キューブリック作品を考察・検証する

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左からアレキサンダー・シンガー、ジェームズ・B・ハリス、カーク・ダグラス


 キューブリックは1928年、ニューヨークの医者の息子としてこの世に生を受け、やがで世界に名だたる超有名映画監督、すなわち「巨匠」の地位まで登りつめるのですが、それはキューブリック一人の力で成し遂げたものではなく、それに陰に日向に協力した人物は数多く存在します。ここでは、その中でも特に重要だと管理人が考える3人を採り上げて、解説してみたいと思います。



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(1)アレキサンダー・シンガー

 キューブリックのタフト高校時代の同級生。シンガーが校内誌に発表したSF小説にキューブリックが興味を持ち、シンガーに話しかけてきたことがきっかけで友人になる。キューブリックが高校を卒業し、ルックに入社後も交流を持ち続け、シンガーが当時勤めていたニュース映画制作会社『ザ・マーチ・オブ・タイムス』社から制作費などの情報を提供し、キューブリック初のドキュメンタリー映画『拳闘試合の日』を制作するきっかけを作った。その『拳闘…』ではセカンドカメラマンを担当、その後の作品にも協力し続け、劇映画第二作『非常の罠』ではスチールカメラマンを、『現金…』ではオープニング・シークエンスの撮影を担当している。

 そしてシンガーは重要な人物をキューブリックに紹介している。それはジェームズ・B・ハリスで、シンガーとハリスとは従軍時代に知り合い、除隊後に共同で映画制作をしている現場にキューブリックが訪れたことをきっかけに二人は顔見知りになる。その後街で偶然再開した二人は意気投合、映画制作会社『ハリス=キューブリック・プロダクション』を設立することになる。


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(2)ジェームズ・B・ハリス


 シンガーにキューブリックを紹介されたハリスは『非常の罠』を観てその完成度の高さに才能を確信、有能な監督と組んでハリウッド進出を狙っていたハリスは、キューブリックが資金集めに苦労していることを知るとコンビを組むことを決心し、『ハリス=キューブリック・プロダクション』を設立する。ハリスは映画とTVの配給会社「フラミンゴ・フィルムズ」を経営していて、ハリウッドにはコネがあった。コネを全く持たないキューブリックは、ハリスを通じてハリウッドに進出するチャンスを得たことになる。その後キューブリックは『現金に体を張れ』でハリウッドデビューを果たすが、『突撃』から『片目のジャック』(キューブリックは降板)の頃まで監督料を手にすることができず、生活費の多くをハリスからの借金で賄っていた。こうして公私にわたってキューブリックを支援し続けたハリスが果たした役割は大きかったと言えるだろう。


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(3)カーク・ダグラス

 キューブリックのハリウッドデビュー作『現金…』の評判を知ったカークは、この若い監督に興味を示す。当時大スターで、映画制作会社「ブライナ・プロダクション」を所有していたカークは、キューブリックが送ってきた『突撃』の脚本を読んで出演を決める。キューブリックはスターの出演によってなんとか制作資金を集めることができたが、肝心の映画が監督料をもらえるだけ稼いでくれなかったので、相変わらず生活は不安定なものだった。それが一変するのがカークが持ってきた雇われ監督の仕事『スパルタカス』を引き受けてから。キューブリックは本作によって経済的な安定と、ハリウッドでの名声を確実なものにするが、それと引き換えに映画制作における数々の制約に従わざるを得ず、キューブリックにとっては屈辱的な仕事となった。その不満を口にするキューブリックを、仕事とチャンスを「与えてやった」カークが快く思うはずがなく、後に自伝で「才能あるクソッタレ(才能はあるが、恩をあだで返すクソ野郎)」とキューブリックを評することになる。キューブリックも負けじと後年になってもカークの「性豪ぶり」を揶揄し続けていた。

 キューブリックがカークに反抗的な態度に出た理由は、当時のカークは『スパルタカス』以降のキューブリック監督作の権利を有するなどキューブリックに対して支配的だった。誰の干渉も受けず映画作りをしたいキューブリックにとってはまさに「目の上のタンコブ」でしかなく、それを嫌ったキューブリックがわざと不仲になるように仕向けた可能性がある。結局、悪書と蔑まれていた『ロリータ』映画化の悪評で自分の名声に傷がつくことを恐れたカークは契約を解消、キューブリックはまんまと「映画制作の完全なる自由」を得ることになった。



 以上、特に影響の大きかった代表的な3人を採り上げてみましたが、当のキューブリックは逝去してしまったのに、ここに挙げた3人は全員ご存命。それだけキューブリックが映画制作に命を削ってまで心血を注いだという証左だといえばそれまでですが、やはり逝去時の70歳という年齢は若すぎますね。
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 キューブリックは周囲の人間によると非常にウィットに富んだ愉快な人間だったようですが、その「ウィット」は多分に皮肉やブラックな要素を含んでいたらしく、『時計…』のアレックス役、マルコム・マクダウェルによると「炭のように黒い」と評するほどです。そこで今回はキューブリック作品内におけるジョークを、蛇足と知りつつも解説したいと思います。



LOLITA

『ロリータ』

ヘイズ夫人:「私のクイーンを取るの?」
ハンバート:「そのつもりですが」

解説:
これはチェスのシーンでハンバードとヘイズ夫人が交わす会話ですが、ここで言う「クイーン」とはロリータの暗喩で、「私のロリータを取る(奪う)の?」とヘイズ夫人の問いかけに対し、ハンバートは「そのつもりですが」としれっと答えます。ここでロリータが登場するのは、その暗喩をわかりやすくするためです。観客はハンバートがロリータを目当てに下宿しているのを知っているので、ここで笑ってもらおう、というキューブリックの意図ですね。その後下手な手を打ったヘイズ夫人に、「それは利口じゃない」と言いながらクイーンを奪うハンバートの姿は、その後の物語の成り行きを暗示しています。因みにこのシーンは原作にはないので、チェス好きのキューブリックが創作したことになります。


STRANGE

『博士の異常な愛情』

マフリー大統領:「作戦室で戦争は困る」
 
解説:
英語圏では『博士…』を代表するジョークとして広く知れ渡っていますが、日本語訳だといまいち面白さが伝わりません。元のセリフは「Gentlemen. You can't fight in here. This is the War Room!(君たち、戦争部屋で戦争は困る!)」ですので、「戦争する部屋」で「戦争するな」という矛盾で諌める大統領が面白い、という意味なのです。現在のDVDやBDの字幕や吹き替えは、必ずしもこのジョークの意図を汲み取ったものではないので、日本で全く知られていないのは仕方ないですね。


2001

『2001年宇宙の旅』

トイレの注意書き:「無重力トイレ よく読んで使用のこと」

解説:
これは古いファンにはおなじみのジョークシーンですが、新しいファンにはいまいち知られていないので解説します。つまり「急を要する便意に対して、あんなに事細かな注意書きのあるトイレだったら間に合わないだろ!」というジョークです。クラークによるとキューブリックは最初からこのジョークのためだけにこのシーンを作ったそうです。その注意書きの全文の邦訳はこちらをどうぞ。


ACO

『時計じかけのオレンジ』

作家アレキサンダー:「今ごろ だれかな?」

解説:
作家の邸宅への訪問シーンは二度ありますが、どちらも同じ横移動のドリーショットで始まります。一度目は美しい妻が登場、二度目はキモいマッチョが登場します。二度目のシーンではなにやら荒い息遣いが聞こえていますので、観客は「あの奥さんがなにかいやらしいことをしているのでは?」と期待するのですが、結果はマッチョの筋トレ(笑。というジョークです。ドリーショットがゆっくりなのは、観客に「あらぬ期待」をさせるためです。わかりにくい? 管理人もそう思います(笑。


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『バリー・リンドン』

ナレーション:「元閣僚 ハラム卿」

解説:
ハラム卿を演じているのは前作『時計…』で内務大臣を演じていたアンソニー・シャープです。特徴のある顔なのですぐ気づくはず。ですので、ナレーションの「元閣僚」とは「前作の閣僚(内務大臣)」であることを示していて、このナレーションの裏の意味は「元閣僚(前作で内務大臣)ハラム卿(を演じているアンソニー・シャープ)」になるのです。


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『シャイニング』

酒:「ジャック・ダニエル」

解説:
ジャックが禁酒を解く酒は、原作ではジンやマティーニでしたが、映画版ではバーボンに変更になっています。バーボンになった理由はここで考察した通りですが、ジャック・ダニエルは正確には「バーボン」ではなく「テネシーウィスキー」(実質的にはほとんどバーボンと同じですが、バーボンとは名乗れない)です。バーテンダーのロイドはジャックに「バーボンをくれ」と言われているので、正確を期すなら「アーリータイムス」や「IWハーパー」や「ワイルドターキー」でもよかったはずです。なのになぜジャック・ダニエルなのかというと、「ジャック(ニコルソン)が演じるジャック(トランス)がジャック(ダニエル)を飲む」というジョークをキューブリックはやりたかったのではないか、と思っています。ここ、多分笑うところですね(笑。


