2009年01月

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SK1
Stanley Kubrick(IMDb)
スタンリー・キューブリック(MOVE-FAN)

 1928年7月26日、ニューヨーク・ブロンクス出身。ルック社のカメラマンとしてキャリア積み、いくつかのドキュメンタリ−作品を制作した後、1953年 自主制作映画『恐怖と欲望』で監督デビューを果たす。代表作は『2001年宇宙の旅』(1968)、『時計じかけのオレンジ』(1971)、『シャイニング』(1980)、『フルメタル・ジャケット』(1987)など。1999年7月公開へ向けて『アイズ ワイド シャット 』を制作、試写の段階までこぎつけたが、 1999年3月7日、 ロンドン郊外の自宅で心臓発作で急逝した。享年70歳。
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1928年(0歳)

7月26日、ニューヨークのブロンクスで開業医の息子として生まれたキューブリックは、13歳の誕生日に父からカメラを贈られる。若いキューブリックを惹き付けたのは、チェス、ジャズドラム、そしてカメラだったが、特にカメラには夢中になり、学校の成績などおかまいなしに写真部の活動に熱中したようだ。

 1945年(16〜17歳)、16歳の時、ルーズベルトの死を知らせる新聞を、悲痛な表情で読んでいる新聞スタンドの売り子の写真が、写真報道誌「ルック」誌に買い上げられる。また、その後も何点か同様に買い上げられる。この事により、授業そっちのけで、より一層写真に夢中になったキューブリックだが、ハイスクールはかろうじて卒業できたものの、成績不振のために志望の大学には進めなかった。だが幸運にも、前出の「ルック」に見習いカメラマンとして入社できることになり、以来4年半もの間、アメリカ国内やポルトガルなどを飛び回り、ジャーナリストとして様々な経験を積む。そのことは、その後の彼の映画のスタイルを決定づけたと言われている。

 1947年(18〜19歳)、本格的に映画監督を志すようになったキューブリックは、まず手始めにニューヨーク近代美術館で過去の名作を、街の映画館では最新の映画を片っ端から観てまわった。映画に関する書籍も読みあさっり、特にプトキンの『フイルム・テクニック』と、ニコライ・M・ゴルチャコフの『スタニフラフスキーが演出する』には大きな影響を受けたようだ。また、この頃単発飛行機の免許を取得する。

 1948年(19〜20歳)、 ハイスクール時代の同級生であったトーバ・メッツと結婚、グリニッジ・ビレッジに新居を構える。また、「プロボクサー」と題された一連の取材と撮影を担当する。これは当時24歳のボクサー、ウォルター・カルティエの試合当日を追ったフォト・ドキュメントで、この取材は翌年ドキュメンタリー映画『拳闘試合の日』として結実する。

 1950年(21〜22歳)、ルック社を退社し、自己資金で初めての短編ドキュメンタリー映画『拳闘試合の日』を製作、RKO=パテに4000ドルで売却する。RKO=パテは今度は逆にキューブリックに1500ドル融資し、短編ドキュメンタリーの制作を依頼、『空飛ぶ牧師』製作した。

 1951年3月(22歳)、『空飛ぶ牧師(Flying Padre)』公開、4月には『拳闘試合の日(Dayof the Fight)』も公開される。また8月には初の劇場用作品『罠』の撮影を開始する。だが映画完成前にスタッフでもあったトーバ・メッツと離婚する。

 1952年(23〜24歳)、『罠』を改題した『恐怖と欲望』が完成。しかし、大手の映画配給会社から上映を断られてしまう。この頃のキューブリックは生活に困窮し、賭けチェスで日銭を稼いでいたという。

