キューブリック作品を考察・検証する

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CARMET1
ジャックがグレイディの霊と会話するシーン。背後にネイティブ・アメリカンのパッケージのカルメット缶が見える。

CARMET2
ダニーがハロランとテレパシー(シャイニング能力)で会話するシーン。背後にやはりカルメット缶が二人の会話を盗み聞きするように存在している。

 『シャイニング』でホテルに巣喰う悪霊が物理的な作用を及ぼすシーンとして議論の対象になっている「ジャックが閉じ込められた食糧倉庫の鍵を何者かが開ける」シーン。「物理的な作用」という意味では「誰もいないのに転がるボール」とか「少しだけ開いている237号室の扉」「ダニーを傷つけた誰か」などあるのですが、他の現象と違い、このシーンはその後の展開に決定的な意味合い(ジャックが妻子を襲うことができるようになる)があるので、「リアリティに欠ける」という批判があるようです。

 実はこのシーンは原作準拠なのですが、原作小説は最初からリアリティよりもファンタジー要素が多いのであまり違和感は感じません。しかし映画版では、観客はキューブリックの徹底した「リアル描写」に慣れてしまっているので、どうしても違和感があると感じてしまうようです。キューブリックも当然そのことに気づいていたはずで、どうにかしてこのシーンに「リアリティある説得力」を持たせようとある工夫をしています。

 映画でははっきりとした説明はありませんが、オーバールック・ホテルに巣喰う悪霊の正体は「ネイティブ・アメリカンの怨霊」です。彼らは自分たちが殺した白人達の幽霊を操ることにより、ターゲットとなる人物(この場合ジャック・トランス)を精神的に追い詰め、自分たちの思惑通りに事を運ぼうとしています。しかし、彼らは絶対に正体を表しません(映像化してしまうと陳腐になるというキューブリックの判断があったのでは?)。ですがそれでは観客にその存在が伝わりません。そこでキューブリックが考えたのは「ある物体(有り体に言ってしまえばセットや小道具)に悪霊の存在を示唆させる」という方法です。それがホテルの内装であり、テニスボールであり、カルメット缶なのです。

 上記のシーン、ジャックがグレイディの霊と会話しています。そのシーンの背後にはネイティブ・アメリカンの怨霊を示唆するカルメット缶が置いてあります。つまりこのシーンは、グレイディなどの幽霊を操っている黒幕はネイティブ・アメリカンの怨霊であり、その怨霊の力によって鍵が開けられたということを示唆しているのです。実はカルメット缶は、物語の前半に食糧倉庫でダニーとハロランがテレパシー(シャイニング能力)で会話するシーンにも登場しています。このシーンは、怨霊にとって特殊能力(シャイニング)を持つ人間は自分たちの存在たちを脅かすので排除しなければならず、その排除対象はハロランとダニーであると気づいたことを示唆しています。だからこそ手下の幽霊たちを使ってジャックに精神攻撃をしかけ、二人を殺すように仕向けました。ですが、怨霊の目的はハロランに対しては果たせたものの、ダニーには逃げられてしまいました。その代わり、ジャックを新たな手下に迎え入れ「永遠のカルマ」の中に閉じ込めた(ジャックも喜んでそれに加わった)のです。

結論:以上のようにジャックが閉じ込められた食糧倉庫の鍵を開けたのは、ホテルに巣喰っているネイティブ・アメリカンの怨霊。その存在を示唆しているのがネイティブ・アメリカンのパッケージで有名なカルメット缶である。

 原作小説にはないこの「ネイティブ・アメリカンの怨霊」のアイデア、キューブリックと共同で脚本を担当したダイアン・ジョンソンは「当初『シャイニング』は人種差別(ネイティブ・アメリカンを含む)も攻撃の的にしていた」と証言しています。しかし「最終的にテーマから外されてしまった」とも語っています。キューブリックは脚本が完成してもそれにとらわれず、撮影中にもどんどんアイデアを加えていくことを考慮すると、当初の脚本ではもっとネイティブ・アメリカンの存在を示唆する台詞が多かったのではないか、と想像しています。しかし、台詞で説明することを嫌がるキューブリックは、その存在をセットのデザインや小道具で表現することにしたのでしょう。公開された『シャイニング』を観たジョンソンが大幅な台詞のカットに気づき、そのことが「最終的にテーマから外されてしまった」の発言に繋がったのではないでしょうか。