FMJ

『フルメタル・ジャケット』

標語:FIRST TO GO LAST TO KNOW

解説:
この「FIRST TO GO LAST TO KNOW(まずは行け、知るのは後だ)」というのは当時のアメリカ海兵隊戦闘特派員の標語だったそうですが、そんな標語とは真逆に、現場に行こうともせず、事務室で記事の捏造を平然と指示するロックハート中佐の背後に常に見えていることから、そういった「事務屋」連中を皮肉ったものだと言えるでしょう。原作小説では最前線の兵士たちが、過酷な戦場に身を晒すのを巧みに避ける「事務屋」たちを毛嫌いする描写がありますが、それがベースになっているのだと思われます。


EWS

『アイズワイド シャット』

「スピードボールだかスノーボールだか」

解説:
ジーグラーの愛人マンディーがドラッグの過剰摂取で意識不明になるシーンですが、ビルに摂取したドラッグを説明したセリフです。「スピードボール」とはコカインとヘロインの併用物というドラッグですが、「スノーボール」とは『フルメタル』でハートマン軍曹の名言「ふざけるな!本日より雪玉二等兵と呼ぶ!気に入ったか?」でおなじみのスノーボール二等兵のことですね。ジーグラーはきっと『フルメタル…』を観ていたんでしょう(笑。『アイズ…』では他にも「カミンスキー夫人」や「ミラー先生」という名前が登場しますが、この両者とも『2001年…』の登場人物です。まあこれらはキューブリックのファンに対する一種のファンサービスかも知れません。わかりにくいですが(笑。



 わりあい有名なものを中心に採り上げてみましたが、キューブリック作品にはこの他にも細かいネタが仕込んであります。特に音楽の皮肉っぽい使い方(例えば『アイズ…』の例の邸宅での素っ裸のダンスシーンでフランク・シナトラの『ストレンジャーズ・イン・ザ・ナイト(見知らぬ者同士の夜)』が流れる、といった具合)は気づいているのといないのとでは作品の面白さが違ってきますので、「もう何度も観てるよ」という方でも、こういった観点から見直してみるのも良いかと思います。もし「こんなジョークに気づいたよ!」ということがありましたら掲示板にてお知らせください。
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※スタンリー・キューブリックのオフィシャルアカウントが公表した「アテナ(アシーナ)」のスケッチ。日付は1965年7月20日となっている。

 キューブリックとクラークは『2001年…』を創作するにあたり、ロボットの登場を考えていました。理由は、木星や土星への壮大な宇宙旅行の実現にはロボットのサポートが必要になるだろうし、それに当時の『禁断の惑星』などの宇宙映画には必ずロボットが名脇役として登場していたからとも考えられます(キューブリックは制作当時の映画のトレンドをかなり意識して映画制作をしていた)。そのキューブリックのロボットへの興味が手塚治虫へのオファー(キューブリックは『鉄腕アトム』を観ていた)に繋がったのでしょう。

 そのロボットは形を変えてやがてスーパーコンピュータ「HAL9000」に行き着くのですが、その変遷を資料を元に辿ってみたいと思います。



1964年4月

 キューブリックとクラークがニューヨークで合流し、『2001年…』の製作開始される。まずは短編小説『前哨』を元に長編小説を書き起こすことから作業を始める。

1964年6月

 「ソクラテス(正式名称:自律移動型探索機5号)」というロボットが登場する。ソクラテスは「わたしはあらゆる宇宙活動用に設計されておりまして、独立した行動もとれるし、本部からでもコントロールがききます。通常の障害物にぶつかったときや、かんたんな非常事態の判定ぐらいは、内蔵された知性で楽に処理できます。いまわたしはモルフェウス計画(人工冬眠計画)の管理をまかされています」と自己紹介し、「ロボット三原則」にも言及されている。手には様々な工作機械が取り付けられ、頭は4つの方向に広角レンズが向けられ、360度の視野を確保している。このアイデアはやがて「HALの目」へと発展する。

1964年8月

 キューブリックがコンピュータの名称を「アテナ」にしよう、と提案する。この時点でロボットはコンピュータへと変化している。

1965年2月

 『星々への彼方への旅』として記者発表される。ただしスターゲート到着までで、結末は未完のままの状態。

1965年5月

 アテナはディスカバリー号の頭脳として活躍し、スペースポッドの事故やその後の対応でクルーをサポートするという(この時点ではコンピュータの反乱というアイデアではない)第一稿が書き上がる。この原稿ではボーマンがちぎり取られたアンテナを回収するためにポッドで離船しようとした際、アテナに「今の命令は第十五号指令に違反しています。取り消すか、訂正をお願いします」と拒否されている。このシーンが後に「コンピュータの反乱によるクルーの殺害」というアイデアに行き着く。

1965年7月

 上記のスケッチが描かれる。このスケッチを見る限り、中央のメインコンソールが胎児に見えるなど、女性の胎内を模しているように感じられる。HALのブレインルームへの侵入が下部(すなわち膣)であったり、内部が赤い照明であったりするのは、この頃のデザインの名残である可能性がある。キューブリックがコンピュータの性別を女性にした理由は明確ではないが、映画の後半には女性は登場しなくなるので、バランスを取った結果なのかもしれない。また、アテナはギリシャ神話の知恵の神の名であることから、様々な推測をすることができるが、キューブリックは明確な説明をしていないので全ては想像の域を出ない。

1965年8月

 クラークが一旦セイロンの自宅に戻り、8月にロンドンに到着した際にはセットの建造は始まっていた。

1965年12月

 月面シーンから撮影開始。

1966年1月

 この頃クラークはHALが狂い始めるシーンを書いている。

1966年3月

 キューブリックからクラークへHALの神経衰弱について「三分間のポエティックなクラーク風ナレーションを」というオファーが届く。この段階では名称はHALに決定しており、HALのシーンの撮影中だったのではないかと推測。

(出典:『失われた宇宙の旅2001』



 若干推測も含んでいますが、おおまかにはこういった流れになります。意外なのは「アテナ」だった期間が長かったこと。約一年以上にわたってこのアイデアのままでした。キューブリックとクラークがいつベル研究所で行われたIBM7090による音声合成のデモを聴いたのかは定かではありませんが、その体験ががアテナ(女性)からHAL9000(男性)への変更を促したであろうことはほぼ確実だろうと思われます。

 さて今日本作を観返してみて、『2001年…』内の未来予測の中で真逆の進化を遂げたのが「コンピュータの大きさ」です。キューブリックとクラークはコンピュータが高機能化すればするほど大型化すると考え、HALの本体を人が入れる金庫室のようなデザインにしました。しかし現実は宇宙船に搭載するには小型化するしかなく、現在『2001年…』を観るとHALのブレインルームは大げさに見えるかも知れません。しかし、HALのアイデアの元ネタがIBM7090だとすればそれも仕方ないのかも知れません。このIBM7090がHAL9000やディスカバリー号の内装デザインに与えた影響は明白です(型番のIBM7090→HAL9000も)。

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※IBM7094の制御卓

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※HAL9000の制御卓

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※IBM7040の制御パネル

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※HAL9000の制御パネルやディスカバリー号の内装

「HALはIBMのアルファベット一文字ずらし」という噂をクラークは否定していましたが(後に「否定するのを辞めた」と書いていますが、噂が真実かどうかは慎重に言及を避けている)、以上の経緯から個人的にはこの噂は真実だと判断しています。

 また、HALの声を担当した声優にも言及したいと思います。まだHALがアテナだった頃、キューブリックは声をステファニー・パワーズに担当させようと考えたようです。それがHALになった時も最初にリハーサルしたのはパワーズだったそうです。しかしすぐにイギリス人の俳優ナイジェル・ダベンポートに変更され、結局マーティン・バルサムにいったん決定しました。しかしいざ録音してみると「あまりにもアメリカ口語に聞こえた」ため、当初ナレーターにキャスティングしていたダグラス・レインに急遽変更、レインの当たり障りのない中部大西洋風アクセントがHALにふさわしいと判断したキューブリックは、1日半を使ってHALのセリフを録音したそうです。

 余談ですが、ステファニー・パワーズはフランク・プールを演じたゲイリー・ロックウッドと1966年に結婚(後に離婚)していますが、そのきっかけが『2001年…』での共演未遂だったとしたら、ちょっと興味深いですね。1966年といえば上記の年表にある通り、『2001年…』の制作真っ盛りですので可能性はかなり高いと言えるでしょう。
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(引用先:getty images:A scene from the movie 'A Clockwork Orange' in 1971 in London, England.January 01, 1971)※一部画像加工済

 まず上記の写真ですが、これは『時計…』のラスト、アレックスが夢想するレイプ・ショーの中の「レイプ・ファンタジー」と呼ばれるシークエンスです。現在視聴できるDVDやBD、2年前全国で開催された『ムービーマスターズ第1弾スタンリー・キューブリック』での上映でもこのシークエンスはカットされていて存在しません。このシーンを見たというsaito氏の証言によると

 私が時計じかけのオレンジを初めて見たのは2001年宇宙の旅の1978年のリバイバルの翌年、恐らく1979年の時計じかけのオレンジのリバイバルだと思われますが、そのときのラストシーンは現在のショット(雪の上で中世風の人々に拍手を受けながらスローモーションで転げている男女)の直前に、(雪の上で中世風の人々に拍手を受けながらスローモーションでカメラに向かって駆けて来る裸の女性を追いかけるアレックス)のカットがあり、そのカットはズームバックで3分割されており、その3分割の間に病室で妄想に浸るアレックスのアップが2回カットバックされるものでした。その後に、現在のラストカットが続いていました。

KUBRICK.Blog.jp BBS『時計じかけのオレンジのラストカットの相違について』より)


という内容だったようです。

 同様の写真は『世界の名画&名優大全集 』(徳間書店:1976年)にも掲載されていて、それがこちらになります。

 また、海外のマルコム・マクダウェルのファンサイト『www.MalcomMcdowell.net』にも同じ記録があり、

On the call sheets this was called 'Rape Fantasy' that's why think this sequence was cut out because it shows Alex chasing the girl down and she looks horrified. It looks like he ripped her clothes off and she is trying to get away. By only showing the girl on top of Alex in the film it makes her look happy and it's consensual. You can't rape someone who is on top of you, they have to want to be there or they could jump off. This way Alex's final line, "I was cured all right" is ambiguous which Kubrick preferred. Was he cured to go back to his raping ways or was he cured to experience physical love?

