2022年12月

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 マーヤ・ルドルフが司会を務める『サタデー・ナイト・ライブ』の今週のエピソードから、オーバールック・ホテルとスタジオ8Hの境界が曖昧になる巧妙なコントが登場しました。「このコントには、ティナ・フェイ(「シャイニング」のジャック・ニコルソンの前任者である管理人の代わり)、クリステン・ウィグ(不気味な双子の女の子役)、レイチェル・ドラックス(浴槽の女性役)といった「サタデー・ナイト・ライブ」卒業生が登場しており、とても冷たく不穏な映画にもかかわらず、温かく愛すべき作品に仕上がっているのです。以下、ご覧ください。

(全文はリンク先へ:IndieWire/2021年03月28日




 マーヤ・ルドルフがSNLのスタジオに赴くとなぜか過去の出演者が集合しており、そこにはなかったはずのバーがあった・・・というまるまる1コーナーが『シャイニング』のパロディになっています。最後の写真に『ブルース・ブラザーズ』も登場していますね。

 まあ、細かい「笑いどころ」についてはSNLを観ていないとわかりづらいですが、詳しい方ならもっと笑えると思います。それにしても『シャイニング』、愛されていますね。
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『2001年宇宙の旅』の舞台裏を知りたいのなら必読のマイケル・ベンソン著『2001:キューブリック、クラーク』とアーサー・C・クラーク著『失われた宇宙の旅2001』。

 1964年12月末、キューブリックは『2001年宇宙の旅』の美術監督への依頼の手紙を手塚治虫に送ります。しかし、当時『鉄腕アトム』で多忙だった手塚は当初は乗り気だったものの周囲の猛反対でこれを断念し、その旨キューブリックに手紙を書きます。翌1965年1月初旬、キューブリックから「残念だ」という旨の返信が届き、二人の手紙のやり取りは終わります(詳細はこちら)。この話は手塚が証拠の手紙を見せることができなかったこと、手塚が1964年を1963年と間違えて覚えていたことなどから「手塚のホラ話」として当時は全く信じられていませんでした。それに加えて手塚の描く「子供っぽい未来感」と、完成した『2001年…』に於けるディテールまでこだわり抜いたリアルな世界観とのギャップがあまりにも大きかったことも影響したのではないかと思います。現在ではこの話は「事実」と確定していますが、では、キューブリックは手塚(『鉄腕アトム』)のどこが気に入って美術監督のオファーをしたのかを、事実を列挙しつつ考察してみたいと思います。

(1)ストーリーからの考察

 1965年2月、後に『2001年宇宙の旅』となるSF作品は『星々の彼方への旅(Journey Beyond the Stars)』として記者発表されます。ここでMGMに渡されていた脚本はクラークが1964年のクリスマスにキューブリックに「結末は未定だがそれ以外は完成した」として渡したものであると思われます。つまり、手塚治虫にオファーした段階は脚本の初稿が出来上がった段階と言えるでしょう。その初稿の詳細については不明ですが、初期段階の脚本(小説)の一端はアーサー・C・クラーク著の『失われた宇宙の旅2001』に掲載されています。以下はその一部の抜粋です。フロイド議員(博士ではない)がロボット開発担当のブルーノ博士とロボット「ソクラテス」(後のHAL)の研究室を訪問し、ロボットの説明と人工睡眠のテストの視察を行うシーンです。

