2022年07月

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 アイルランド在住の漫画家/アニメーターのJabaToons氏による「ウォルト・ディ●ニーが『時計じかけのオレンジ』をアニメ化したらこうなる!?」というパロディ動画です。

 日本人の目から見て、絵柄を見て「ディズニーっぽい」と思うかどうかなんですが・・・どうなんでしょうね。1970年代はこんな感じだったのかもしれませんが、あまりピンとこないような。日本人にとって「ディ●ニー=ミッ●ーマウス」ですから、やっぱり違和感があります。もし日本人がこのアイデアを実行するなら『時計…』を萌え化するんでしょうね。競走馬まで萌えにしてしまうんですから、ドルーグなんてお手の物です。どなたか・・・挑戦してみます?
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 今年2月に急逝したダグラス・トランブルが登場する、SF映画『フォース・プラネット』のメイキング・ドキュメンタリーです。CG氾濫の昨今、このように「あえてミニチュアモデルで映画を作りたい」と考える若い映画製作者の出現は非常に心強いものがあります。トランブルもその心意気を買ったのでしょう。

 水槽に液体を垂らして未知の宇宙空間を表現したり、ディテールにこだわったモデル制作など『2001年宇宙の旅』で用いられた方法がここでも使用されています。トランブルが「予想外の現象が起きてもそれを受け入れる。プログラマーが設計するCGなどアルゴリズムでは不可能だ。想定内の出来事しか起きない。自分の予想を超えたときすばらしい映像が撮れる」と語っているところは非常に印象的です。キューブリックはそれを「マジック(魔法)」と呼びましたが、『2001年…』でもスターゲートの水槽のシーンはロンドンで再び試みられたものの、マンハッタンで作った映像には及びませんでした。これは「マジック」が足らなかったのでしょう。

 『フォース・プラネット』は現在アマゾンプライム無料で視聴できるそうなので、この若いスタッフの挑戦の結果を知りたい方はご覧になってみてはいかがでしょうか。視聴はこちらからどうぞ。
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wiki_SK
キューブリックのウィキペディアのページ。「複数の問題あり」と指摘されている。

 ウィキペディアは大変便利なWeb百科事典ですが、執筆者の知識や力量に大きく左右されるので、書かれていることが全て正しいとは限りません。それは「スタンリー・キューブリック」の項目でも同様で、間違いは散見されます。これでも以前よりはだいぶ改善され、ソースに基づく記述を指摘されるようになってからは、執筆者の主観や独自解釈はできるだけ排除されるようになりました。それまでは噂話や伝説レベルのエピソードまで、さも事実であるかのように記述されていましたので、「ウィキは信用するな」がネットユーザーの合言葉だったのですが、ソース主義になってからはあまりそういった批判は聞かれません。ですが、そのことが逆に現在のネット民の「ウィキ鵜呑み」を誘発している気がしないでもありません。繰り返しますが現在でもなおウィキペディアには細かい間違いや、間違いではないが誤解を招く表現は多々あります。その一例を以下に示したいと思います。

1941年から1945年にかけてウィリアム・ハワード・タフト高校に在籍した。

 正しくは1942年9月から1946年1月です。これは英語版でも間違っています。

ニューヨーク市立大学シティカレッジの夜間部に入学するが、すぐに中退している。一時はジャズ・ドラマーを目指していたが、当時の大統領フランクリン・ルーズベルトの死を伝える一枚の写真が写真雑誌『ルック』誌1945年6月25日号に売れ、見習いカメラマンとして在籍するようになった。

 さも高校卒業後のように書かれていますが、ルック誌にルーズベルトの死を伝える写真が売れたのは高校在学時です。成績が悪く、第二次世界大戦終戦で若者が戦地から大量に帰国したこともあり、大学進学ができなかった(シティカレッジの夜間部はただ籍を置いただけ)キューブリックは、高校時代のカメラマンとしての実績が評価され、ルック社に「拾われた」形です。

短編ドキュメンタリー『拳闘試合の日』(1951年)を製作し、映画の道を歩み始めた。この映画は3900ドルかかったが4000ドルで売れ、この成功をきっかけに『ルック』誌を退社した。

 「成功」とは言えないでしょう。もっと儲けるつもりがほとんど利益が出なかったのですから。

実験的な犯罪映画『現金に体を張れ』(1956年)、

 「実験的」は言い過ぎですね。「斬新な」くらいが妥当でしょう。時系列巻き戻しは原作準拠です。

1961年にイギリスへ移住して残りの人生とキャリアの殆どを同地で送った。

 「移住」をどう定義するかはありますが、「定住」したのは1965年にアボッツ・ミードに居を構えてからです。1961年の時点では家族の住居はニューヨークにあり、ロンドンとニューヨークを行き来していました。