 これはコールシートでは「レイプ・ファンタジー」と呼ばれていて、アレックスに追いかけられる女の子のシークエンスは、ぞっとするような印象を与えるためカットされたとされている。アレックスは服をむしり取り、襲いかかろうとしているようだ。フィルム上のアレックスの上に女の子を見せることによって、彼女は合意し、幸せであるように見える。あなたはレイプすることはできませんが、ここにいたいと思っていなければいけません。アレックスのセリフの最後の一行の「完全に治ったね」は曖昧です。キューブリックはどちらを好んだのでしょう?アレックスはレイプの方法を取り戻すために治ったのでしょうか。それとも肉体的な愛を経験するために治ったのでしょうか?


 以上の資料から、この「レイプ・ファンタジー」のシークエンスはsaito氏の証言通り、存在していたのは確実でしょう。

 次に、映画評論家の河原畑寧氏のこのコメント

「このスローモーションのレープ・ショー・シーンは日本公開版ではオリジナルよりかなり短くされている」

(キネマ旬報1972年5月上旬号より引用)


にも注目したいと思います。河原畑寧氏は初公開時のパンフレットに寄稿しているので、公開前の試写を観ているのは確実だと思われます。つまり、氏は試写でこの「レイプ・ファンタジー」を観ていて、その後公開版を観てカットされているのを知り、上記のコメントを書いたのだと思います。氏は、当時の日本はポルノに対して世界的にみても厳しい基準を設けていたので、カットされたのは日本公開版だけで世界公開版ではカットされていないと勘違いしたのでしょう。

 以上の証言・資料からある推論が導き出されます。つまり「試写の段階ではレイプ・ファンタジー・シークエンスは存在した」「その後キューブリックの要請によりカットされ、それが決定版になった」という推論です。キューブリックが公開ギリギリまでカットするのはよくあることなので、特に目新しい論ではありませんが、saito氏は初公開時ではなく、リバイバル時にこのシーンを観ています。どうしてこんなことが起こってしまったのでしょうか?

 試写が行われた以上、最低でも1本はレイプ・ファンタジー・シークエンスを含んだフィルムが日本国内に存在していたことになります。その1本、もしくはキューブリックのカットの指示が届く前にプリントした何本かが、何かの手違いで映画館に流通してしまったのでしょう。そしてその後のリバイバル時にはカットの事実は忘れ去られてしまい、レイプ・ファンタジー入りと、なしのフィルムが混ざってしまったままリバイバル上映に回されてしまったのではないでしょうか。

 この「レイプ・ファンタジー入りのフィルム」が何本存在していたのかは分かりませんが、もっと情報が集まれば何か新しい事実が判明するかも知れません。もし「私もレイプ・ファンタジーを観た」という方がいらしゃいましたら、

・ご覧になった年月日(年だけでも)
・ご覧になった映画館(無理なら都市名、もしくは地方名)

こちらの掲示板に情報をお寄せください。尚、掲示板に書き込まれた証言は、レイプ・ファンタジー検証記事に証言者名(情報のソースを明確にするためです。ハンドル名で結構です)も併せて使用させていただきますことを何卒ご了承ください。

 皆様の情報提供をお待ちいたしております。

情報提供:saito様
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stanley-kubrick

 ニック・リグレー氏による「スタンリー・キューブリックが好んだ映画のマスター・リスト」が更新されていましたので、遅くなりましたが和訳を追加しました。また、全体的に和訳を見直しました。(初出版の和訳記事はこちら

 この記事の重要な点は、リグレー氏が「この記事の目的は、キューブリックが何らかの形で賞賛を表明していることが知られている全ての映画の、徹底的な時系列マスターリストを編纂しようとする試みです。うまくいけばこれは、さらなる物語へと発展していくものです」と語っている通りです。管理人がこれに加えるとするならば、今までに一般に流布している「不完全で、論者の思い込みのみで語られたキューブリックが影響を受けたとの記事の修正・訂正を行う試み」でもあります。

 スタンリー・キューブリックはその名声や影響力の大きさから、世界中の識者から一般のファンまで日夜研究が行われています。そんな中「そう見ればそう見える」「そう思えばそう思える」程度の共通項を見つけ出し「影響を受けた・与えた論」が何の根拠もなく「俺が最初に見つけたんだ!」と言わんばかりにネットに流されます。その際たるものが「『薔薇の葬列』は『時計…』に影響を与えた」論です。もしなんらかの一次情報があれば別ですが、それもないまま表層的な共通項のみで「影響を与えた」との論が一般に流布してしまい、訂正が困難な状況になってしまっています。こういった根拠ゼロの「思い込み論」はファンとして甚だ迷惑な話でしかありません。

 以下の記事はキューブリックから直接見聞きした関係者の証言と、キューブリック本人のインタビューなどソースが明確に示されたもののみ掲載されています。ここをご覧になっているファンの方はもちろん、映画評論家や映画ライターなど、プロの方まで是非とも知っておいて欲しい情報です。キューブリックに関する記事や論評を掲載する際、是非ここをご参照ください。また、できましたらソースの原文もご確認ください。和訳は管理人が拙い英語力と翻訳サイトを駆使して行ったもので、間違いやニュアンス違いがあるかもしれません。もし翻訳で気になる点がありましたら掲示板でお知らせください。ご協力を何卒宜しくお願いいたします。

●この記事に登場する人物の紹介

ニック・リグレー…この記事の執筆者。ヤン・ハーランとフリューインには直接取材している。

ヤン・ハーラン…キューブリックの義弟でキューブリック作品のプロデューサー。

カタリーナ・キューブリック…キューブリックの義長女。「ホッブス」とあるが、これは前夫の姓で、離婚したため現在はカタリーナ・キューブリックと名乗っている。

アンソニー・フリューイン…長年にわたってキューブリックのそばにいた制作アシスタント。

尚、の文章は管理人の記事に対するコメントです。元記事にはありませんのでご注意ください。




映画ファンとしてのスタンリー・キューブリック

 スタンリー・キューブリックの85回目の誕生日のこの日(※2013年7月26日)、ニック・リグレー(※元記事の筆者)はキューブリックの右腕であるヤン・ハーランの助けを借りて、監督のお気に入りの映画や鑑賞の習慣を探ります。

〜 略歴と序文は省略 〜

【初期の頃】

 若きキューブリック。毎日プレイしていたチェスの他に、彼が大いに愛した時間はミシェル・シマンの言葉によると「ニューヨーク近代美術館での上映に真面目に出席」でした。ここで彼はとりわけサイレント時代の偉大な映画を観ていて、特に『アレクサンドル・ネフスキー』(エイゼンシュテイン、1938年)を観に行くのを、彼の高校の友人で初期の協力者でもあったアレックス・シンガーが覚えています。それからすぐにキューブリックがプロコフィエフのLPを買って何度も何度もかけ続けたので、妹(※バーバラ)はとてもイライラし、キューブリックの頭でそのLPを割ってしまいました。

 このエピソードについての記事はこちら


 1987年の新聞のインタビューでキューブリックは人生のこの時期に触れて:

 「私の映画に対するおぼろげなイメージは、シュトロハイム、D・W・グリフィス、エイゼンシティンを見たニューヨーク近代美術館で形成された。私はこれら素晴らしい映画によってスターの世界に魅せられていた。私は「おい!俺はハリウッドへ行って大きな家に住み、週当たり5,000ドルで映画を作るつもりだ。それにスポーツカーを持ってるぜ」というスターの世界には魅せられていなかった。私は本当に映画を愛していた。ローズ(※シアター)系でRKOをすべてを見たものだ。しかし、非常に出来の悪い多くの映画を見た時、私は思った。「私は映画について何も知らないが、少なくともこれ以上良くできないとはとても信じられない」 それが私がどうして(※映画製作を)始めたか、どうして試みたのかの理由だ」

ー1987年6月28日ワシントンポストのロイドグローブによるインタビュー

 最初で唯一の(我々の知る限り)キューブリックのトップ10リストは、「シネマ」(前年に設立され、1976年に廃刊されていた)という駆け出しのアメリカの雑誌に1963年に掲載された。ここにそのリストがあります。

1 『青春群像 』(フェリーニ、1953年)
2 『野いちご』(ベルイマン、1957年)
3 『市民ケーン』(ウェルズ、1941年)
4 『黄金』(ヒューストン、1948年年)
5 『街の灯 』(チャップリン、1931年)
6 『ヘンリー五世』(オリヴィエ、1944年)
7 『夜』(アントニオーニ、1961年)
8 『バンク・ディック』(フィールズ、1940年)
9 『ロキシー・ハート』(ウェルマン、1942年)
10『地獄の天使』(ヒューズ、1930年)