 1953年(24〜25歳)、ニューヨークの独立系シアター、ギルド劇場で、キューブリックの第1回監督作品『恐怖と欲望(Fear and Desire)』が始めて一般の観客に公開された(日本未公開)。戦場に取り残された兵士の不安と焦燥を描いたこの作品は、おおむね好評をもって迎えられた。それは同時に、「20世紀最後の巨匠」映画監督スタンリー・キューブリックが誕生した瞬間でもあった。
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 1954年、自主製作映画第2弾、『非情の罠(Killer's Kiss)』の製作を開始する。その最中、キューブリックは1人のプロデューサー志望の青年、ジェームズ・B・ハリスと出会う。ハリスはテレビや映画などの配給会社、『フラミンゴ・フィルムズ』のオーナーの息子で、有能な監督を探していたところだった。

 1955年9月、 『非情の罠』が完成し、 ユナイテッド・アーティスツの配給で全米で、やがて世界中で公開される。(日本では、映画の輸入制限枠の関係から、短縮版で公開)犯罪サスペンス物のわりには緊張感に欠けていたためか、批評はかんばしくなく、製作費も半分程度しか回収できなかった。だが、監督の才能やセンスの良さは充分に感じられる作品だった。そして、この作品を観たハリスは、キューブリックと組む決心をする。二人は『ハリス・キューブリック・プロダクション』を設立し、ユナイトの出資とハリスの資金調達により、『現金に体を張れ(The Killing)』の製作を開始する。

 1956年5月、 ハリス・キューブリック・プロ第1作、『現金に体を張れ』が完成し、ユナイテッド・アーティスツの配給で公開される。低予算映画ながら、実質的なハリウッド・デビューとなる本作は、サスペンスを盛り上げる独特のストーリー構成が評価され、客の反応も良く、興業成績も悪くはなかった。しかし、キューブリックの監督料が出るほど稼いではくれなかったようで、キューブリックはパートナーのハリスから生活費を借りて暮らしていた。

 1957年、キューブリックと他2人の協力により書いた脚本、 『突撃(Paths of Glory)』がカーク・ダグラスに気に入られたため、ユナイトの出資により、ダグラス主演によって製作が開始された。

 同年12月、『突撃』公開。軍隊の矛盾と愚かさや、非人間性を糾弾した本作は、とてもメジャー2作目とは思えない堂々とした演出、カメラワーク、そしてその徹底された批判精神など、各方面で「有望な新人」と称賛を浴びた。

 1958年4月、前年にルースと離婚したキューブリックは、『突撃』のラスト・シーンに出演していたドイツ人女優、スザンヌ・クリスティアーヌ・ハーランと3度目の結婚をした。

 1959年、いくつかの企画が流れ、 しばらく映画を撮っていなかったキューブリックに、スペインでロケ中のカーク・ダグラスから突然連絡が入る。それはアンソニー・マン監督で撮影に入っていたカラー大作、 『スパルタカス(Spartacus)』 を監督して欲しい、との依頼だった。この依頼を引き受けたキューブリックだったが、撮影現場はすでにダグラスと脚本のドクトル・トランボが牛耳っており、 弱冠31歳のキューブリックが進言しても、 とても聞き入れられる雰囲気ではなかった。仕方なくキューブリックは、単なる雇われ監督として映画を撮り続けた。(キューブリックは結局最期まで、この作品を自身のものとは認めてようとはしなかった)

 1960年、『スパルタカス』の監督をしながらキューブリックは次回作、『 ロリータ(Lolita)』の脚本を原作者のウラジミール・ナボコフに依頼、同年9月には脚本が完成する。

 同年10月、 ローマ時代の奴隷反乱を扱ったカラー大作史劇、 『スパルタカス』が公開される。キューブリックの不満をよそに世界中で大ヒットした本作は、その年のアカデミー賞の4部門を受賞した。

 1961年、『ロリータ』の撮影に取り掛かる。MGMの資金がイギリスでしか使えなかったことと、検閲団体の余計な干渉を避けるために、イギリスで撮影される。だがもっとも大きな理由は、いかにも「ハリウッド」的な権威主義が、作家性を摩滅させてしまうのではないかと、キューブリックが懸念したために他ならない。本作品以降キューブリックは、すべての作品をロンドンを拠点にして撮影している。

