画像引用:IMDb - Full Metal Jacket
フルメタル・ジャケット・ダイアリー マシュー・モディーンとのQ&A
〈前略〉
スコット・テネント:『フルメタル・ジャケット』の役をどのようにして得たのですか?
マシュー・モディーン:面白い話なんだ。サンセット大通りのソースという店でパンケーキを食べていたんだけど、デビッドの肩越しに私を疑うような目で見ている男がいたんだ。デヴィッドは「ああ、あれはヴァル・キルマーだ、彼は本当にいい奴だ」と言い、僕を紹介してくれた。ヴァルは「ああ、君のことは知っているよ。あんたにはうんざりだよ」と言った。私は『バーディ』、『ミセス・ソフェル』、『ビジョン・クエスト』と立て続けに出演していたんだ。ヴァルは「あんたはキューブリックの映画をやるんだよ」と言ったんだ。朝食を終えて、私はマネージャーに電話したけど、彼は何も知らなかった。キューブリック監督がワーナー・ブラザースで映画を撮っていることは知っていた。ハロルド・ベッカー監督に『ビジョン・クエスト』のプリントを依頼し、アラン・パーカーには『バーディー』のデイリー(粗編集)版を依頼していた(注:キューブリックはモディーンのオフショットにも注目していた)。 つまり、もしかしたらスタンリーは私のことを何も知らなかったのかもしれないし、ヴァル・キルマーは、私が『フルメタル・ジャケット』の役を得たことに何か関係しているかもしれないね。(注:ヴァルは『フルメタル…』に出演したくてオーディションのビデオをキューブリックに送っていた。詳細はこちら)
ST:キューブリックとの最初の出会いはどのようなものだったのでしょうか?
MM:(妻と私がロンドンに落ち着くと)スタンリーは運転手を派遣してきて、私たちを田舎の彼の家に連れて行ってくれたんだ。私たちは素晴らしい楼門に車を走らせ、美しい古い田舎の土地に到着するまで長い私道がどこまでも続いていた。犬たちが飛び出してきて、家から出てきたのは髭を生やし、よれよれの服を着て、髪をなでつけた人なつっこい男だった。彼は想像していた通りの親切で優しい人だった。それは、私が聞かされていた彼の性格のすべてとはまったく違っていた。良き友人であり、良き父親であり、良き指導者であったというのが、私とスタンリーとの関係だ。
ST:撮影現場では、警告されていたスタンリー・キューブリックの姿にはならなかったのですか?
MM:彼はかなり非情な部分を持っていることがわかった。でも、それは根拠のない非情さではなかったと思うんだ。彼は、愚か者やバカを相手にすることができなかったんだ。それは、彼が共感的でなかったということではなく、とてつもない共感力を持っていたということだ。
ST:彼の映画は、極端な感受性を持っていると読み取れますね。
MM:まったくその通りだよ。彼はよく冷たいとか、非人間的だとか、彼の映画には硬質な面があるとか非難される。私は全くそうではないと思う。スタンリー・キューブリックが、おそらくどの映画監督よりもうまくやったことは、人間を正直に見つめるということだ。一般にハリウッド映画では人間の善良さ、つまりヒーローによって問題を解決するという理想的な姿が描かれる。しかし実際のところ、私たちがお互いを正直に見つめ、こうありたいと願う姿ではなく、私たちが何者で、何ができるのか、成功を収めるためにお互いに何をしてきたのか、そうしたことを意識しない限り、過ちを繰り返す運命にあるんだ。
ST:撮影現場でのキューブリックは、個人対個人ではなく、監督対俳優として、どのようにあなたと関わっていたのでしょうか?