 ドアが開いた。ソクラテスはかるがると優雅に歩き、議員団と対面した。
「おはようございます、フロイド上院議員。適応マシン研究所一般ロボット工学部門へようこそいらっしゃいました。わたしはソクラテスといいます。どうぞ最新の成果をごらんください」
上院議員とその同行者たちは目を見張っている。写真ではいくらもソクラテスとその先行モデルを見ているが、じっさいに動き、しゃべるスチールと透明プラスチックの優雅さはじかに出会ってみないことにはわからない。外見はおおよそ人間の背丈や体つきに模してあるものの、異様に人間っぽいというわけではなく、ホラー映画の金属モンスターにあるような剽軽さや不愉快さはない。 ソクラテスの持ちまえのメカニックな美は、独自の物差しで計らなければいけないものだ。
 脚部は大きな円いパッドの上にのり、すべりのよいショックアブソーバー、自在継ぎ手、引っ張りバネの精巧な集合体が、軽い金属のフレームワークに支えられている。一歩踏みだすごとにうっとりするようなリズムで屈伸するさまは、まるでそれ自体に命がそなわっているようだ。
 ヒップから上では−多少の擬人的用語はどうしても避けられない−ソクラテスの体は平凡な筒形で、あちこちに見える検査ふたの下には電子機器が隠れている。両腕は、脚をもっと細くデリケートにしたものだと思えばいい。右の手首から先は単純な三本指となり、ぐるぐると回転する。左手のほうは万能工具で、いろいろと取り揃えた便利な器具のなかには、コルク抜き兼缶切りも含まれる。どうやらソクラテスはあらゆる非常事態に対処できるようだ。
 首から上は顔ではなく、種々のセンサーの集合から成るむきだしのフレームワークである。一台のTVカメラで360度の視野が得られるが、これは四つの広角レンズがそれぞれ四つの方位を向いているからである。人間とちがい、ソクラテスには自由に動く首は必要ない。彼はぐるりをいっぺんに見ることができるのだ。
「わたしはあらゆる宇宙活動用に設計されておりまして」 ソクラテスは説明し、独特のスタイルで身を揺すりながら医療区画のほうへ歩いていく。 「独立した行動もとれるし、本部からでもコントロールがききます。 通常の障害物にぶつかったときや、かんたんな非常事態の判定くらいは、内蔵された知性で楽に処理できます。いまわたしはモルフェウス計画の管理をまかされています」

〈中略〉

「さて、ここがそうです。どうなりとご判断を」
 ロボットに案内されて、すでに一行は広い殺風景な部屋のなかにいた。まん中には宇宙カプセルの実物大模型がいすわっている。長さ六メートル、直径三メートルの円筒形で、 片側にはエアロックがあり、周囲にはポンプや電子機器、記録装置、 TVモニターなどが並んでいた。窓はひとつもないが、内部の全景はずらりと並んだモニター画面で見ること ができる。そのうちの二つには、少々おだやかならぬ像が映っていた―意識のない男二人のクローズアップだ。目は閉じられており、剃りあげた頭に金属のキャップをかぶり、 体には電極やピックアップ装置を付け、二人とも呼吸しているようには見えない。
「眠り姫ならぬ眠り公子ですよ」とブルーノはウィルキンズ下院議員にいった(しかし、 いいながらも戸惑いをおぼえる。どうしてここへ来ると、いつも声を低くしてしまうのか? かりにあの二人が目を覚ましていても、声がとどくはずはないのに)。「左がホワイトヘッド、右がカミンスキーです」

(引用:『失われた宇宙の旅2001』P136〜139抜粋)


 読んでいただけたらわかるように、なんとも微笑ましい子供向けマンガのような未来図です。登場する「ソクラテス」なるロボットは『禁断の惑星』のロビーを彷彿とさせます。そしてそれは手塚治虫が描く未来図とも共通することに気がつくでしょう。これなら手塚にオファーがあっても不思議ではありません。ちなみにこの一連のシークエンスは早い段階でボツになっています。

(2)美術デザインからの考察

 以下はリチャード・マッケンナが描いた初期の宇宙ステーションとオリオン号のストーリーボードです。これなら手塚でも描けそうです。

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1965年春頃にリチャード・マッケンナが描いた宇宙ステーションとシャトルのストーリーボード。