ハートフォードシャーのChildwickbury Manorにある、妻のクリスティアーヌとの共有の自宅が仕事場となり、そこで脚本の執筆や取材、編集、そして映画製作の細部にわたる管理を行った。

 アボッツ・ミード居住の記述がごっそり抜け落ちています。アボッツ・ミードが1965〜1979年、それ以降がチルドウィックベリーです。

『博士の異常な愛情』以後は、他人の脚本で映画作りをすることはなかった。

 クレジット上はそうですが、キューブリックは全作品で脚本には何らかの形で参加しています。つまり「他人の脚本で監督だけ担当した作品は存在しない」ということです(『海の旅人たち』は除く)。それは監督作品のリストも間違っていることを意味していますが、これは「正式にクレジットされたものだけをリスト化」と理解しておくべきでしょう。

写真家として知られるダイアン・アーバスは『ルック』社時代の先輩であり、アーバス自身はキューブリックの事を非常に気に入っていたという。彼女の死後、キューブリックは『シャイニング』で彼女の代表的な写真『Identical Twins, Roselle, New Jersey, 1967』のオマージュを捧げた(印象的な双子の少女のシーン)。

 誤解を生む書き方ですが、アーバスはルック社の先輩ではなくフリーカメラマンで、プロカメラマンとして先輩であるというだけです。『シャイニング』の双子の少女の件もそう言われているだけで、キューブリック本人が「オマージュだ」と発言したことは一度もありません。それにキューブリックは当時のアーバス夫妻(ファッションカメラマンだった)に興味を示しませんでした。双子のキャスティングはレオン・ヴィタリが行なっていた(キューブリックは撮影中だった)ことなど、この定説と矛盾する事実もあるので、個人的には「たまたま似通ってしまった説」を提唱したいと思います。

ただし、キューブリック自身は終生イギリスから一歩も出ておらず、大西洋を横断して授賞式に出席したことなど一度も無かった

 イギリス移住後の『バリー…』でのアイルランドロケ、東欧への旅行、フランスにある別荘への旅行などしているので、「イギリスから一歩も出ておらず」という表記は完全に間違いです。

(引用:wikipedia - スタンリー・キューブリック



 以上のことからわかるのは、この執筆者は評伝『映画監督スタンリー・キューブリック』さえまともに読んでいない、ということです。もちろんこの書籍以外に、ウィキペディアで記事を書くなら読むべき本、揃えるべき資料は山ほどあります。ただ、執筆者側からすれば「基本ボランティアである自分が、そこまで時間とお金をかけていられない」と考えるであろうことは十分に理解できます。ですので、ウィキペディアは「ボランティアが無償で片手間に記事を書いているもの」と理解すべきであって、間違っても「その筋の専門家が時間をかけて資料をかき集めて記事を書いているもの」と考えるべきではありません(中には専門家顔負けの記事もあるかもしれませんが)。ですので「その程度」とあらかじめ理解して上でウィキペディアを利用すべきだと思います。

 さて、キューブリックに関してはこのように間違いの例を指摘できましたが、他の分野でも同様であることは容易に想像できます。ですがわざわざそれを指摘する人は少ないことから、ウィキを鵜呑みにし、間違いが間違いのまま拡散されてしまうという事態に、デジタル時代の恐ろしさを感じてしまいます。ネットにより素人が情報発信を担う時代になりましたが、そのことがデマや誤解を拡散している元凶でもあり、YouTubeなど再生数でマネタイズができるようになって以降、刺激的で無責任なデマを恣意的に拡散する輩も跋扈しております。そういう悪意がないにしても、特に下手に拡散力のある方はそのことを肝に銘じておくべきだと、自戒を込めつつここで申し上げたいと思います。

 余談ですが、チョロギ様より「間違ったキューブリックのイメージによく嘆いていますが
wikiを編集したらどうでしょうか?」というご指摘がありました。これにつきましては、一個人が情報を独占するのはよくない(当ブログ以外で日本語でキューブリックを解説しているサイトは多くなく、あっても情報量は少ない)ということと、管理人自身が他人(例えばウィキの管理者)に小突き回されるのを好まない、という理由から辞退されていただいております。大好きなアーティストの情報を、大好きだからこそ深掘りし、そこで知り得た新しい情報や知られていない情報をまとめ、まとめついでにファンの皆様と楽しくシェアする、というのを自分のペースで行ってきたからこそ、このブログが長続きしているのだと思っております。要するに「好きでやってんだから好きにさせて!(もちろんソースは確実に)」ということです(笑。何卒ご理解のほどをよろしくお願いいたします。
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Sunforest / Sounds Of Sunforest Full Album (1970)