 このトップ10についての記事はこちら


 ハーランは私に言った:「『野いちご』『市民ケーン』『街の灯』は残るでしょうが、スタンリーは数年の後にこの1963年のリストを大きく改訂していたでしょう。しかし、彼はケネス・ブラナーの『ヘンリー五世』の方が、古臭く旧式なオリヴィエ・バージョンより遥かに好きでした」

(偉大な映画監督の多くがそのリストに『街の灯』を含くんでいるのは興味深いです。ベルナルド・ベルトルッチ、 ロベール・ブレッソン、 ミロス・フォアマン、キューブリック、 デヴィッド・リーン、 キャロル・リード、 アンドレイ・タルコフスキー、 キングヴィダー、オーソン・ウェルズ、全員そうです )

 ミシェル・シマンはキューブリックの1963年のトップ10には存在していないマックス・オフェルスとエリア・カザンが抜けていると指摘しています。1957年始めのカイエ・デュ・シネマのインタビューで、キューブリックはこう言っています:

 「マックス・オフェルスは最高だ。私には彼はあらゆる資質を備えていると思える。彼は俳優から良い演技を引き出すための卓越した才能を持っており、その上その題材を最大限に生かす。それにまた、演技指導も申し分ない」

 また1957年にキューブリックは、カザンについて:

 「疑問の余地なくアメリカでは最高の監督。彼は起用した俳優と奇跡を起こすことができる」

 1960年代にキューブリックは言っています:

 「私はベルイマン、デ・シーカ、フェリーニは世界でたった三人の芸術的日和見主義者ではない映画監督であると信じている。だからと言って、彼らはただ座って待っていれば良いストーリーが来るから、それを作っていればいいんだという意味ではない。彼らは映画の中で何度も何度も見解を述べる。そして彼らは彼ら自身で書くか、彼らのために書かれたオリジナルの要素を持っている」

 1966年には別の珍しいコメント:

 「なす事全て常に意識していないといけないと言われている、極めて貴重な監督がいる。私はリストの始めにフェリーニ、ベルイマン、デビッド・リーンを、次のレベルの上の方にトリュフォーを置くだろう」

 キューブリックは人前で他の映画監督に関する考えを滅多に論じなかったので、彼がそうした数回は繰り返す価値があります。チャップリンについて:

 「何かが本当にスクリーンで起こっているなら、それがどのように撮影されたかは重要ではない。チャップリンは非常に単純な、『アイ・ラブ・ルーシー』(※アメリカのホームドラマ)のような映画のスタイルを持っていた。本質的非映画スタイルである事に気づかない内に、いつも催眠術にかけられた。頻繁に使用された安いセット、決まりきった照明など。だが彼は素晴らしい映画を作った。彼の映画は恐らく他の映画より長く生き続けるだろう」

 アベル・ガンスの『ナポレオン』(1927年)について:

 「映画は映像革命の傑作でスクリーンに革新をもたらしたが、誰かが再びそれに大胆に挑戦してみる際、いつでも革新と呼ばれる事を私は知っている。しかしその一方で、ナポレオンについての映画は、私は常に失望してきたと言わざるを得ない」

 二人の俳優については彼は賞賛:

 「あなたが映画で最も素晴らしい瞬間について考えるとき、大抵の場合シーンよりもむしろイメージに関係していて、そして確実に台詞ではないと私は思う。映画がベストなのは画に音楽を用いる事で、それらはあなたにとって忘れられない瞬間だろう。他には俳優が何かをする様子で、『ブルー・エンジェル』でエミール・ヤニングスがハンカチを取り出し鼻をかんだ様子とか、ニコライ・チェルカーソフが『イワン雷帝』の中でした素晴らしくゆったりとしたターンとかだ」

ー1972年サイト&サウンド春号のフィリップ・ストリックとペネロペ・ヒューストンのインタビュー

 意外な着想元:

 「映像芸術の最も素晴らしい例のいくつかは、最高のテレビコマーシャルにある」

ー1987年のローリングストーン誌でのキューブリックの弁

 ミケロブのCMの事。詳しくはこちら


 1999年9月、キューブリックが賞賛した映画で、唯一の信頼すべきリストが彼の娘であるカタリーナ・キューブリック・ホッブスの好意によってalt.movies.kubrick Usenetニュースグループに記載されました。

 導入部の彼女の予告の言葉:「あらゆるものをリストにしたい、という人々の欲望は不思議に思えます。最高だ、最悪だ、偉大だ、退屈だ、などなど・・・このうろ覚えのリストの事で、死ぬほど自分で分析しないでください。彼は、自己主張のある映画が好きでした・・・記録については彼が好きだった、ということをたまたま私が知っていたに過ぎません」

『厳重に監視された列車』(メンツェル、1966年)
『狼男アメリカン』(ランディス、1981年)
『火事だよ!カワイコちゃん』(フォアマン、1967年)
『メトロポリス』(ラング、1927年)
『ミツバチのささやき』(エリセ、1973年)
『ハード・プレイ』(シェルトン、1992年)
『美女と野獣』(コクトー、1946年)
『ゴッドファーザー』(コッポラ、1972年)
『悪魔のいけにえ 』(フーパー、1974年)
『狼たちの午後 』 (ルメット、1975年)
『カッコーの巣の上で』(フォアマン、1975年)
『市民ケーン』(ウェルズ、1941年)
『Abigail's Party』(リー、1977年)
『羊たちの沈黙』(デミ、1991年)


と私は彼が『オズの魔法使い』を嫌っていたことを知っています。ハハ!

 日常接していた娘の証言というのは仕事とは関係なく、単に「好んだ」作品だと考えられる。故にこのリストは重要だ。「嫌い」というなら『風と共に去りぬ』も付け加えたい。キューブリックは「ヴィヴィアン・リーほどひどい演技には、お目にかかったことがない。あれは史上最悪の演技だよ。いいかい?あれは最低の映画だ」(『アイズ ワイド オープン』より)とこき下ろしている。


 2012年暮れ、映画ファンなら所有すべきと重視されているアメリカのブルーレイとDVDレーベル「クライテリオン・コレクション」のウェブサイトに、ユーザーによって作成されたリストが公開された。それはクライテリオン自身が作成したと誤認され、不用意に書かれた多くの記事のソースとなってしまった。

 クライテリオンファンであるジョシュア・アウォレンにより編集されたこのリストの問題は、いくつかの興味深い映画と、スタンリーの好んだ映画と知られている2つの上記のリスト(1963年の映画トップ10およびカタリーナのリスト)を中途半端な知識とともに結合したことにある。しかもそれはクライテリオンによってリリースされた主要な映画しか含まれていなかった。

 この記事の目的は、キューブリックが何らかの形で賞賛を表明していることが知られている全ての映画の、徹底的な時系列マスターリストを編纂しようとする試みです。うまくいけばこれは、さらなる物語へと発展していくものです。私はこれを常に最新することを目指しています。




【マスターリスト 1921-1998】

 「スタンリーは一般的な商業映画に非常に失望していました。それは愚かなストーリーでどれほどの大金が無駄にされたか、と思っていたからです。」

ー2012年にキューブリックのアシスタント(1965年〜1969年と1979年〜1999年)アンソニー・フリューイン

 このコメントは重要。キューブリックが『アイズ…』に込めたメッセージに繋がるからだ。詳細はここで。


『霊魂の不滅』(ヴィクトル・シェストレム、1921年)

『メトロポリス』(フリッツ・ラング、1927年)

 フリューイン:「私達は『2001年…』に取り組む間にこれについて話をしました。スタンリーはこれが「とても愚か」で「稚拙」であり、なぜこのような高い評価を与えられているかまったく理解できないと思っていました」(にもかかわらず、カタリーナ・キューブリック・ホッブスの「父が好きだった映画のリスト」に存在する)

『地獄の天使』(ハワード・ヒューズ、1930年)

 ハーラン:「私はこれが1963年のリストにあるという事を理解しています。しかし不思議な事に私たちが「無人島に持ってくなら」ゲームをした時、彼は『地獄の天使』に言及することはありませんでした」

『嘆きの天使』(ジョセフ・フォン・スタンバーグ、1930年)

 ハーラン:「欠かせません」

『街の灯』(チャールズ・チャップリン、1931年)
『バンク・ディック』(エドワード・F・クライン、1940年)
※銀行強盗もののコメディ映画
『市民ケーン』(オーソン・ウェルズ、1941年)
『ロキシー・ハート』(ウィリアム・A・ウェルマン、1942年)
※ミュージカル・コメディ映画
『ヘンリー五世』(ローレンス・オリヴィエ、1944年)

『天井桟敷の人々』(マルセル・カルネ、1945年)


 キューブリックはインタビューで『天井桟敷…』について「素晴らしい映画だが、あれは本質的に舞台が基本になっていると思う。映画はサイレント時代に獲得した独特のストーリーテリング構造を、トーキーになって演劇的なものに戻してしまった。今の映画は、字幕一枚で説明出来ることを長々やっているのではないだろうか」(詳細はこちら)とも語っている。


『美女と野獣』(ジャン・コクトー、1946年)
『黄金』(ジョン・ヒューストン、1947年)

『フランダースのカーニバル』(ジャック・フェデー、1935年)