(3)NASA出身のスタッフの参加

 このように、当初はSF空想マンガのような世界観で進んでいた『星々の彼方への旅』ですが、あるスタッフが加入したことにより、究極リアル志向に舵を切ります。それは元NASAのフレデリック・オードウェイとハリー・ラングです。1965年春頃から仕事を始めた二人にとって、『星々の彼方への旅』での科学的根拠のない、単なる空想で描かれたデザインが気に入らなかったに違いありません。キューブリックは二人のコネからもたらされるNASAのリアルな現場のデザインを知り、猛然とリアル志向へと舵を切ったのだと思います。クラークが「(1964年末の)決定稿(と思っていた初稿)が次々とボツにされた」と語るキューブリックの心変わりに、オードウェイとラングの存在があったであろうことは想像に難くありません。

 上記のストーリーボードはロイ・カーノンによって描き直されています。このレベルになると手塚には描けないでしょう。ロイ・カーノンは1966年製作のドキュメンタリー『2001年という“未来”(A Look Behind The Future)』に登場しています(詳細はこちら。7:50頃)。

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1965年にロイ・カーノンが描いた宇宙ステーションとシャトルのストーリーボード。

(4)キューブリックはどこで『鉄腕アトム』を知ったのか?

 『Astro Boy(鉄腕アトム)』はアメリカNBCにより1963年9月7日から全米放映スタート、1965年まで104話が放送されました。キューブリックは1963年秋頃から1965年夏頃までニューヨークのマンションに家族とともに在住、自宅マンションで仕事をしていた時期もあるので、その時に子供が観ていた『Astro Boy』を一緒に観た可能性が高いと思われます。

(5)もし手塚治虫が『2001年宇宙の旅』制作に参加していたら・・・

 『2001年…』の美術部門には有名無名の多くのアーティストが参加しています。キューブリックが手塚にオファーしたのは美術部門のトップではなく、未来メカを描き慣れたリチャード・マッケンナなロイ・カーノンのような立場としてだった可能性があります。どちらにしてもキューブリックの面接やテストをパスしなければならず、もしパスしたとしても全身全霊でキューブリックの厳しい要求に応えなければなりません。あの「エゴの塊」のような手塚治虫がそんな立場を許容するはずがなく、喧嘩別れは必至だったでしょう。

 手塚は『2001年…』参加のオファーをもらったこともあり、手紙の一件以降キューブリックに対してシンパシーを感じ、ニューヨークに行くたびに会いに行ったが会えなかったそうです(その頃はイギリスに引っ越した後だった)。また、手塚作品にもその影響は感じられ、「ファン」というなら「手塚治虫はキューブリックのファンだった」と言えるでしょう。この二人の共同作業が実現することはありませんでしたが、上記の経緯から仲違いを産むことになったであろうことは確実なため、結果的に「実現しなくて良かった」と言えるのではないでしょうか。

(6)手塚治虫による『2001年宇宙の旅』を観た感想

 その手塚は『2001年宇宙の旅』を観た後、このような感想を漏らしています。

 「革命ですよ。あれは。学術的にもそうだし、セットや、とくにメカのデザインは。あれはやらなくてよかったと思った。僕はキューブリックのアイデアではないと思うんですよね。相当しっかりした、いろんな方面からのアドバイザーがいたと思います。それをかなりリアルな、NASAがその頃あったかどうか知らないが、そういうところからの助言があったのではないか」「そこまでやるんだったら僕はやらない方がよかった」

 つまり、「自分がオファーされた時はこんなリアル志向ではなかった」という印象があったからであり、手塚はまさしく「見てきたかのように」現場の変化を言い当てていたのです。



●『2001年宇宙の旅』製作年表(クラークの参加から撮影開始まで)

1964年4月:キューブリックとクラークがニューヨークで対面し、SF映画の構想を話し合う。

1964年12月:スターゲート到着までの全体の筋書きが完成するが、まだ全体の三分の二までで、しかもおおざっぱな下書きに過ぎなかった(以下「初稿」)。

1964年12月末:『鉄腕アトム』を観た(のだろうと手塚は語っている)キューブリックから手塚治虫へ美術監督オファーの手紙が届くが、手塚は多忙でスタッフの反対もあり、この誘いを断る。