00:00 Overture to the Sun
01:40 Where are you?
04:24 Bonny River
07:09 Be like me
09:20 Mr. Mumble
11:09 And i was blue
14:00 Lighthouse Keeper
16:04 Old Cluck
18:49 Lady Next Door
21:14 Peppertmint Store
23:16 Magician in the mountain
27:28 Lovely Day
30:16 Give me all your loving
32:55 Garden Rug
35:10 All in good time

(動画概要欄より)

 サンフォレストは、アメリカ・イギリスのサイケデリック・フォーク・ミュージック・トリオ。1968年にテリー・タッカー、エリカ・エイゲン、フレイア・ホーグの3人で結成された。彼らはデッカ・レコードから『サウンド・オブ・サンフォレスト』という1枚のアルバムだけを録音した。『時計じかけのオレンジ』のサウンドトラックに収録された『太陽への序曲(Overture to the Sun)』と『ぼくは灯台守と結婚したい(Lighthouse Keeper)』で知られている。

・歴史

 サンフォレストは1960年代後半にワシントンDCで始まった。テリー・タッカーとフレイア・ホーグは知り合いだった。ホーグはタッカーの詩を音楽化した。パーティーでエリカ・エイゲンと出会った後、彼らは一緒に曲を書いた。

 ステージで演奏するのに十分な曲を作ったと思ったので、フレイアの発案で3人のミュージシャンはヨーロッパに旅行することにした。1969年、彼らはロンドンに移り住み、音楽シーンに参加するようになった。まもなく、デッカ・レコードの代表であったヴィック・コッパースミス=ヘヴン(ヴィック・スミス)と出会う。その夜、彼らはデモを録音し、2週間後スミスは彼らのマネージャーとなった。

 スタンリー・キューブリックは『時計じかけのオレンジ』のサウンドトラックに2曲を入れたいと考えていた。彼は『太陽への序曲』を再録音するように要求した。テリーはアレンジを変更し、それが『ぼくは灯台守と結婚したい』とともに映画で使用されたバージョンである。

 1970年からは、マーキー・クラブ、ワン・ワールド・クラブ、セント・マーティン・イン・ザ・フィールズの地下聖堂、ラウンドハウス、トルバドール、そしてイタリアなどで主にステージでの演奏を行った。 これは約3年間続いたが、エイゲン脱退によりグループは解散した。

・メンバー

 メンバーはテリー・アン・タッカー(ボーカル、ピアノ、ポンプオルガン、ハープシコード、ハモンドオルガン)は、リベラルアーツ大学のウェストヴァージニア・ウェスリアン校を卒業した。ここでアーリーミュージックとルネサンス音楽への愛情を知ったという。

 フレイア・リン・ホーグ(ボーカル、クラシック・ギター、バンジョー)はソフォクレス・パパスにクラシック・ギターを学んだ。 2016年12月、ワシントン州シアトルで77歳で亡くなった。

 エリカ・メリタ・エイゲン(ボーカル、パーカッション)は、特に音楽的な教育は受けていない。『サウンド・オブ・サンフォレスト』のスリーブのイラストは彼女が描いたものである。

・ディスコグラフィー

サウンド・オブ・サンフォレスト (1970)

(引用元:wikipedia-Sunforest_(band)




 『時計じかけのオレンジ』のサントラに『太陽の序曲』『ぼくは灯台守と結婚したい』の2曲採用されたサンフォレストの唯一のフルアルバム『Sounds Of Sunforest』がYouTubeにアップされていたのでご紹介。

 このサンフォレストというバンド、『時計…』のサントラに2曲も採用された割にはロック史的には全く知られていません。一部のコレクターやマニアならかろうじて知っている、という程度だと思います。その理由はこのフルアルバムを聴けばわかります。要するに当時のサイケデリック・ロック/アシッド・フォークの二番煎じの詰め合わせでしかないということです。どれも「ああ、あの曲ぽいな」と感じる曲ばかりです。当時、この手のバンドはまさに「雨後の筍」のごとく乱立しましたが、その多くがサイケデリック・ムーブメントの終焉とともに姿を消しました。決してポップ・ミュージックに詳しい方ではないキューブリックがどこでこのバンドを知ったのかは不明ですが、若いスタッフの誰かが推薦したのかも知れません。