 キューブリックは「とても素晴らしい映画」だとし、ニューヨーク近代美術館でそれを観て楽しんで述べたと1968年12月と1969年1月発行の「ポジティフ」誌のイシュー100と101に掲載されたルノー・ウォルターとのインタビューで応えている。

『パシフィック231』(ジャン・ミトリ、1949年)

 フリューイン:「スタンリーは「『パシフィック231』は今まで観た中で最も完璧に編集された映画の一つ」と言っていました。それだけでなくオネゲールの音楽と合わせたミトリの編集方法に打ちのめされていました」

 「私はスタンリーとの仕事に就く前にこの映画を見ていて、常にそれについて言い続けていました。 スタンリーはそれを観たがったので、私はBFIから16mmのプリントを借りました」


 これについての記事はこちら


『羅生門』(黒澤明、1950年)

『七人の侍』(1954年)の項目を参照。

 キューブリックはインタビューで『羅生門』について「とても魅せられた。あれも五十年代だったな。原作も読んだ。五・六ページの短編でとても面白かった。作者の名は忘れたけど」(詳細はこちら)と語っている。


『輪舞』(マックス・オフュルス、1950年)
『快楽』(マックス・オフュルス、1951年)
『たそがれの女心』(マックス・オフュルス、1953年)


 ハーラン:「『輪舞』・・・そう彼はシュニツラーのファンでした。『たそがれの女心』のダニエル・ダリューを彼は愛していました」

『令嬢ジュリー 』(アルフ・シェーベルイ、1951年)

 キューブリック:「私は『令嬢ジュリー』には非常に鮮明な思い出がある。それは極めて非凡な流儀で制作されていたからだ」

ーレイモンド・ハイネによるインタビュー。1957年7月のカイエ・デュ・シネマ誌より

『エドアールとキャロライン』(ジャック・ベッケル、1951年)

 キューブリック:「よくベッケルの『エドアールとキャロライン』はマイナー映画だと言われるが、にもかかわらずとても魅力的だ」

ー レイモンド・ハイネによるインタビュー。1957年7月のカイエ・デュ・シネマ誌より

『カスクドール』(ジャック・ベッケル、1952年)

 キューブリック:「私は、ジャック・ベッケルがとても好きだ。 軽いというのが彼の評価だが、それで彼が『カスクドール』のような優秀でドラマチックな映画を作ることを妨げらることはなかった。そして私も何度も観た」

ーレイモンド・ハイネによるインタビュー。1957年7月のカイエ・デュ・シネマ誌より

『青春群像』(フェデリコ・フェリーニ、1953年)

『道』(フェデリコ・フェリーニ、1954年)

 1957年にキューブリックは言った: 「私はイタリア映画の中で、最も興味深く詩的な個性の彼を十二分に理解できる映画は『道』しか知らない」

『七人の侍』(黒澤明、1954年)

 フリューイン:「このマスターリストを通して見ている間、すぐに私が感じたことは黒澤明の明らかなる不在でした。スタンリーは、黒澤が偉大な映画監督のうちの1人であり、彼の忠実なフォロワーだと思っていました。実のところ、キューブリックが憧れを持って語る監督は、彼以外には考えられません。もしキューブリックが無人島に見捨てられるとして、そこに持っていく映画をいくつか選べるとしたら何を持っていくでしょう? お金ではありません。『アルジェの戦い』『ダントン』『羅生門』『七人の侍』『蜘蛛巣城』…」

 黒澤に関する心打つ話:「スタンリーは1990年代後半にクロサワからファンレターが届き、とても感激しました。それは、彼にとってどんなアカデミー賞よりも大きな意味がありました。彼は返信ついて悩み、数えきれない草案を書きました。しかし、どうしても気持ちを上手く表現することができませんでした。それから何週間も何ヵ月も悩み続けました。そして彼はもう十分だと、返事を書かなければと心に決めました。ところがその手紙が送られる前に黒澤は亡くなりました。スタンリーはひどく動揺していました」

 これについての記事はこちら


『夏の夜は三たび微笑む』(イングマール・ベルイマン、1955年)

 キューブリック:「マックス・オフュルスが亡くなった後、私が観てきたすべての映画の中で最も感心した映画監督は、疑問の余地なくイングマール・ベルイマンだ。私は『夏の夜は三たび微笑む』が大変好きだ」

ーレイモンド・ハイネによるインタビュー。1957年7月のカイエ・デュ・シネマ誌より

 フリューイン:「ベルイマンの運勢はキューブリックと同様、1960年代初頭から向上しました」

『賭博師ボブ』(ジャン=ピエール・メルヴィル、1956年)

 キューブリック:「完璧な犯罪映画だ」

『野いちご』(イングマール・ベルイマン、1957年)

『蜘蛛の巣城』(黒澤明、1957年)


『七人の侍』(1954)の項目を参照。

『夜』(ミケランジェロ・アントニオーニ、1961年)

『ベリーナイス、ベリーナイス』(アーサー・リプセット、1961年)
※カナダ映画製作庁の短編映画

 キューブリックはアーサー・リプセットに『博士…』の予告編の製作を依頼しましたが、彼は断りました。タイトルのデザイナーのパブロ・フェロは予告編を編集、制作しましたが、それはリプセットの『ベリーナイス、ベリーナイス』のスタイルに非常に似ています。

 これに関する記事はこちら


『メリー・ポピンズ』(ロバート・スティーブンソン、1964年)

 キューブリック:「私は子供たちのため3回も『メリー・ポピンズ』を観に行った。そして、その3回のどれも楽しめたほどジュリー・アンドリュースが大好きだ。私はとても魅力的な映画だと思った。私もそういった映画を作ってみたい。しかし・・・」

 「子供向け映画はディズニーに任せられない領域だ。私は彼らが素晴らしい子供向け映画を製作するとは思えない。私は彼らが子供に動揺を与える、衝撃的で残忍な要素を持っていると考えている。彼らの漫画映画の特徴についての話だ。 私は彼らがなぜそれが妥当であると考えるのか、全く理解できない。『バンビ』の母親が死ぬシーンは、5歳の子供に与える心的外傷体験の一つであるように思える」

 「私は映画の暴力についての検閲は、子供のためにあるべきだと思っている。私は『サイコ』がどういう映画か知らず、子供たちがまだ6〜7歳だった頃にミステリー映画のつもりで観に行った。子供たちはかなり動揺していたと思う。私は非常に怒りました。私はこれがどのように芸術的な表現の自由を妨げるかわからない。映画が過度に暴力的で衝撃的である場合、12歳未満の子供が観るのを許されるべきではない。私はそれが検閲の非常に有益な形であると思う」


ーイーストビレッジアイ、1968年にチャーリー・コーラーからインタビュー。『2001年…』公開の数日後。

『マンチェスターの包囲』(ハーバート・ワイズ、1965年)※BBCテレビのシアター625(シリーズ3、エピソード8)用に製作されたTV映画

 キューブリックは、最初の(そして唯一の)テレビ放送中にこのエピソードを観ました。そしてその翌日、キューブリックは家に映画のリールを持ってくることができるかどうかハーバート・ワイズに尋ねました。 キューブリックはすべてを観て、彼がどのように製作したかについてワイズに尋ねました。ワイズ自身が語る このインタビューを見てください。

『アルジェの戦い』(ギロ・ポンテコロボ、1966年)

 キューブリック:「すべての映画は、ある意味虚構のドキュメンタリーだ。人はできる限り現実に近づこうとする。しかしそれは現実ではない。非常に上手く映画を作る人々がいる。それらは私を完全に魅了し、そして見事にだまされた。 例えば『アルジェの戦い』。それは非常に印象的だ。」

 フリューイン:「スタンリーは長い時間にわたって『アルジェの戦い』と、ワイダの『ダントン』について夢中になってしゃべり続けました(それは彼とわめき合うようなものだった)。 1965年9月にスタンリーと仕事を始めたとき、彼は『アルジェの戦い』を観なければ、映画でどんなことができるのか真に理解できない、と語りました。 彼は死の直前でもまだそれに夢中でした」

ーポジティフ誌のルノー・ウォルターとのインタビュー

『厳重に監視された列車』(イジー・メンツェル、1966年)
『火事だよ!カワイ子ちゃん』(ミロス・フォアマン、1967年)

『アンダーソン・プラトーン』(ピエール・シェンデルフェール、1967年)


 キューブリック:「私はドキュメンタリーを見るのが好きだ。 私はアメリカの小隊についてフランス人が作った映画『アンダーソン・プラトーン』が大好きだ。 私はそれが素晴らしい映画だと思った。 しかし個人的には、私はそういうものを作ることに興味はない」

ーポジティフ誌のルノー・ウォルターとのインタビュー

 フリューイン:「スタンリーはピエール・シェンデルフェールを高く評価しました。 彼は『フルメタル…』の前に『アンダーソン・プラトーン』を観ていて『La 317eme Section』(1964)も観ていました。それだけではなく、私はピエールを探し出し、スタンリーの要望で送った『愛と戦火の大地』(1992)も観ました。 彼らは語り合いました」

『ペパーミント・フラッペ』(カルロス・サウラ、1967年)

 キューブリック、1980年にスペイン映画を論じる:

 「私はサウラの映画に偶然出会った。ある日私はかなり遅く帰宅し、テレビをつけた。私は最初の30分を見逃したため、ストーリーを理解することは難しかったが、同時にそれが偉大な監督の映画であると確信した」