1965年1月初め:キューブリックから「残念だ」という返信が届く。

1965年1月末:元NASAのフレデリック・オードウェイと、ハリー・ラングがアドバイザーとデザイナーとしてプロジェクトに参加。

1965年2月末:MGMにより、仮題『星々の彼方への旅(Journey Beyond the Stars)』のとして製作を発表。

1965年春:初稿が次々にボツにされ、クラークは小説(脚本)の書き直しを強いられる。同じ頃、プロダクションデザイナーとしてトニー・マスターズが参加。

1965年4月末:タイトルが『2001年宇宙の旅』に決定。

1965年夏:製作拠点をニューヨークからロンドンへ移動。

1965年10月:未定だったラストシーン(スターチャイルドの登場)が決定する。

1965年12月末:『2001年宇宙の旅』の撮影がロンドンで開始。



 余談ですが手塚治虫のご子息、手塚眞氏は近年「キューブリックは『鉄腕アトム』(手塚治虫)のファンだった」と吹聴するようになりました(詳細はこちら)。ビジュアリストを自称していた頃にはそんなことは一言も言っていなかったにもかかわらずです。氏の態度の変化の理由は定かではありませんが、最近の活動は偉大なる父親の遺産に関わるものが多いと感じます。それが意味するところの明言は避けますが、どちらにしても氏のこの発言は全く根拠がないため「真に受けないこと」を推奨したいと思います。
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手塚治虫とキューブリックは同じ1928年生まれ。また、嗜好も似通った点がある(と感じる)。(画像引用:wikipedia - 手塚治虫wikipedia - Stanley Kubrick

 キューブリックが『2001年宇宙の旅』(この時点では『星々の彼方への旅』というタイトルだった)のプロダクション・デザイナー(美術監督)としての手塚治虫へ依頼の手紙を送ったが、手塚は多忙なためやむなくそれを断ったという話は以前こちらで詳しくその経緯を説明しています。手塚存命時は「いつもの手塚のホラ話」として周囲に一笑に付され、相手にされていなかったという事実は(手塚は「証拠の手紙を見せたいけど誤って燃やしてしまった」と嘆いていた)、この当時を知っている方なら常識だと思いますが、その後手紙の封筒が発見され、事実であることは前述の記事で検証した通りです。ところが手塚もキューブリックも没した現在、この話はいつの間にか「単なる仕事のオファーの話」から「キューブリックは手塚のファンだった」というトンデモ話が信じられているという状況になってしまいました。

 日本人のプライドをくすぐるこの話、テレビで毎日の様に流される「日本はこんなに素晴らしい!」という自画自賛番組と同様、実に浅ましい日本人の「外国コンプレックス」を見るようで、同じ日本人として恥ずかしい限りなのですが、まず厳然たる事実として、世界中のキューブリックファン、研究者の中で「キューブリックは手塚治虫のファンだった」という主張をしている人は一人も存在せず、そんな証拠(キューブリックが「ファンだ」と語った証言や、手塚宛のファンレターなどの手紙)などないという現実を受け入れる必要があります。

 そもそも、キューブリックが手塚のアニメや漫画を自ら進んで観たり読んだりするはずがありません。キューブリックは1999年に没するまで骨の髄まで「映画人間」でした。キューブリックのアニメに対する認識は「子供向け」というもので、それは『シャイニング』『アイズ ワイド シャット』で子供がTVでアニメを観ているシーンを登場させていることからも明らかです。また『フルメタル・ジャケット』での「ミッキーマウス」については、「兵士らはついこの間までディズニーを見ているような年齢だった(ことを示すため)」と語っています。さらに、まだ幼かった娘らとディズニーアニメ映画『バンビ』を観に行った際、残酷シーンについて「年齢による視聴制限をかけるべきだ」とも語っています。