 なお、この考察は以前この記事で考察した通り「オーバールックホテルに巣食っている悪霊の正体は、かつてここを聖地としたネイティブ・アメリカンの怨霊」という論に基づいていますので、その点はご了承ください。


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ACO_RF
※一部画像加工済

 『時計じかけのオレンジ』のラストシーン、アレックスが「完ぺきに治ったね」とつぶやく際に見る夢、いわゆる「レイプ・ファンタジー」ですが、この名称はコールシート(撮影予定表)で便宜上そう名付けられていたものです。実はこのシーン、当初は「全裸の女性をアレックスが追いかける」カットが存在し、その後削除された(おそらく検閲の問題)のですが、その件につきましてはここで記事にしました。

 その「レイプ・ファンタジー」、原作小説では「カミソリで地球を切り裂く」という暴力夢でしたが、キューブリックは性夢に変更してしまいました。どんな夢であれ、登場人物が見る夢を映像化する際には「現実離れ」した映像でないと、そのシークエンスが「夢」であることを表現できません。逆に言えば「現実離れした(性夢の)映像ならなんでもいい」ということになり、結局はキューブリックのセンス次第、となってしまいます。そんなキューブリックのセンス(感覚)で作られたこの「レイプ・ファンタジー」を、キューブリックの頭の中を覗くなど到底不可能だということを承知の上で考察してみたいと思います。

(1)19世紀風の衣装に身を包んだ紳士淑女たち

 どうして「19世紀風」と言えるのかというと、男性全員がシルクハットを被っているからです。シルクハットの流行は19世紀前半が最盛期でした。そして19世紀前半といえばベートーベンが活躍した時代です。つまりこのシーンは自分(アレックス)がベートーベンと同時代の19世紀に存在している夢を見ている設定なのです。

(2)スタンディング・オベーション

 その19世紀の紳士淑女たちは、全裸で性行為をするアレックスをスタンディング・オベーションで讃えています。これで思い出されるのは「第九」の最終楽章が終わった瞬間、観客がスタンディング・オベーションで指揮者や楽団を讃えるということが定番化しているという事実です。つまり、聴衆(一般民衆)もアレックスの暴力性や性衝動の復活を第九のスタンディング・オベーションという形で「讃えて」いる(と少なくともアレックスは思っている)のです。

結論:(1)(2)の観点から、アレックスが病院のベッドの上で、ベートーベンの第九を浴びながら見ている夢は、性行為(レイプ)をしているという喜びを、自身はおろか聴衆(一般民衆)でさえ讃えているということであり、それは自身のルドビコ療法からの完全開放のみならず、社会でさえそれを容認した(内務大臣がそれを許可した)ことを表していると言える。結果、社会状況は物語開始時(少なくともアレックスの暴力は容認されていない)からより醜悪な方向へと悪化しており、「物事をより良い方向に無理やり矯正することは、結果としてより悪い方向へ向かわせてしまう危険性を孕んでいる」ことへの警鐘を鳴らしたものだと理解できる。


 この最後の「レイプ・ファンタジー」のシークエンスは、単にアレックスの性的・暴力的性向の復活としてだけ捉えられていることが多い様ですが、もう少し細かい点まで考察してみました。キューブリック本人はこれについて明確な説明はしていませんので、解釈は各々の判断になりますが、当ブログは現時点においてこれを「レイプ・ファンタジー」の解説としたいと思います。

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2001_pod1初版DVDのボーマン宇宙遊泳シーン。足元に2本のワイヤーの影が見える。

2001_pod2リマスターDVDの同じくボーマン宇宙遊泳シーン。ワイヤーの影は消されている。

2001_EVA宇宙遊泳シーンの撮影風景。

 『2001年宇宙の旅』で、ボーマンがスペースポッドからAE35ユニットを手に宇宙空間へと乗り出すシーンは、ボーマン(演じたのはキア・デュリアではなくおそらくスタントマン)とスペースポッドをスタジオの天井付近に吊るし、その真下にカメラ置いてレンズを垂直に真上に向けて撮影したものです。この撮影は、スタントマンがたった2本のワイヤーでセーフティーネットもなしに空中に吊るされるという非常に危険なものでした。

