1928年(0歳)

7月26日、ニューヨークのブロンクスで開業医の息子として生まれたキューブリックは、13歳の誕生日に父からカメラを贈られる。若いキューブリックを惹き付けたのは、チェス、ジャズドラム、そしてカメラだったが、特にカメラには夢中になり、学校の成績などおかまいなしに写真部の活動に熱中したようだ。

 1945年(16〜17歳)、16歳の時、ルーズベルトの死を知らせる新聞を、悲痛な表情で読んでいる新聞スタンドの売り子の写真が、写真報道誌「ルック」誌に買い上げられる。また、その後も何点か同様に買い上げられる。この事により、授業そっちのけで、より一層写真に夢中になったキューブリックだが、ハイスクールはかろうじて卒業できたものの、成績不振のために志望の大学には進めなかった。だが幸運にも、前出の「ルック」に見習いカメラマンとして入社できることになり、以来4年半もの間、アメリカ国内やポルトガルなどを飛び回り、ジャーナリストとして様々な経験を積む。そのことは、その後の彼の映画のスタイルを決定づけたと言われている。

 1947年(18〜19歳)、本格的に映画監督を志すようになったキューブリックは、まず手始めにニューヨーク近代美術館で過去の名作を、街の映画館では最新の映画を片っ端から観てまわった。映画に関する書籍も読みあさっり、特にプトキンの『フイルム・テクニック』と、ニコライ・M・ゴルチャコフの『スタニフラフスキーが演出する』には大きな影響を受けたようだ。また、この頃単発飛行機の免許を取得する。

 1948年(19〜20歳)、 ハイスクール時代の同級生であったトーバ・メッツと結婚、グリニッジ・ビレッジに新居を構える。また、「プロボクサー」と題された一連の取材と撮影を担当する。これは当時24歳のボクサー、ウォルター・カルティエの試合当日を追ったフォト・ドキュメントで、この取材は翌年ドキュメンタリー映画『拳闘試合の日』として結実する。

 1950年(21〜22歳)、ルック社を退社し、自己資金で初めての短編ドキュメンタリー映画『拳闘試合の日』を製作、RKO=パテに4000ドルで売却する。RKO=パテは今度は逆にキューブリックに1500ドル融資し、短編ドキュメンタリーの制作を依頼、『空飛ぶ牧師』製作した。

 1951年3月(22歳)、『空飛ぶ牧師(Flying Padre)』公開、4月には『拳闘試合の日(Dayof the Fight)』も公開される。また8月には初の劇場用作品『罠』の撮影を開始する。だが映画完成前にスタッフでもあったトーバ・メッツと離婚する。

 1952年(23〜24歳)、『罠』を改題した『恐怖と欲望』が完成。しかし、大手の映画配給会社から上映を断られてしまう。この頃のキューブリックは生活に困窮し、賭けチェスで日銭を稼いでいたという。

 1953年(24〜25歳)、ニューヨークの独立系シアター、ギルド劇場で、キューブリックの第1回監督作品『恐怖と欲望(Fear and Desire)』が始めて一般の観客に公開された(日本未公開)。戦場に取り残された兵士の不安と焦燥を描いたこの作品は、おおむね好評をもって迎えられた。それは同時に、「20世紀最後の巨匠」映画監督スタンリー・キューブリックが誕生した瞬間でもあった。