MM: それは、意識的な選択やポーズから解放されるための反復のアイデアだったと思う。私たちは皆、映画を見て育ってきているので、映画で見た人物をベースにキャラクターを作ることがある。スタンリーが興味を持ったのは、私という人間だ。 私はユタ州で育ち、父はドライブインシアターの支配人だった。ブロンクスで育ったスタンリーにとって、それはまったく異質な世界だったんだ。それが彼には魅力的だった。その繰り返しで、彼はタマネギの皮をはがし、マシュー・モディーンという人間の核心に迫っていくんだ。マシュー・モディーンが想像するプライベート・ジョーカーではないし、ジョン・ウェインやジェームズ・スチュワート、ヘンリー・フォンダを再現したものでもないんだ。
ST:その時、あなたはその繰り返しにどのように対処したのですか?
MM:スタンリー・キューブリックの作品だから違和感なくできた。彼の映画の実績は十分に知っていたので、彼がもう一度と言うのなら、何か理由があるに違いないと思っていたよ。その理由を理解しようとし、どうすれば違うことができるのか、時には気が狂いそうになることもあった。でも、私にとって理解することは重要ではなかった。やってみて、うまくいくことが大事なんだ。
ST:『フルメタル・ジャケット』の撮影は2年間ロンドンに滞在していたそうですね。その間に息子さんが生まれたということですが、この映画の撮影は、あなたにとって一生の思い出になったのではないでしょうか。
MM:妻が緊急帝王切開をすることがわかったんだ。赤ちゃんが子宮の中でうまく育たなかった。7ヶ月目という非常に早い時期だった。仕事をしている場合じゃないと思った。ドリアン・ヘアウッド(エイトボール役)の撮影があった。私はそのシーンには関与していない。だから急いで出勤したんだけど、スタンリーは時間通りに来なかったんだ。7時、8時、9時。私はパニックになった。ようやく彼が出勤してきたので、事情を話した。すると彼は「どうするんだ?手術室で立っているつもりか?血だらけで気絶しちゃうよ。医者の邪魔になるだけだよ」と。
私は「いや、行かなくちゃ」と言いました。「私は妻と一緒にいなければならないんだ」と。すると彼は、あなたがそこにいる必要がない、実に現実的な理由を語り始めたんだ。私はポケットナイフを持っていたので、それを手のひらに乗せて、「見てくれ、自分で手を切ってでも病院に行かなければならないんだ。妻の元へ行くために私を病院へ行かせてくれ」と言ったんだ。すると彼は私から離れて「わかった、でも終わったらすぐに戻ってきてくれ」と言ったんだ。
スタンリーが怒ったのは、私が「仕事にならない」と言ったからだと思う。私はディレクションの役割も担っていたんだ。「何をするか、何が必要か、俺に教えるな」とね。そして、戻ってきて葉巻を配ったんだ(注:子供が生まれた際に行うアメリカの風習)。さらに3日間撮影しなかったよ。
それから息子の名前のことで激しく文句を言われたよ。息子の名前はボーマンというんだ。ボーマンが『2001年…』の主人公の名前であることは思いもよらなかった。息子が生まれる5年前から、私たちは彼にボーマン・モディーンという名前をつけることに決めていたんだ。家に帰って『2001年…』を観て初めて、私が息子にキア・デュリアの名前をつけたと彼が思っていることに気づいたんだ。
ST:『フルメタル・ジャケット・ダイアリー』のアプリは、この映画の制作過程を知る上で、本当に素晴らしいものです。すべての映画で同じような日記を付けていたのですか?
MM:いや、ジャーナリストを演じていたからだ。小道具として、この小さなアジア製のメモ帳を見つけたんだ。ジャーナリストを演じているのだから、これに書くのがいいだろうと思ったんだ。二眼レフカメラで、それは本当に美しい芸術品だ。スタンリー・キューブリックが撮影現場で写真を撮ることを許可してくれるという状況に、私は身を置いたんだ。 ジャーナリストとして日記を書きながら、何の前触れもなく、突然こんな素晴らしいドキュメントを手にすることになったんだ。スタンリーは私に日記をつけることを勧め、撮影現場で時々日記を読むように言ってきたよ。これは偶然だけど、とても良いことだった。私はより観察力を高め、何が起こっているのかをきちんと記録することを余儀なくされたのだから。
2013年の今、私がこの日記を気に入っているのは、スタンリー・キューブリックと映画を作った時のタイムカプセルでありながら、理解できない状況に置かれた若者の視点から語られている点なんだ。後知恵で書かれたものではなく、その瞬間に書かれたもので、弱さと純真さに満ちているんだ。
ST:何が理解できなかったのですか?