 その2本のワイヤーは左上から当たる強烈なライトによってスペースポッドに影として映ってしまっているのですが、『2001年…』の視聴メディアによって、その「影」があったりなかったりしているようです。

 以下はDVD化以降の「影のあり・なし」を調べたものです。

初版DVD……………………影あり
リマスターDVD……………影なし
BD……………………………影なし
DCP…………………………不明
HDリマスターBD…………影あり※
4KUHD……………………影あり※
iTunes 4K・HDR…影あり※
70ミリフィルム上映………影あり
IMAX上映…………………影なし
NHK8K放送………………影あり

 以上の結果から、オリジナルネガには影があるものの、そのままにするか修正するかは、その時修正する当事者の判断にまかされているように思います。もしくは気づいたら消去し、気づかなければそのままという可能性も。70mmは「アンレストア(修復しない)版」という明快な趣旨があったので理解できますが、傷などを修復をしているその他の媒体なら消すのが自然だと思います。もしキューブリックが存命なら消させた可能性が高いですが、どうもワーナー側できっちりコントロールしている訳ではなさそうです。どうしてこんな曖昧な判断になっているのかよくわかりませんが、影を消すなら消す、消さないなら消さないで統一して欲しいものです。

 この問題、海外でも話題になっているかと思い、検索してみましたがヒットしませんでした。こんな細かなことを気にしているのは少数派だとは思いますが、消した・消していないがはっきり分かるという意味では貴重なシーンです。それにしても影が目立ってしまう8Kオンエアで消していなかったのには驚きました。

 なお、「未確認」となっているのは現段階で未入手だったり、未視聴なため確認できなかったためです。私の手元にHDリマスター&4KUHDが届くのは来年になりそうです(入手できても4KUHDの視聴環境はないのですが。泣)ですので、もしここをご覧になっている方で確認できるようでしたら、Twiitter掲示板メールでお知らせくださると幸いです。

2018年12月23日追記:HDリマスターBD、4KUHD、iTunes 4K・HDRには影があるとの報告がありました(※)ご協力くださいました皆さま、ありがとうございました。ということは、これらは全てNHKの8Kスキャンデータのダウンコンバートということでしょうか? となるとIMAXで影がなかった理由がわからないのですが、IMAX版は独自に修正を施したのでしょうか? それともBD、もしくはDCPのデータの流用? 疑問が残ります。

2018年12月24日追記:このワイヤーの影の件は引き続き考察しています。詳細はこちら

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aco_book
邦訳された小説『時計じかけのオレンジ』。左から再販(1977年)、アントニイ・バージェス選集〈2〉(1980年)、完全版(2008年)。このほかに1971年発刊の初版がある。

 小説『時計じかけのオレンジ』の最終章(第21章・3部7章)については、いったん第20章(3部6章)で物語を終わらせていたにもかかわらず、原作者アンソニー・バージェスが出版社の意向に沿って「その場しのぎ」で「付け加えた」というのが事の真相ですが、本人がこの事実を隠し、事あるたびにキューブリックの映画版を批判したために、「最終章がある版がバージェスの真意である」という間違った認識が定着しつつあります。この記事ではそれを訂正するために、当事者や関係者の証言をまとめてみたいと思います。

 「それ(第21章)は納得のいかないもので、文体や本の意図とも矛盾している。出版社がバージェスを説き伏せて、バージェスの正しい判断に反して付け足しの章を加えさせたと知っても驚かなかった」

(引用元:『ミシェル・シマン キューブリック』)

 「失われた最終章?あれは偽物だ。アンソニー・バージェスは文字通り書けと強要されたんだからね。発行者から「こいつを好ましい人物にしないとかなり厳しいことになる」と言われて2時間で言われた通りに書き上げたと話していたよ。だからあれはオリジナルでもなんでもないのさ」

(引用元:『CUT 2011年7月号』マルコム・マクダウェル インタビュー)


 このように、キューブリックもマルコムも明確に「最終章は出版時に出版社の意向で付け加えさせられたもの」と証言しています。次に、小説の訳者である乾 信一郎氏による最終章に関するあとがきを検証したいと思います。