 1962年9月、まずロンドンで、12月にはニューヨークで『ロリータ』が公開される。中年男性がローティーンの少女に恋をするという当時の映画界では、かなりセンセーショナルで難しい題材だったため、演出が中途半端になり、エロティシズムも欠落してしまった。批評はあまり良くなかったが、興行的には一応の成功を収めた。

 1955年以来、共に歩んできたキューブリックのプロデューサーであるジェームズ・B・ハリスは、自分自身も監督を目指すことになり、キューブリックと袂を分かつことになった。『ハリス・キューブリック・プロ』はこの年をもって解散してしまうが、キューブリックは死ぬまでハリスと友好的な関係を続けた。
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 1963年、ピート・ジョージ原作のシリアスな偶発核戦争小説、『赤い警報』を読んだキューブリックは、この作品を映画化することにする。原作通り、シリアスな作品にするつもりだったキューブリックは、次々にくだらないアイデアが浮かんでくるのを押さえきれなかった。それならばと、ストーリーをまるっきりブラックコメディーに改変してしまう。それが功を奏し、『博士の異常な愛情:または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか(Dr.Strangelove or:How I Learned to Stop Worrying and Love the Bomb)』 と改題した本作は、 ブラックコメディーの傑作として完成する。

 1964年1月、『博士の異常な愛情』公開。 東京オリンピックに沸く日本以外、興行的にも成功し、作品自体も各方面で大絶賛される。

 同年4月、キューブリックはSF界の巨匠、アーサー・C・クラークとニューヨークで初めて顔を合わせる。長年の夢であった、「語り草になる、いいSF映画」を製作するためだ。またこの年の暮れ、実現はしなかったが、キューブリックは手塚治虫に美術監督依頼の手紙を書いている。

 1965年2月、『星々の彼方への旅(Journey Beyond the Stars)』と題された作品は、 クラークとキューブリックの共同脚本、 MGMの出資により製作を開始する。製作は、キューブリックの細部までこだわる徹底した完全主義と、クラークとの微妙なコンセプトの食い違い、新しい特撮技術の考案など、 膨大な製作費と3年の年月が費やされる。

 1968年4月、やっと完成した作品は、タイトルを 『2001年宇宙の旅(2001:A spasce Odyssey)』とし、一般公開された。当初、スケールの壮大さ、ストーリー性を排した暗喩の多用。説明的なセリフの徹底した排除など、とても一般的とは言えない映画に、観客はもちろん、評論家までもが翻弄されてしまう。しかし、クラークの小説版の出版も手伝って、徐々に最高傑作、金字塔、比類なき偉大な作品との評価を得る。この作品によって、キューブリックは「巨匠」の高みまで登り詰めたのだ。だが、この年のアカデミー賞では、「特殊視覚効果賞」のみの受賞であった。原作者であるクラークは、この扱いに露骨に不快感を表明している。

 1969年、キューブリックの次回作はMGMの出資による大作、『ナポレオン』とアナウンスされるが、資金繰りが悪化したMGMはこれを断念する。

 1970年3月、 キューブリックは一転して、 小予算と小規模のスタッフでアンソニー・バージェスの小説、『時計じかけのオレンジ(A Clockwork Orange)』の映画化を決定する。

 1971年12月、ワーナー・ブラザースの配給により、『時計じかけのオレンジ』が一般公開される。激しい暴力描写とセックス賛美に、一部の観客や評論家に拒否反応はあったものの、この年の「ニューヨーク批評家協会賞」を受賞する。

 この時期に創られた『博士の…』『2001年…』『時計じかけ…』の3作品は、 キューブリックの創造性、 評価、興業成績において、もっとも充実していたことは間違いないだろう。
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 1972年、キューブリックの次回作は『バリー・リンドン(Barry Lyndon)』と発表される。

 1973年の秋、アイルランド・ロケを含んだ撮影が開始される。歴史的に貴重な絵画や建物を使っての撮影に、さすがのキューブリックも発疹ができるほど神経質になったようだ。また政情不安のアイルランドでは、常にテロの危険にも晒されていた。