 キューブリックは『太陽の序曲』『ぼくは灯台守と結婚したい』の2曲を気に入り、再録音して映画で使用しましたが、どちらもスタンダードナンバー?と思えるほどサイケ色の薄い楽曲です。逆にそれがキューブリックのお眼鏡に叶った可能性もありますが、それはもう推察するしかありません。どちらにしても当ブログで再三繰り返し指摘している通り、『時計じかけのオレンジ』はサイケデリック・ムーブメントの影響下で製作された作品です。その「影響」の部分を短絡的に「アート」と表現し、キューブリック独自のものと解釈するのは無理解を通り越して勉強不足と言うべきものです。そのことは『薔薇の葬列』が『時計じかけのオレンジ』に影響を与えた論(詳しくはこちら)に顕著です。いくらキューブリックといえども、その作品製作時の流行(トレンド)とは無縁ではありませんでした。『アイズ ワイド シャット』で脚本を担当したフレデリック・ラファエルは「『時計…』は当時の流行に縛られてしまった」と批判しているほどです。これが当時を知る者(後追い知識でも)の一般的な認識です。

 では、『時計…』に影響を与えた「サイケデリック・ムーブメントとはなんぞや?」という話ですが、それは各々で調べてください。ただひとつ言えることは「世の中のありとあらゆる、全てのものが狂っていた時代」だったということです。サイケデリックな映像表現は何も『時計…』だけに限りません。同時代の「ヒップ」な映画には同じような表現の例はいくつも見つけることができます。それを知らずして(指摘せずして)影響云々しても意味ないし、このサイケデリックバンド、サンフォレストの起用もその影響下にあると言えるでしょう。
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物語を盛り上げ、感情を揺さぶる美しいメロディーの数々。スクリーンを通してこそ気づく、名曲の知られざる魅力がある。映画ファン1000人が、クラシック音楽が印象的な作品を選んだ。

〈中略〉

8位 2001年宇宙の旅 <交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」(R・シュトラウス)>

271ポイント トランペットの響きが特徴的

 謎の黒い石板との接触を通し、ヒトザルが人類へと進化し宇宙を開拓する様子を描いたSF映画。同曲は冒頭シーンをはじめ計3回使われる。厳かなトランペットの響きが特徴的で、「壮大な登場感を表現するのにぴったり」と西村さん。

〈中略〉

クラシック人気 映画が一役

〈中略〉

戦後の映画史とクラシック音楽の関わりの上で欠かせない存在となるのがスタンリー・キューブリック監督だ。今回ランクインした作品のほかにも、ベートーヴェンの交響曲第9番が登場する「時計じかけのオレンジ」(71年)など同監督の作品には多くのクラシック音楽が使われており、「曲の背景を考え抜いた上で意識的に映像が作られている」と小室さんは話す。「ツァラトゥストラはかく語りき」のように、映画を通じて有名になった曲も少なくなく、西村さんは「映画がクラシック音楽人気を作っていった」と指摘する。

〈以下略〉

(全文はリンク先へ:日経新聞/2022年7月23日
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 キューブリックが本格的にクラシック曲を自作に使用するようになったのは、記事にある通り『2001年宇宙の旅』からです。キューブリックはその理由を「いい曲がいっぱいあるのだからいろいろ試さないと」「編集時に試行錯誤できる」という理由を挙げていますが、何よりも「映画は映像と音楽、セリフ(言葉)はその次」というキューブリックの考え方によるものです。無声映画にハマっていた若い頃、セルゲイ・エイゼンシュテインの『アレクサンドル・ネフスキー』で使用された『氷上の戦い(The Battle of the Ice)』を狂ったように聴き続けた(・・・あげくの果てに怒った妹のバーバラにレコードを叩き割られた。笑)経験から(詳細はこちら)、音楽がそのシーンを表現する力は言葉以上だと実感したのでしょう。

 クラシックファンやミュージシャンにキューブリックファンが多いという事実は、こいった経緯と無関係ではないでしょう。また、音楽に合わせて映像編集するという手法は、後のミュージックビデオ界に与えた影響も大きいと考えられます。MV出身の映画監督が影響を受けたとして、ことごとくキューブリックの名を挙げるのはもはや常識です。

 「映画にクラシックが使われることの全てがキューブリックの影響である」というのは言い過ぎですが、少なくともキューブリックはクラシックの選び方、使い方に長けていて、その影響を受けたクリエーターが世界中にあまた存在する、というのは疑いようがない事実です。ただしキューブリックはオリジナルの劇伴音楽を軽視していたわけではなく、『時計じかけのオレンジ』『シャイニング』のウェンディ・カルロス、『フルメタル・ジャケット』のアビゲイル・ミード(ヴィヴィアン・キューブリック)、『アイズ ワイド シャット』のジョスリン・プークが果たした功績も、同時に忘れてはならないと思っています。

情報提供:オリオン様
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