 この小説が一部二部三部にわけられていることはごらんのとおりであるが、その第一部と第二部はそれぞれ七つの章から成り立っている。問題なのは第三部である。1962年の英国版初版にはこの第三部も七つの章になっているのだが、その後に出た版になるといずれも最終章の第七章が削除されている。最も新しい版と思われるペンギン・ブックスの1977年版にもこの最終第七章は無い。

〈中略〉

 ところがその後早川書房編集部で1974年のPlayBoy誌上にバージェスのインタビュー記事が出ているのを発見。訳者もそれを見せてもらったが、その中にはもちろんバージェスの著作中でのベストセラー『時計じかけのオレンジ』のことに触れた部分があった。それによるとバージェスはキューブリック監督によって映画化された『時計じかけのオレンジ』には数々の不満があるというのだ。特に結末の部分がいけないという。キューブリック監督は原作の最後の章を読んでいないんじゃないか、とあった。

〈中略〉

 それでは、なぜバージェスはその考えを盛った大切な最後の章を削除した本の発行を許しているのか、そこが疑問になってくる。以上のような考えであれば第三部の第七章は絶対になくてはならないものということになるのだが、実際はその反対となっていて、いっていることと現実が矛盾する。

(引用元:時計じかけのオレンジ (1980年) (アントニイ・バージェス選集〈2〉)


 つまり、訳者自身も「バージェスの矛盾した言動は不可解」と評しています。ところがの2008年に刊行された『新装版』の柳下毅一郎氏の解説は、前述したキューブリックの証言を「事実はそうではない」と否定し、

 1962年に英国ハイネマン社より出版された『時計じかけのオレンジ』初版には第7章(第21章・3部7章)も含まれた完全版だった。だが同年に米国で出版された版からは最終章が省かれていた。バージェスが86年の米国版に寄せた序文によれば、米国の出版社がカットを求めたのだという。その後の版もこれを踏襲し、86年に「『時計じかけのオレンジ』はこれまでアメリカで完全なかたちで出版されたことがなかった」とする序文(A Clockwork Orange Resucked)つきで再版されるとき、はじめて第7章が復活した。バージェスがそれまで第7章の復活を求めなかった理由はわからない。おそらく本人にもどうすべきか迷いがあったのではないだろうか。

と、バージェスの主張を言葉通りに信じ込んでしまっています。ですが「無理やり付け加えさせられた」という証言はキューブリックだけでなくマルコムも行なっているため、これは「事実」として考えざるを得ません。その上で解説で柳下氏が指摘している「迷いがあった」は、以下の結論で完全に説明できてしまうのです。

結論:バージェスは当初最終章のない『時計…』が完結した物語と考えていたが、英国の出版社の意向に添って不本意ながら最終章を付け足した。その後キューブリックが最終章のない(バージェス曰く「カットを求められた」としているが、バージェス自らカットを求めた可能性もある)米国版をベースに映画化したところ、各方面から暴力賛美だと批判が集中、原作者のバージェスも批判はおろか脅迫(殺人予告を含む)までされる事態に発展した。その批判や脅迫をかわすためにバージェスは、マスコミ向けには最終章の意味とその重要性を事あるたびに主張し、それを映像化しなかったキューブリックを批判、自分は暴力主義者でない事を世間にアピールした。しかし本心では最終章がない版が決定版だと考えていたため、米国版に最終章を加えるか否か1986年まで悩み続け、最終的には加えることにした。

 上記の結論(私論)や、最終章の有無に関する「好み」についてはそれぞれの判断に委ねるとして、ひとつ確実な事実は「最終章はアンソニー・バージェスが出版社の意向に従って付け加えたものである」という点です。この事実を認識した上で最終章を書いたバージェスの「真意」ついて論ずべきだ、と管理人は強く思います。

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 『シャイニング』は、1921年のアメリカ独立記念日のパーティーの写真に写り込むジャック・トランスの写真のズーム・アップで終わります。BGMはアル・ボウリー・アンド・ヒズ・バンドの『真夜中、星々と君と』。まずはこういった要素を書き出して、さらにそれをどう解釈するか私論を立ててみました。なお、これは以前この記事で考察した「オーバールックホテルに巣食っている悪霊の正体は、かつてここを聖地としたネイティブ・アメリカンの怨霊」という論に基づいていますので、その点はご了承ください。

(1)写真の日付についての考察[その1]