 「私は残りの部分をテレビに貼り付いて観て、それが終わったときに新聞を拾い、それがカルロス・サウラの『ペパーミント・フラッペ』であることを知った。後にフィルムのコピーを見つけ、最初から観た。熱狂し、私は私が観たサウラの映画のすべてで、彼の仕事の高い品質を確認した。彼は非常に素晴らしい監督であり、特に私を驚かせるのは、彼の俳優たちのすばらしい起用法だ」

 「少女アナ・トレントが見せた2つの役について、私に与えた素晴らしい印象についても言及したい。ビクトル・エリセの『ミツバチのささやき』とカルロス・サウラの『カラスの飼育』だ。彼女は数年後には、まれな美しさの女性 (すでにその片鱗を見ることができる) の偉大な女優になると思う。これら2人の監督のほかに、私が何年も多くのことを深く尊敬しているルイス・ブニュエルについて言及しなければならない」


ー1980年12月20日、エル・パイス - アルテスのヴィセンテ・モリーナ・フォアによるインタビュー。ジョルジュ・プリヴェテによって2013年に翻訳(キューブリックはサウラに『時計…』『バリー…』『シャイニング』のスペイン語版の監督を依頼した)

『If もしも....』(リンゼイ・アンダーソン、1968年) 

『ローズマリーの赤ちゃん』(ロマン・ポランスキー、1968年)


 『ローズマリーの赤ちゃん』を評して曰く「それはそのジャンルの最良のものの一つだ」(『ミシェル・シマン キューブリック』より)


『ウエスタン』(セルジオ・レオーネ、1968年)

クリストファー・フレイリング卿の伝記『死と何か』の299ページより:

 「キューブリックは映画も賞賛しました。 レオーネによれば、彼は音楽とイメージの同様の融合を試みるために、映画を撮影する前に『バリー…』のための音楽を選んだと言っています。 彼は映画を準備している間にレオーネに電話をかけました。彼は「キューブリックが私に言った。「私はエンニオ・モリコーネのアルバムをすべて持っている。 どうして私はあなたの映画音楽が好きなのか、私に説明してもらえないか?」私は「心配しないで!私は『2001年…』を見るまでリヒャルト・シュトラウスを使うなんて考えつかなかったから」と答えました」


『Adalen 31』(ボー・ヴィーデルベリ、1969年)※スウェーデンで起こった暴動を映画いた映画
『トラ・トラ・トラ!』(リチャード・フライシャー、1970年)

 ハーラン:「スタンリーがこう言ったのを憶えています。日本人が日本語を話す方法は賢い。それによって生じる差は大きい」

『移民者たち』(ヤン・トロエル、1970年)

 ハーラン:「 彼は『移民者たち』を崇拝していました。 彼はその映像に熱中していて、その後(※『移民者…』で働いていた)ミレーナ・カノネロと一緒に働き、『バリー…』の女性たちの衣装ためにウルラ=ブリット・ショダールンドを雇いました。私はスタンリーが祝辞と2、3の質問をするために、トロエルと話したがっていたのを憶えています。そして、これはしばしば彼に起こったことですが、やっと話したい人をつかまえて電話をかけたのに「あなたはトロエルですか?」「そうですがあなたは誰ですか?」「私はスタンリー・キューブリックです」「さあどうかね」そしてガチャっと電話が切れる音。仕方ないのでまた電話して「切らないでください!」などと言っていました」

『狙撃者』(マイク・ホッジス、1971年)

 マイク・カプランによると、キューブリックはこう言ったそうだ。「『狙撃者』を見ればどんな俳優でもホッジスと働きたくなる」

『ギャンブラー』(ロバート・アルトマン、1971年)

 キューブリックはオープニングクレジットで、葉巻に火をつけているジョン・マッケイブのショットをどうやって撮影したかを尋ねるために、アルトマンに電話しました。

ートニー・ホール著「フィルム&ヒストリー」vol.38.2、2008年秋

 そのシーンの動画はこちら


『ハロルドとモード 少年は虹を渡る』(ハル・アシュビー、1971年)

 ハーラン:「『ハロルドとモード 少年は虹を渡る』を気にっていましたが、彼がハルアシュビーと話したことがあるかどうかはわかりません」

『キャバレー』(ボブ・フォッシー、1972年)

 ハーラン:「『キャバレー』によってマリサ・ベレンソンは『バリー…』に起用されました」

『叫びとささやき』(イングマール・ベルイマン、1972年)

 ハーラン:「彼は『叫びとささやき』に非常に感銘を受け、そして衝撃を受けていました 。彼は私と一緒にかろうじてそれを見終えました」

『脱出』(ジョン・ブアマン、1972年)

『ゴッドファーザー』(フランシス・フォード・コッポラ、1972年)


 マイケル・ハー:「彼は再び『ゴッドファーザー』を見ました。そして、これが恐らくこれまでに製作された中で最も素晴らしい映画で、最高のキャストであることを10回目にしてしぶしぶ認めました」

 キューブリックとコッポラついての考察はこちら


『惑星ソラリス』(アンドレイ・タルコフスキー、1972年)
『男と女の詩』(クロード・ルルーシュ、1973年)
『エクソシスト』(ウィリアム・フリードキン、1973年)
『ミツバチのささやき』(ビクトル・エリセ、1973年)


『アメリカン・グラフィティ』(ジョージ・ルーカス、1973)

 ミシェル・シマンのキューブリック本に登場するキューブリックのインタビューのフランス語版と英語版の間にはいくつかの違いがあります。 (キューブリックはその後、英語版の最初の印刷のためにテキストを改訂しました)。フランス語版のキューブリックは、

 「もし私がジョージ・ルーカスと同じくらい多くのお金を儲けたとしても、映画会社の重鎮にはならないだろう。『アメリカン・グラフィティ』と『スター・ウォーズ』は非常にいい映画だったので、私は彼がなぜもう映画監督をしたくないのか、理解することができない」

ー 2013年、Georges Privet訳

『悪魔のいけにえ』(トビー・フーパー、1974年)

『ターミナル・マン』(マイク・ホッジズ、1974年)


 キューブリック:「それはすばらしい」

ーガーディアンピースのマイク・カプランより引用。 テレンス・マリックにも大いに愛された。

『キラーカーズ/パリを食べた車』(ピーター・ウィアー、1974年)

 ピーター・ウィアー:「スタンリーは、インターネット以前の時代に、一種のインターネットを持っていた男でした。彼は物事をよく知っていましたし、多くのコネクションを持っていました」

 「1976年頃、ワーナーは吸血鬼映画を監督しないかと私に話をもちかけました。スタンリーは私をこのプロジェクトに合っているとジョン・カレー(ワーナーのプロデューサー)に非常に熱心に勧めました。彼は私の最初の2つの映画(『キラーカーズ/パリを食べた車』と『ピクニック at ハンギング・ロック』)を見ました。昔、私は彼にファンレターを書いていましたが、私が映画監督であるとは書きませんでした。私はスタンリーが私を推薦し、非常に高く評価してくれたことに興奮しました。

「私はハリウッドで『The Last Wave』でお金を稼ぐことを試みていました。私が作ったこの映画はアメリカでは公開されていませんでした。そこにこの吸血鬼映画についての素晴らしいミーティングがありました。しかしそれはユーモラスな作品ではなく、この吸血鬼映画を1年間も作っていられないと思いました。だから私はオーストラリアに戻り、前と同じように映画制作を続けました」


ーサウンド・アンド・ピクチャーズ誌のAndrew Fordの記事より。(ワーナーブラザーズのこの「吸血鬼の映画」とは、テレビ映画の『呪われた町』(トビー・フーパー、1979年)であることが判明しました。)

『ピクニック at ハンギング・ロック』(ピーター・ウィアー 1975年)

『キラーカーズ/パリを食べた車』(1974年)のエントリを参照してください

 2011年、ウィアーはキューブリックについて語りました:「キューブリックが私に教えた素晴らしいことが1つありました。あなたが商業映画の大作を作ったとしても、あなたの芸術的価値を損なうことはありません」

ー2011年1月25日のIndiewire『Peter Weir Talks Trying To Crack ‘Pattern Recognition,’ Stanley Kubrick & ‘The Way Back』より。

『カラスの飼育』(カルロス・サウラ、1975年)

 「私はチューリッヒで『カラスの飼育』を見て、すぐに気に入りました。私はそれがとてもいい映画だとスタンリーに言った時の彼の答えを覚えています。「私はいい映画に飢えている」そう言ったのでプリントを借りる事にしました。私はマドリードのカルロス・サウラのオフィスでプリミティーボ・アルバロを呼んで、スタンリー・キューブリックが私に訊いて来たなどなど、どんなにこの映画が好きか話しました。そして35ミリのプリントを借りることができなかと彼に訊ねました 。答えは「もちろん、我々はとても嬉しい」だった。私は映画が英語の字幕付きの必要がある事を彼に伝えた。彼の答えは「もちろん」だった。」

 「二日後、エミリオ(※キューブリックの運転手)にヒースロー空港にいる事務官に車で向かわせ、その時点ではまだ一時的な輸入手続のようでした。私たちは次の土曜日に上映の準備をし、多くの人々を招待しました。スタンリーと私は映画を上映してみました「字幕がない!」最初の10分の間は、観ていて心を奪われるほどあまり重要でありませんー 階段の上の少女、男のベッドルームから出てくる女性、パパを呼ぶ女の子、彼は死んでいます。彼女は空のコップを見て、それを慎重にキッチンで洗ってコップを並べます。我々は興味をそそられます。母親がやって来ます。愛すべき小さな出会いの後、幸せの仮面が母親の顔から消えますーそして、女の子はペットに餌をやります。そんな始まりです」