MM:スタンリー・キューブリックの映画への出演を依頼される。撮影を開始することになる。1ヵ月が過ぎ、2ヵ月が過ぎ、遅れが出てきた。その遅れが何なのか、あなたは知らない。そして、撮影が始まり、シーンを撮っても上手くいかない。そうすると自分のエゴで、このシーンが上手くいかないのは自分のせいだと思い始めるんだ。スタンリーが自分の映画を見つけようとしていること、自分がフィルムに収めようとしている瞬間の真実を発見しようとしていることを考慮しないんだ。ベトナムにいるはずなのに、光はまるでロンドンのようで、灰色で曇っている。セットはまだ準備できておらず、このシーンが何なのかよくわからない。彼は自分の映画を探すために、3つも4つも違う場所を奔走しているんだ。日記の中で発見するのは、「存在」という概念だ。人生における大きな葛藤、特にアーティストとしての葛藤は「存在すること」なんだ。それを早く発見する人もいれば、そうでない人もいる。私はマーロン・ブランドがそれを早く発見したと思う。ピカソもそう。モーツァルトもそうだ。彼らは誰かを喜ばせようとするのではなく、自分の天才的な才能を発見しているんだ。スタンリーは非常に早い段階で自分自身を発見した人だったよ。
他の作品での経験から、撮影スケジュールがどのようなもので、コールシート(呼出票)を受け取り、次の日の仕事をこなすために、毎日どれだけの仕事をこなさなければならないかを知っている。しかし撮影が始まって数カ月、コールシートは何の役にも立たなかった。私たちは何も前進しておらず、私の自我は、これは私のせいだと言ってきた。私は間違いを犯している、彼に必要なものを与えていないのだ、と。私は野原に立っていたんだけど、スタンリーがジープに乗ってやってくるのが見え、また戻って私のほうに近づいてきたんだ。私は背の高い草の中に隠れようとしたんだけど、彼がやってきて、私が困惑しているのを見つけたんだ。どうしたのかと聞かれたので「この役をどう演じたらいいのかわからないんだ」と答えた。「あなたが何を望んでいるのかわからないんです 」と。
彼はジープを止め、髭を触り、咳払いをして、「いいか、私は君に何も〈演じる〉ことを求めてはいないんだ、ただ、〈自分らしく〉して欲しいんだ」と。彼は車を走らせ、私は日記にこう書いたんだ「あの言葉の重要な部分は〈自分らしく〉であることを知った」とね。それを書いたのは若い人間だ。先ほども言ったように、「剥がす」「繰り返す」ことで、その人のDNAが見えてくるんだ。虚飾や誇示・・・それは旅であり、簡単に辿り着けるものではないんだよ。
ST:日記を共有できるものにしようと思われたのはいつ頃ですか?