 また別にキューブリック存命時、世界に於ける日本のアニメやマンガの受け入れられ方も知っておく必要があります。ウォシャウスキー兄弟の『マトリクス』は1999年公開で、その着想元に押井守監督の『攻殻機動隊』があることはよく知られた事実ですが、その頃盛んに言われていた「ジャパニメーション」というムーブメントについて押井氏本人が、「そんな動きが本当にあるのか、海外で調べてきた人がいるのか?」と懐疑的な発言をしています。現在「ANIME」として世界中に認知されている日本のアニメが世界で一般化したのは2000年代以降、インターネットによって不法アップロードされたアニメ(日本語が得意な外国人有志が字幕を勝手に付けていた)がYouTubeで観られるようになってからで、『エヴァ』も『ハルヒ』もそうやって世界に伝播していったのです。つまり、キューブリック存命時(1990年代まで)の世界に於ける日本アニメの置かれた状況は、「ほとんど知られてなく、知っている人はごくわずかなマニア層だけ」であり、そのためキューブリックが手塚の漫画やアニメに触れる機会などなかっただろうし、そもそもキューブリック自身の「アニメは子供向け」という考えにより、アニメや漫画を観たいと思う状況にはなかったでしょう。

 では、キューブリックが原案を担当した『A.I.』と手塚治虫の『鉄腕アトム』の類似性についてはどう説明するのか?ということですが、プロデューサーであるキューブリックの義弟、ヤン・ハーラン(『2001年…』にもアシスタントとして参加している)は『鉄腕アトム』について「知らなかった」と明言しているし、そもそも『A.I.』も『鉄腕アトム』も元ネタは『ピノキオ』であるため、多少の類似性があって当たり前でしょう。キューブリックと手塚は感性や嗜好に共通点がある、同い年であることもこの類似性をもたらした可能性もあります。どちらにしても「似た作品がある→ファンだ、影響だ」という短絡的思考回路(思い込み)は「浅はか」というほかありません。

 以上、時系列、当時の状況、当人の嗜好などを整理し、まとめてご説明させていただきましたが、とにかく「キューブリックは手塚治虫のファン」というデタラメを、人の話をすぐ信じる「ピュア」な御仁がSNSで自慢げに拡散することは、キューブリックファンはもちろん、手塚ファンにとっても迷惑極まりない話です。もし「日本人はこんなにすごいんだぞ!」自慢をしたいのなら、「キューブリックは黒澤明の大ファンだった」という「事実」を大いに広めていただけたらと思います(詳細はこちら)。

 なお、『2001:キューブリック、クラーク』を読めば、手塚治虫が『2001年…』に貢献できる部分が全くないということがよくわかると思います(喧嘩別れは必至でしょう)。手塚信者の皆様にはぜひご一読していただくことをおすすめいたします。
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 来年2023年はワーナー・ブラザース創立100周年だそうで、それを記念する動画が公開されました。キューブリック作品では『2001年宇宙の旅』『シャイニング』『時計じかけのオレンジ』がフューチャーされています。まあ『2001年…』はMGM破綻後にワーナーがその権利を手に入れただけなのですが。

 さて、キューブリックは『時計…』以降の作品を全てワーナーの資金提供で製作していますが、それはワーナーが映画の内容と予算とスケジュール管理をキューブリックに一任するという、映画監督としては「破格の条件」を提示していたからで、例えば脚本や撮影中のラッシュフィルムを見せる見せないや、初号試写などもキューブリックの裁量で自由にできました。つまりワーナー側からすれば「キューブリックのやることに一切口出しできない」という、かなり不利な条件を呑んでいたということになります。それは裏を返せば「キューブリック作品は必ず利益を生む」という信頼であり、そしてキューブリックはほとんどの作品でその信頼(利益を出す)に応え続けていました(『バリー・リンドン』はかなり厳しかったようですが)。これは現在においてもスタジオ側がこれだけ映画監督に裁量権を与えることはなく、非常に稀有な例と言えるもので、この点を理解しておかないとキューブリックの映画製作のスタンスを完全に見誤ってしまいます。