 1921年のアメリカというのは禁酒法の時代で、一般的には飲酒は禁じられていたという印象がありますが、実はこの禁酒法はとんでもないザル法で、禁酒といいながら一般市民も法律の目をかいくぐってお酒を飲んでいました。それは結局マフィアの資金源となってマフィアの懐を潤し、アルコールに課税できなくなった政府の財政を逼迫させ、マフィアの跋扈によって治安が悪化するという悪い事づくしの悪法でした。

 そんな時代に『オーバールック・ホテル』で開かれたこのパーティー。俗世間から隔絶されたその環境から推察するに、そこに集う人々は上流階級、各界の有名人、政治家、そしてマフィアが秘密に開いた「飲酒ができる」パーティーであったと想像できます。それは「お酒が飲めるぞ!」とジャック・トランスが満面の笑みで写っている事からも推察できます。

(2)写真の日付についての考察[その2]

 7月4日はアメリカ人にとって一番重要な日です。すなわち独立記念日です。しかしそれは大西洋を渡ってきた白人たちにとってであり、元からアメリカ大陸に住んでいたネイティブ・アメリカンにとっては「侵略確定記念日」、すなわち屈服・屈辱の日でしかありません。

(3)BGMについて

 アル・ボウリー・アンド・ヒズ・バンドの『真夜中、星々と君と』という曲ですが、この曲のリリースは1934年2月16日ですので写真の日付とは時系列が合致しません。この事実からこのBGMは物語の舞台である1980年のオーバールック・ホテルで演奏されていると考えなければなりません。すなわち、ウェンディたちが去ったホテルのゴールドルームで、幽霊たちが演奏しているのです。音楽にエコーをかけているのはそのためだと思われます。音楽の後に続くパーティーのノイズは、幽霊たちのパーティーが今も(1980年の)ホテルで続いていることを示唆しています。

 以上の描写から、ジャックが写り込んだ1921年の写真は、トランス一家が気付かなかっただけで、ジャックがオーバールックホテルの管理人になる前からこのホテルに存在していたことになります。それはつまり「ジャック・トランス」という人物が二人存在していることを意味するものです。

 さて、ここで思い出して欲しいのは「グレイディ」の存在です。アルマンが面接時にジャックに説明したのは「チャールズ・グレイディ」ですが、幽霊として登場したのは「デルバート・グレイディ」でした。ここで「二人のグレイディ」の存在が明らかになります。この二人は顔がそっくりな別人で、ホテルが1970年に採用したのは現世のグレイディ、ジャックの目の前に現れたのは前世のグレイディなのです。それは前世のグレイディが管理人ではなくウェイターで、娘の殺害を覚えていないと答えることからもわかります。

 この考えをジャックに当てはめると、現世の「ジャック・トランス」は迷路で凍りついた死体です。前世の「〇〇〇(名前不明)・トランス」は1921年のパーティーでタキシードをめかしこんで写真に収まっているホテルの管理人です。つまりトランスも二人存在していることになるのです。だからこそジャックが「初めて面接で来たとき、昔来たことがあるような気がした」「どこに何があるのかも覚えてる気がした」という台詞が存在しているのです(コンチネンタル版ではカット)。更に言えばロイドもグレイディもジャックを「ジャック」とは呼ばず「トランス様」と呼びます。つまり彼らにとってジャックは「ジャック・トランス」ではなく「〇〇〇・トランス」(ジャック・トランスの前世)であることを意味しています。

結論:1921年のパーティーに写っている〇〇〇・トランスと、迷路で凍死したジャック・トランスは別人で、前者はジャックの前世の姿、後者はジャックの後世(前世の生まれ変わり)の姿である。ホテルに巣食うネイティブ・アメリカンの悪霊の目的は、ホテルの立つ聖地を汚した白人を、その当人だけでなく後世の人間まで呼び寄せて殺害すること。アルマンはそれを知りつつも霊が暴れ出さないよう「いけにえ」を与えることによって悪霊に協力している。それを示すシーンはカットされた病院のシーン(霊がダニーに黄色いボールを渡した事実をアルマンは知っている)である。

 『シャイング』のラストシーンの解釈にはさまざまな論があります(一般的には「ジャック・トランスは邪悪な霊によって自身の精神的弱さを攻撃され、最終的にホテルに取り込まれた」とされています)が、当ブログではとりあえずこれをもって結論としたいと思います。

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