MM:もともと写真が好きで、写真集を出したいと思っていたんだ。ただそれがやりたかっただけなんだ。最終的にラギッドランドという小さな出版社を見つけて、何か特別なものを作ろうと思ったんだ。スタンリーが手にして、「これはすごい」と言ってくれるようなものでなければならなかった。 だからヒンジのついた金属製の本で、2万部限定だったんだよ。出版社からは「写真だけではダメだ、ストーリーが必要だ」と言われた。日記を書き起こしてみると、これはスタンリー・キューブリックの世界に入り込む素晴らしい旅であることに気づいたんだ。そして、それは無心の視点であり、無防備な旅でもあったんだ。
〈以下略〉
(全文はリンク先へ:LACMA UN FRAMED/2013年3月4日)
テイクを繰り返すことによって、キューブリックが俳優との共同作業でシーンを作っていったという証言です。前回は『2001年…』のキア・デュリアでしたが(詳細はこちら)、今回は『フルメタル…』のマシュー・モディーンです。記事中の『フルメタル・ジャケット・ダイアリー』のアプリはこちらからダウンロードできます。有償ですが、ファンなら持っておいて損はないです。
面白い話として、キューブリックと関わった俳優やスタッフは、誰もが同じような経験をするそうで、一部ではそれを「キューブリック神話に参加する」と言われていたそうです。すなわちキューブリック邸に食事に招かれ、身なりに構わないキューブリックに驚き、いままでの作品を褒めちぎられ、いざ制作に参加するとアイデア出しやアドリブを促され、それを提示すると答えや結論を安易に示さずダメ出しを繰り返えされ、悩むと優しく励まされるが、結局何が良いのかわからず献身的に尽くすしかない・・・といった具合です。
キューブリックが「何が欲しいのかわからないが、何が欲しくないのかはわかる」と語り、大体の方向性だけしか示さず、細かくああしろ、こうしろと指示しなかった理由は、指示をしてしまうと俳優はその演技で満足してしまい、さらなるアイデアの追求をしなくなってしまうからということは、以前こちらで記事にしました。さらに言うと、撮影に関わるのは何も監督と俳優だけではありません。カメラマンや照明や音声など、撮影スタッフも当然関係してきます。『シャイニング』でステディカムオペレーターを担当したギャレット・ブラウンは、そのシーンの撮影の最適解を得るためにはそれなりのテイク数が必要だったと語っています。もちろんそれは新しいアイデアが浮かび、それを試すとなるとまた一からの作業になります。そうやってテイクが際限なく繰り返されれば、撮影期間も長期間に及びます。キューブリックのテイクの多さは、技術的な習熟度を上げたいからという理由もあったことを知っておかなければならないでしょう。
マシュー・モディーンにとって、キューブリックの答えもわからずテイクを重ねるやり方は、ストレスも溜まりますし、俳優やスタッフの負担も大きいので、とても辛い体験だったのはよく理解できます。文句や愚痴の一つでも言いたくなるでしょう。でも結局時間が経てばこのように理解できるようになってくるのは、自身の成長と、単なる出演俳優から製作へと立場を移すからでしょう。キューブリックのようにスケジュールを気にせず、リハーサルに時間をかけ、テイクを何度も重ね、自由に演じながら最適解を求める撮影がいかに贅沢で、いかに特権的であったかは、製作の立場になってやっと理解できるという面もあるのではないでしょうか。
ハリウッド・メジャーであるワーナーから製作費の全面支援と、製作の自由(作りたい作品のチョイスから製作期間、宣伝方法まで)を勝ち取ったキューブリック。それがいかに特別なことであったかは、同じ立場にいる方なら「そんなことはありえない、信じられない」と言うでしょう。もちろんそれはキューブリックにそれだけの才能、実力、実績が伴っていたからです。キューブリックは24歳の頃、劇映画処女作『恐怖と欲望』の出資者である叔父に「お前はいつかは成功するだろうから、それに一枚噛みたいんだ」と言わせるほどの才能の持ち主でした。そして自身はそれを当然視することはなく、「さらに、さらに良い作品を・・・」と常に上を目指し続けたのです。そんなキューブリックに対し、凡庸な才能さえ持ち合わせていない私たちが何を言えるのでしょう? キューブリックの遺した作品についての好悪はそれぞれあって構いませんが、スタンリー・キューブリックという映画監督・映画製作者がいかに特別な存在であったかを、もっと多くの人が知るべきだと私は思っています。