 「 スタンリーは字幕が全くないのがわかり、不完全であるので、最初は止めるよう指示しました。誰かが「最後まで観ましょう」と言いました。 私は映画を知っていたので、リール交換の間に内容をみんなに説明しました。そして我々は映画を全部見て、それを気に入りました」


『狼たちの午後』(シドニー・ルメット、1975年) 
『カッコーの巣の上で』(ミロス・フォアマン、1975年)
『アニー・ホール』(ウディ・アレン、1977年)
『未知との遭遇』(スティーヴン・スピルバーグ、1977年)
『Abigail's Party』(マイク・リー、1977年)
※英BBCのTVシリーズ

『イレイザーヘッド』(デヴィッド・リンチ、1976年)

 デヴィッド・リンチが語る自身の物語を聴いてください。

 リンチはキューブリック作品では『ロリータ』が好きなのだそうだ。


『ガールフレンド』(クローディア・ウェイル、1978年)

 「私は最もおもしろいハリウッド映画、いやアメリカ映画を思う時、今まで観た中ではクローディア・ウェイルの『ガールフレンド』を思い出す。私は、その映画は非常に希有なアメリカ映画で、深刻で、知的で、敏感な脚本と映画製作の方法は、ヨーロッパの最高の監督との比較を見いだせる思った。だが(※興行的に)成功しなかった。私は理由を知らないが成功すべきだった。確かにそれは素晴らしい映画だった。物語の内部、テーマおよび他のもの全ての真実への妥協がなかったように思えた。重大な問題は、映画製作は現在とても多く費用がかかるということだ。 アメリカで良い映画を製作すること ー良い技術者と良い俳優と、ある時間そこで過ごさなければならないことを意味する(それはそんなに高くない)ー は、ほとんど不可能だ。この映画でクローディア・ウェイルがした事、それはアマチュアのやり方だったと思う。ウェイルは約1年の間に一週間に2〜3日間撮影した。もちろんそれにはとても有利な点があった。(※主演の)彼女がしたことを見て、それについて考えるための必要な時間がウェイルにはあった。私はウェイルはとても上手く映画を作ると思った」

ー1980年、Vicente Molina Foixによるキューブリックのインタビュー

『天国から落ちた男』(カール・ライナー、1979年)

 ハーラン:「彼は『天国から落ちた男』がそんなに良い映画だとは思っていませんでしたが、ほんの短い間スティーブ・マーティンを俳優(※この時期は俳優でなくコメディアン)だと思っていたというのは本当です。ごく初期です!」

 『天国から落ちた男』の高評価はスティーブ・マーチンを気に入っての事だろう。キューブリックは『アイズ…』のキャスティングに当初スティーブ・マーチン夫妻を考えていた。


『マンハッタン』(ウディ・アレン、1979年)

 ハーラン:「「黒ぶちメガネの向こうには、山猫の性的な力が渦巻いている」 我々は声を上げて笑いました」

『オール・ザット・ジャズ』(ボブ・フォッシー、1979年)

『エイリアン』(リドリー・スコット、1979年)

 スコットは2007年のドキュメンタリー『デンジャラス・デイズ/メイキング・オブ・ブレードランナー』で「キューブリックがエイリアンを賞賛した」と言っています。 キューブリックはスコットのコマーシャルの仕事も賞賛した。

『地獄の黙示録』(フランシス・フォード・コッポラ、1979年)

 キューブリック:「私は、コッポラは似ている物語がないという事実に悩まされていたと思う。 だから、彼はそれぞれのシーンを以前のものよりも壮大にする必要があったのだと」

 「結末はとても非現実的で、純粋に壮観なので、それはキングコングのバージョンがはるかに良く改良されたようなものだ(笑)。 そしてマーロン・ブランドは全体に知的な重みを与えると思われる...」

 「私はそれはうまくいかなかったと思う。 だがそれは素晴らしかった。 それにいくつかの非常に力強いシーンがあった」


1987年10月、プルミエール誌(フランス)のMichele Halberstadtによる記事「キューブリックがついに! 」より。Georges Privetが2013年に翻訳

『狼男アメリカン』(ジョン・ランディス、1981年)
『血の婚礼』(カルロス・サウラ、1981年) 

『Modern Romance』(アルバート・ブルックス、1981年)
※ロマンティック・コメディ映画

 1999年のエスクァイア誌の記事で、いかにキューブリックがブルックスの人生を救ったかについて話しています。

 上記のリンク先の記事によると、キューブリックは「嫉妬についての映画を構想している」と電話したそうなのでどうやらシュニツラーの『夢小説』の映画化(『アイズ…』)の構想に役立つと考えていたようだ。また、映画ビジネスの裏側をブルックスにレクチャーするのはキューブリックらしい。


『E.T.』(スティーヴン・スピルバーグ、1982年)

 『未知との遭遇』や『E.T.』は載っているのに『シンドラーのリスト』や『プライベート・ライアン』が載っていない所を見ると、キューブリックはスピルバーグ作品のファンタジー性を高く評価していたようだ。『シンドラー…』については「あれはホロコーストを描いた物ではなく、殺されなかった600人のユダヤ人の話だ」と語ったとラファエルの『アイズ ワイド オープン』に記述がある。また、『A.I.』では結構本気で自身はプロデュースに留まり、監督はスピルバーグに任せようとしていた。


『ダントン』(アンジェイ・ワイダ、1984年)

 フリューイン:「スタンリーは、『ダントン』がこれまでに作られた最高の歴史映画のほとんど超えていると考えていました。 彼はそれのすべてを気に入っていて、ジェラール・ドパルディューとヴォイチェフ・プショニャック(「いつかこのポーランドの俳優を使ってみたい」)を見ていて飽きないと言いました」

(『七人の侍』(1954年)のエントリも参照)

『Heimat』(エドガー・ライツ、1984年)※ドイツの全編52時間という三部作

 ハーラン:「スタンリーは『Heimat』に夢中でした。素朴な村人たちの目を通して「物語を語るのは不可能だ」というアイデアは、とても新鮮で優れていると考えていました。田舎の宿の最上階で特殊効果なしでも納得がいくように『天国』を示し、死んだ人々に『我々』を観察させる。彼は深く突き動かされました。いくつかの他の場面もそうでした。彼は『50年間の嘘(アーリアン・ペーパーズ)』の準備のためにアートディレクターと衣装デザイナーを雇い、連れて行きました。私たちが何度も一緒に見た(BBC2放送番組をビデオ録画した)若干の特定の場面があります。私はとてもそれをよく覚えています」

 第一部は1981〜1984年、第二部は1988〜1992年、第三部は2002〜2004年なので、ここで言及されているのはおそらく第一部の事だと思われる。ここに三部作全部のダイジェストがあるが、それぞれかなり印象が違う。


『プラトーン』(オリバー・ストーン、1986年)

 キューブリック:「私は『プラトーン』が好きだった。 とても良いと思った。 私たちは『フルメタル…』のM16ライフルの音をあまり気に入っていなかったが、『プラトーン』でM16の音を聞いたとき、同じように聞こえると思った」

 「『プラトーン』の強みは、私が「軍事的手順」と呼んでいるものの初期段階を、本当に信じて進む所だ。 私は演技がよく、非常にドラマチックに書かれたと思った。それが成功の鍵だ。良い映画だが、ただそれはベトナム戦争についてだったので、成功したとは言えないだろう。 ナレーションが楽観主義だったので、映画の終わりだけが私にはやや甘いように思えた」


ー1987年6月21日、シカゴ・トリビューン誌のジーン・シスケルによるインタビュー

トロントのグローブ・アンド・メイル誌のジェイ・スコットとのインタビューで、キューブリックは次のように述べています。

 「私は『地獄の黙示録』と『ディア・ハンター』の両方が好きだったが、『プラトーン』がもっと好きだった」

 『フルメタル…』の製作時には影も形もなかった『プラトーン』が先に公開され、アカデミー賞を受賞した後に『フルメタル…』が公開になった事実を踏まえてこれらの発言を見極めたい。当時のマスコミは『プラトーン』と『フルメタル…』を比較し、その多くは『プラトーン』を評価し、『フルメタル…』を批判していた。個人的には『プラトーン』に対するキューブリックのコメントにはある種の「遠慮」があるように感じる。


『サクリファイス』(アンドレイ・タルコフスキー、1986年)

 ハーラン:「非常に重要です」

『バベットの晩餐会』(ガブリエル・アクセル、1987年)
『スリル・オブ・ゲーム』(デヴィッド・マメット、1987年)
『ペレ』(ビレ・アウグスト、1987年) 
『ラジオ・デイズ』(ウディ・アレン、1987年)


 ハーラン:「素晴らしい映画だったのでスタンリーは気に入っていましたが、それはあまりにもスタンリーの幼少期そのままだったからです」

『ザ・バニシング-消失-』(ジョルジュ・シュルイツァー、1988年)

 キューブリックはこれを3回観て「私がこれまでに見た中で最もぞっとする映画だ」とシュルイツァーに話しました。シュルイツァーは『シャイニング』よりももっと?と尋ねました。キューブリックは「そう思う」と答えました。