 1974年7月、『バリー・リンドン』撮影終了。

 1975年12月、『バリー・リンドン』が一般公開される。貴族社会の繁栄と没落を扱ったこの作品は、 見事に再現された18世紀の映像美は評価されたものの、感情移入を伴わない淡々としたストーリー進行のため、評価も芳しくなく、興行的にも失敗する。(現在では再評価の動きがある)

 1978年、 キューブリックの言うところの「正真正銘のコマーシャル・フィルム」、スティーブン・キング原作によるホラー、『シャイニング(The Shinning)』の製作が発表される。

 1980年5月、 『シャイニング』が一般公開される。リアルタイムには理解されにくいキューブリック作品らしく、「ホラーのわりにはあまり怖くない」とあまり評判は良くなかった。だが、興行的には一応の成功を収め、『バリー・リンドン』興行的失敗を取り戻した。

 1984年、 グスタフ・ハスフォード原作のベトナム戦争小説、『ショート・タイマーズ (The Short-Timers)』の映画化を発表する。タイトルは 『フルメタル・ジャケット(Full Metal Jacket)』と決定された。

 1985年9月、 ロケを嫌がるキューブリックは、ロンドン郊外にベトナムの戦場を再現し、撮影を開始する。

 1986年8月、撮影は終了する。しかし同年12月、オリバー・ストーン監督によるベトナム戦争映画、『プラトーン』が公開され、アカデミー賞作品賞を獲得してしまう。このことが、『フルメタル・ジャケット』の評価に若干の影響を及ぼしてしまうことになる。

 1987年6月、 『フルメタル・ジャケット』が公開される。キューブリック独特の冷徹な世界観は、『プラトーン』の過剰な演出と鮮かな対比を見せるが、一般的には『プラトーン』の方が評価が高かった。『フルメタル・ジャケット』に対する辛口の評価は、すでに伝説的な存在であるキューブリックに対する、期待の大きさの証明でもあるのだが。

 1993年4月、『50年間の嘘』の映画化、『アーリアン・ペーパーズ』の製作が発表されるが、同じユダヤ人の迫害を扱ったスピルバーグの『シンドラーのリスト』が先行していたため、これを中止する。

 同年11月に、1977年に映画化権を買ったブライアン・オールディーズのSF小説『Super Toys Last All Summer Long』の映画化、『A.I.』が製作発表される。

 1996年夏、アーサー・シュニツラーが1926年に出版した小説『ラプソディ:夢の小説(Rhapsody: A Dream Novel)』を 映画化することに決定、 タイトルを『アイズ ワイド シャット(Eyes Wide Shut)』し、撮影を開始する。先に製作発表された『A.I.』は、『アイズ…』完成、公開後に製作に着手することになる。

 1997年3月、その長年の輝かしい業績に対して、キューブリックは D.W. グリフィス賞を受賞、また同年9月に、ベニス国際映画祭において「金のライオン賞」を受賞した。

 1998年2月、『アイズ ワイド シャット』撮影終了。 だが同年5月、キューブリックお得意の再撮影により、若干キャストが変更になる。

 1999年3月7日、世界に衝撃が走った。キューブリックは『アイズ ワイド シャット』の公開を待たずして、ロンドン郊外のハートフォードシャーの自宅で急逝したのだ。70歳の若さで…。 葬儀には親族の他、トム・クルーズ夫妻やスピルバーグ夫妻も参列した。死因はどうやら心臓発作のようだ。

 1999年7月、遺作となってしまった『アイズ ワイド シャット』公開。自ら「最高傑作だ」と語っていた通り、緻密に、二重三重構築された妄想の世界は、それまでの自作の集大成ともいえる映像表現とも相まって、すさまじい完成度と緊張感ある作品に仕上がっていた。しかし、一般的にはあまり評価が良くなかった。

 2000年8月、キューブリックの急逝により、中ぶらりんになった『A.I.』を、ワーナーブラザーズ配給、スティーブン・スピルバーグ監督により製作することに決定し、2001年夏公開に向けて撮影を開始する。

 2001年6月、スピルバーグ監督作品として『A.I.』公開。
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