 例えば、「テイクを際限なく繰り返すのは監督があらかじめビジョンを確立していないから」「スケジュール管理ができていない監督なんて無能」という批判です。これは、スタジオ側(出資側)に映画製作の権限を握られている場合には当てはまりますが、キューブリックの場合には当てはまりません。なにしろ何をどう撮ってどれだけ時間をかけるかはキューブリックの自由なわけですから、予算とスケジュールに縛られる一般の映画監督とは立場が全く異なるわけです。確かに監督がその作品のビジョンをあらかじめ確立しておき、予算やスケジュール通りに撮るというのは優秀な監督の条件ではありますが、それは予算やスケジュール、もっと言えば出資者側の(映画の内容に立ち入る)横槍にも振り回されるということであり、それはもう作家ではなく単なる専門職ということになってしまいます。つまりその認識だと「優秀な映画監督」とは「優秀な専門職人」であると言っているのと同義です。

 もちろんどんな映画監督でも「作家」でありたいと努力しているとは思いますが、出資者側の権限が強い映画界では「ただの専門職」に成り下がってしまっているのが現状です。そんな映画界の悪しき常識の範疇でしかキューブリックを語れないから「ビジョンを確立していない」「スケジュール管理ができていない」などというトンチンカンな批判をして失笑を買うのです。

 キューブリックはそんな映画界に身を置きながらも「真の映画作家」と言える稀有な監督です。その理由は映画製作に関する裁量権を握っているからで、握っているからこそ徹底的に「こだわる」ことができたのです。当たり前のことですが、こだわりを持っていない作家など存在しません。作家である以上、自己表現に関して強いこだわりがあるのは当然です。つまりキューブリックは映画作家としてこだわりが発揮できる環境を手に入れたからこそ、テイクを際限なく繰り返すことも、スケジュールを遅延させることもできたのです。キューブリックの凄さとは「映画作家としての自由を巨大資本のハリウッドで手に入れた」という点にあるのです。

 だからキューブリックは「ハリウッド資本でインディーズ映画を撮った監督」とか「世界一贅沢な自主映画監督」とか呼ばれるのです。そして世界中のあまたの映画人がキューブリックの「予算も時間も使い放題で、内容も干渉されない自由な映画製作環境」に羨望の眼差しを向けるのです。その環境を自身の才能と努力によって勝ち取ったキューブリックに憧れるのです。逆に言えばそれだけ(一般の)映画監督という職業は「作家と名乗るには制限や制約があまりにも多い職業」と言えるでしょう。

 キューブリックはナボコフやオールディズから「キューブリックはアーティストだった」と評されています。ここでいう「アーティスト」とは「作家」というニュアンスだと思いますが、作家である小説家から「作家だ」と評されるほどキューブリックは映画界で自己表現の自由を獲得していたということであり、すなわちそれは一般の映画監督がいかに作家性を摩滅させているかの反証でもあります。「スケジュールや予算を守るのが良い監督」という価値観で語る人は、映画監督の作家性を損なわせる現状を「是」として考えている人であり、そんな人に「作家」であるキューブリックを正当に評することなどできないことは言うまでもありません。

 上記の動画には「物語の力。—100年」というキャッチコピーが踊っていますが、その「物語の力」を思う存分、自由に自作に反映できた監督はどれだけいるのでしょう? しょせん映画産業は巨大な利益構造で成り立っています。ですがそんな圧力を跳ね返し、文字通り「物語の力」を発揮し続けた(全作品でそれを貫き通した)キューブリックこそ、ワーナーの100年間を代表する(映画監督ではなく)「真の映画作家」だったと、管理人は考えています。
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 まあ同じワーナーですからね・・・としか言いようがないのですが(汗。もうここまでくるとなんでもあり感が漂ってきますが、おそらくそんな作品になるんでしょう。マーゴット・ロビーとライアン・ゴスリングのキャスティングは評判良いみたいなのですが、こういった「子供向けアイテム(おもちゃやゲームなど)の映画化」で成功した例をほとんど聞かないので、さてどうなることやら。管理人はコケる方に一票入れときます。
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