 ハーラン:「『ザ・バニシング』はリアルで『シャイニング』は幽霊映画 。大きな違いです」

 キューブリックはこの頃、猟奇殺人をテーマにした『パフューム ある人殺しの物語』の映画化を考えていたので、それもあってコンタクトをとったのかもしれない。もしそうだとすると、キューブリックが連絡をとりたがるのは自作にとって何がしかメリットがある、と考えた時ばかりのようだ。


『ヘンリー五世』(ケネス・ブラナー、1989年)

 ハーラン:「1963年のリストに載せた古くて時代遅れのオリビエ版より、スタンリーはブラナーのバージョンの方を気に入ってました。彼はこっちの方が遥かに優れていると思っていました」

『ロジャー&ミー』(マイケル・ムーア、1989年)

 ハーラン:「彼は本質的な問題や米国の重要人物に対するマイケル・ムーアの血気盛んさを大いに賞賛していました」

『デカローグ』(クシシュトフ・キェシロフスキ、1990年)※ポーランドのTVドラマ

 ハーラン:「彼が書いた唯一の本の前文がキェシロフスキの『デカローグ』の台本だったと私は思っています 。そして彼はすばらしい傑作だと喜んでいました」

 『デカローグ』はラファエルの『…オープン』にも言及があり、参考になるからとキューブリックはラファエルにビデオを送りつけている。(ラファエルは良さが分からない、と洩らしているが)また、上記の前文はここで読める。ラファエルによるとキューブリックは「『デカローグはここ10年で観たものでは最高のもので、私自身がこれを作れたらよかったのに」と語ったそうだ。こうした事実から、キューヴリックはこの『デカローグ』を高く評価していた事が伺える。


『羊たちの沈黙』(ジョナサン・デミ、1990年)

『夫たち、妻たち』(ウディ・アレン、1992年)


 ラファエルの『…オープン』によるとキューブリックは、「かなり良い出来だと思う」としつつも、「映画に出てくるアパートは出版社勤めにしては広すぎる。(『アイズ…』では)ああいうミスを犯してはならない」と言及している。


『ハード・プレイ』(ロン・シェルトン、1992年)
『The Red Squirrel』(フリオ・メデム、1993年)
※スペイン映画『La ardilla roja』

『パルプ・フィクション』(クエンティン・タランティーノ、1994年)

 フレデリック・ラファエルはこの動画で、いかにしてキューブリックが『パルプ・フィクション』を彼に推薦したかを詳しく説明しています。

 「「とても良いだろ?」と彼はそれを大変賞賛しました」

 フリューイン:「彼はそれが流れるようだと思った」

『ブギーナイツ』(ポール・トーマス・アンダーソン、1998年)

 アンダーソンはイギリスで『アイズ…』を撮影中のキューブリックを訪れました。 2000年3月、アンダーソン自身のファンサイト「Cigarettes&Red Vines」のインタビューを受け、

 「キューブリックは『ブギーナイツ』を見て、とても気に入っていました。 彼は私が作家監督であると言い、多くの映画監督が脚本を書き、監督するべきだと言いましました。 彼はウディ・アレンとデヴィッド・マメットが好きで、『ハウス・オブ・ゲームス』と『夫たち、妻たち』が『アイズ…』にどれほど似ているか興味深いと述べました」

 ハーラン:「1993年から1999年は『アーリアン・ペーパーズ』で1年以上のプリプロダクション、そして『A. I.』のため再び同じことをしていた忙しい期間でしたが、両方とも延期されてしまいました。それはとても辛い時期でした。映画を見ることは主に研究目的だったので、 その合間にも閉じ籠らず『羊たちの沈黙』やウディ・アレンの全部の作品など少しは映画を見ていました 。しかし前期の間はそうすることができていましたが、その後についてはあなたに特定のタイトルを教えることは不可能です」

 『アイズ…』の製作に入っていた時期だからそれに忙殺されていたのかもしれない。





【除外リスト】

 キューブリックが特定の映画を好きであることについて、長年に渡って多くの明確ではない主張がなされてきました。包括的な他の証拠が存在しないか、矛盾する報告がある場合、私はこれらの作品をメインのマスターリストから除外しました。それがこの「除外リスト」です。

『ルピノ・レーンのコメディ 1920年代の2リール』

 キューブリックはルピノ・レーン映画の非常に稀少なプリントをいくつか所有していて、それらを見つけるために尽力しました。 ジェンキンソンは、ケン・ラッセルもルピノ・レーンのファンだと主張しています。(フィリップ・ジェンキンソン、1981年代のITVの番組『クリッパーボード』より)

 フリューイン:「私はスタンリーのために働いていましたが、ルピノ・レーンのプリントは持っていませんでした。」

『来るべき世界』(ウィリアム・キャメロン・メンジーズ、1936年)

 フリューイン: 「クラークと私の最善の努力にもかかわらず、スタンリーはこの映画に何らかのメリットを見つけることができませんでした。彼はこの物語は科学者だけが世界を支配すると信じられているものであったと、すなわち本質的にはH・G・ウェルズの宣伝で、その信念の「説教」に従っているものだと考えていました」

 「『2001年…』の特撮監督の2人トム・ハワードとウォーリー・ヴィーヴァースの2人は、この『来るべき世界』のネッド・マンのもとでキャリアをスタートさせました。また音響監督のA・W・ワトキンスは、『2001年…』を制作していたときのMGMスタジオ常駐の音響監督でした」


『ユニバース』(ローマン・クロイタ/コリン・ロー、1960年)

 カナダ国立映画監督委員会は、星の撮影にパンフォーカスを使用している点、ナレーションにダグラス・レインを起用している点から『2001年…』の特殊効果に影響を与えたと報告しています。

 フリューイン: 「スタンリーはこの映画を重視しませんでしたが特撮に可能性を感じ、担当したワリー・ジェントルマンと話しをした後『2001年…』のために彼を雇いました。しかしワリーは、スタンリーが干渉してくるので、あまり長く参加しませんでした」

『Ikarie XB-1』(インジフ・ポラーク、1963年)

 フリューイン: 「スタンリーはロンドンに移る前、ニューヨークで『2001年…』の調査や脚本を書いていた時に『Ikarie XB-1』を見ていました(彼は膨大な関心事があり、それをいくらでも手に入れることができた)。 確かにそれはスタンリーの発想ではありませんでしたが、それはテーマやプレゼンテーションの点で、平均的なSF映画から半歩くらいの進歩がありました。その後、彼が認めたように、当時でもそれはそれほど難しいことではありませんでした 」

 「私は、スタンリーに影響を与えた未来映画・SF映画はないと思う。そして、映画においてこれらの分野が十分提供されいていなかったという事実が、彼が『2001年…』を作った要因でした」

 「スタンリーは無類の映画好き(「良い映画からと同じように、悪い映画からも何かを学ぶことができる」)だったし、それらの映画のどれが彼の「好み」の映画のリストに載っているかどうかはわかりません。彼はユーモアと忍耐強さを持っていたので、時々冗談を言っている可能性があります。彼がかなり良いと思った傑出した映画の中には、彼のお気に入りの一つのショット、または一つのシークエンスがあったかもしれませんが、それまでお気に入りリストに含めてしまうと、あまりにも遠大な計画になってしまいます」


『薔薇の葬列』(松本俊夫、1969年)

 多くの人々が松本の映画と『時計…』の間に(偶然の?)類似点を指摘しているが、確認できていない。フリューインとハーランのどちらも記憶にない。

 これについての記事はこちら


『基礎訓練』(フレデリック・ワイズマン、1971年)

 ミシェル・シマンにワイズマンは「『フルメタル…』を準備している間、キューブリックは『基礎訓練』を繰り返し観ていた」と語った。ワイズマン自身はシカゴ・トリビューン誌とのインタビューでこの主張を繰り返した。しかし、キューブリック近い人物で、彼がこの映画を見るのを覚えていない。

 フリューイン:「スタンリーがこれを見たことは分かりません。私はその時点ですべての映画を手に入れていました。とにかく私たちが助言を求めるなら、元アメリカ海兵隊のとグスタフ・ハスフォードとリー・アーメイ、そしてマイケル・ハーがいました」

『フリービーとビーン/大乱戦』(リチャード・ラッシュ、1974年)

 リチャード・ラッシュの『スタントマン』に関するローリングストーン記事には、スタンリーは『フリービーとビーン/大乱戦』こそ1974年で一番優秀な映画であると考えていたと主張しています。

『ファイナル・オプション/地獄の指令』(イアン・シャープ、1982年)

 この反CND(核軍縮キャンペーン)で右翼アクション映画のプロデューサーであるユアン・ロイドは、新しいBDの解説トラックでキューブリックが映画を好んだと言及しています。この主張は係争中です。

 フリューイン: 「ユアン・ロイドは『フルメタル…』のガニー軍曹が言っているように「ケツを吹っ飛ばすぞ!」です。その映画はスタンリー信じていたすべてのものとは全てが対照的です」

『バルセロナ』(ウィット・スティルマン、1994年)

 スティルマンは、クライテリオン版『ラスト・デイズ・オブ・ディスコ』の解説で、『バルセロナ』に対するキューブリックの賞賛を語っています。

▼この記事の執筆に当たり、以下のサイトを参考にいたしました。
元記事:BFI Film Forever/Stanley Kubrick, cinephile(2016年7月25日改訂 )
※この記事は今後加筆・修正の可能性があります。
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