわりには緊張感に欠けていたためか、批評はかんばしくなく、製作費も半分程度しか回収できなかった。だが、監督の才能やセンスの良さは充分に感じられる作品だった。そして、この作品を観たハリスは、キューブリックと組む決心をする。二人は『ハリス・キューブリック・プロダクション』を設立し、ユナイトの出資とハリスの資金調達により、『現金に体を張れ(The Killing)』の製作を開始する。

 1956年5月、 ハリス・キューブリック・プロ第1作、『現金に体を張れ』が完成し、ユナイテッド・アーティスツの配給で公開される。低予算映画ながら、実質的なハリウッド・デビューとなる本作は、サスペンスを盛り上げる独特のストーリー構成が評価され、客の反応も良く、興業成績も悪くはなかった。しかし、キューブリックの監督料が出るほど稼いではくれなかったようで、キューブリックはパートナーのハリスから生活費を借りて暮らしていた。

 1957年、キューブリックと他2人の協力により書いた脚本、 『突撃(Paths of Glory)』がカーク・ダグラスに気に入られたため、ユナイトの出資により、ダグラス主演によって製作が開始された。

 同年12月、『突撃』公開。軍隊の矛盾と愚かさや、非人間性を糾弾した本作は、とてもメジャー2作目とは思えない堂々とした演出、カメラワーク、そしてその徹底された批判精神など、各方面で「有望な新人」と称賛を浴びた。

 1958年4月、前年にルースと離婚したキューブリックは、『突撃』のラスト・シーンに出演していたドイツ人女優、スザンヌ・クリスティアーヌ・ハーランと3度目の結婚をした。

 1959年、いくつかの企画が流れ、 しばらく映画を撮っていなかったキューブリックに、スペインでロケ中のカーク・ダグラスから突然連絡が入る。それはアンソニー・マン監督で撮影に入っていたカラー大作、 『スパルタカス(Spartacus)』 を監督して欲しい、との依頼だった。この依頼を引き受けたキューブリックだったが、撮影現場はすでにダグラスと脚本のドクトル・トランボが牛耳っており、 弱冠31歳のキューブリックが進言しても、 とても聞き入れられる雰囲気ではなかった。仕方なくキューブリックは、単なる雇われ監督として映画を撮り続けた。(キューブリックは結局最期まで、この作品を自身のものとは認めてようとはしなかった)

 1960年、『スパルタカス』の監督をしながらキューブリックは次回作、『 ロリータ(Lolita)』の脚本を原作者のウラジミール・ナボコフに依頼、同年9月には脚本が完成する。

 同年10月、 ローマ時代の奴隷反乱を扱ったカラー大作史劇、 『スパルタカス』が公開される。キューブリックの不満をよそに世界中で大ヒットした本作は、その年のアカデミー賞の4部門を受賞した。

 1961年、『ロリータ』の撮影に取り掛かる。MGMの資金がイギリスでしか使えなかったことと、検閲団体の余計な干渉を避けるために、イギリスで撮影される。だがもっとも大きな理由は、いかにも「ハリウッド」的な権威主義が、作家性を摩滅させてしまうのではないかと、キューブリックが懸念したために他ならない。本作品以降キューブリックは、すべての作品をロンドンを拠点にして撮影している。

 1962年9月、まずロンドンで、12月にはニューヨークで『ロリータ』が公開される。中年男性がローティーンの少女に恋をするという当時の映画界では、かなりセンセーショナルで難しい題材だったため、演出が中途半端になり、エロティシズムも欠落してしまった。批評はあまり良くなかったが、興行的には一応の成功を収めた。

 1955年以来、共に歩んできたキューブリックのプロデューサーであるジェームズ・B・ハリスは、自分自身も監督を目指すことになり、キューブリックと袂を分かつことになった。『ハリス・キューブリック・プロ』はこの年をもって解散してしまうが、キューブリックは死ぬまでハリスと友好的な関係を続けた。