キューブリック作品を考察・検証する

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『薔薇の葬列』も『時計じかけのオレンジ』も同時期に勃興したサイケデリック・カルチャーの影響下にある作品だ。表層的な類似点だけで「影響した・された」と断定して良いものだろうか?

前記事でも紹介した『薔薇の葬列』と『時計じかけのオレンジ』の類似点を比較した動画。

 2013年に書いたこの記事において、

 実際はどうであれ、現状の推論にもなり得ない憶測レベルで影響云々を喧伝するのは著しく論拠に乏しい。『薔薇…』は『薔薇…』として論評すべきで、そこに『時計…』を絡めて論じるのは歴史の検証に神話を持ち出すくらい意味のない行為だ。もっと情報が出そろってからでも遅くはない。『薔薇…』論者は少し頭を冷やした方が良いだろう。ただ可能性はゼロではないので今後も成り行きは注視していきたいと思う。

と書きましたが、そろそろ情報も出尽くしてきたようなので、結論を記事にしたいと思います。

 まず、前回記事でソースとした、日本版Wikipedia『時計じかけのオレンジ』にあった記述、

 1970年にロンドンで上映された 『薔薇の葬列』 を観たスタンリー・キューブリックが、次回作 『時計じかけのオレンジ』 の「早回しのセックスシーン」等、同作のビジュアルの参考としたと云われる。(ハーバード大学ウェブサイトより)

は現在削除されています。

 そしてそのソースとされた、ハーバード大学のJulie Buck氏が「キューブリックは一瞬のカット割り、若者のギャングイメージ、早回しのモンタージュシークエンスの影響を受けた」という指摘の記事を載せたサイトは、現在はそれ自体が存在しません。

 また、英語版Wikipedia『Funeral Parade of Roses』にはその記述はなく、同じく『A Clockwork Orange (film)』も「『薔薇の葬列』と似た方法」とトーンダウンしています。IMDbの『Bara no soretsu』のトリビアの項目に「スタンリー・キューブリックの『時計じかけのオレンジ』に視覚的および聴覚的なインスピレーションを与えました」とあり、同じく『Tokei Jikake no Orenji』のトリビアの項目にも「この映画は『薔薇の葬列』から大きなインスピレーションを得ました」とあります。しかし、これらIMDbのトリビアは前記事を書いた時にはすでに存在していたもので、単に「修正されていない」と判断しても良さそうです(そもそもこの項目はユーザーが書きっぱなしな場合が多い)。

 指摘されたシーンについては前回記事で検証した通りで

 早回しのセックス・シーンについては、キューブリック自身が

「この種のシーン(ラブシーン)をおごそかにするために、ごくありふれた用法のスローモーションがふさわしいとする考えを風刺するためには、よい方法だと私には思えた」(『ミシェル・シマン キューブリック』より)

と語っていて、つまり通俗的なラブシーンの演出を逆手に取りたかった意図を説明している。原作でのアレックスはこのシーンに第九をかけているが、音楽を担当したウェンディ・カルロスの証言によると当初はオーケストラ版『ウイリアム・テル序曲』が使用されていた。それについては

「(ラブシーンに)標準的なバッハの演奏に対して、(『ウイリアム・テル序曲』を使うのは)うまい音楽ジョークだと思えた」(『ミシェル・シマン キューブリック』より)


と、『薔薇…』やその影響を感じせる部分は全くありません。

 ピーターのつけまつげメイクについては、マルコム・マクダウェルが

「ケンジントン・チャーチ・ストリート沿いにある店に1ヤードのつけまつげが売っていて、『面白い!』と思ってスタンリーにひとつ買って行った。そうしたら『いいじゃないか。つけてみろ!』と言って、片目だけに付けた写真と、両目に付けた写真を撮り、翌日彼から電話があって『すごくいいよ。片目だけに付けた君の写真が特にいい。顔を見たときに何かおかしいと思うんだけど、それが何なのかはっきりとはわからないんだ』ってね」(CUT 2011年7月号)

と証言しているので、キューブリックのアイデアではなかったことが判明しています。また、『時計…』制作時のプロデュサーであるヤン・ハーランも、アシスタントであるアンソニー・フリューインも

「(キューブリックが『薔薇』を観た)記憶はない」(『【関連記事】スタンリー・キューブリックが好んだ映画のマスター・リスト(2016年7月25日改訂版)』より)

と証言しています。

 これらの事実から、シーンやメイクなどの表面的な類似性を「影響」と断定したハーバード大学のJulie Buck氏の記事が一人歩きした結果であり、実際は単なる時代の映像トレンド(サイケデリック・カルチャー)による偶然の類似と考えられ、両者にはなんの関連性もないというのが結論になります。

 以上ですが、この結論は大いなる示唆を含んでいると思います。それは「それなりに権威や知名度を持った人の発言は、その正確性などを検証することもなく拡散され、間違いのまま事実と認定されやすい」という事象です。

 例えば、ある映画評論家が「『スパルタカス』でキューブリックが撮影監督に『黒い罠』のワンショットで有名なラッセル・メティを抜擢したのは慧眼」と評したとします。確かに『スパルタカス』には「監督:スタンリー・キューブリック、撮影監督:ラッセル・メティ」とクレジットされています。これだけを見れば、その映画評論家の言うことに説得力があると感じられますが、事実は違います。『スパルタカス』においてキューブリックはアンソニー・マンの代わりに抜擢された監督で、キューブリックが監督に就いた時点でメティはすでに撮影監督でした。そのメティとキューブリックの仲は散々だったことは以前ここで記事にしています。こういった「正しい情報」を知っているファンからすれば、この映画評論家の論は事実誤認どころか「デタラメを拡散する害悪」にしか映りません。

 一応、映画評論家の立場を擁護すると、誰もが大量の情報に気軽にアクセスでき、誰もが自由に論評できるネット時代が到来し、クチコミサイトやファンサイトが映画評論家の仕事を奪ってしまったという状況があります。そんな時代において映画評論家が存在するためには「ファンレベルでは語れない持論を(無理矢理にでも)展開しないと注目されないし、生き残れない」ということになります。その結果、「根拠薄弱や事実誤認だが刺激的な暴論」を「さも事実であるかのように公表する」という行為に走ります(YouTubeの再生数も稼ぎたいですからね)。具体的な名前は差し控えますが、(YouTubeに動画を上げている)O氏やM氏にはその傾向が強いので、注意する必要があります。

 正直言いまして、いちファンであり単なる一般人である管理人が「どうしてここまでしなければならないのか」という思いはあります。それにそんな「暴論」を否定しているヒマがあるのなら、読者の皆様の役に立つ、面白くて興味深い「事実」や「情報」を記事にしたいのです。ですので、それら映画評論家の「暴論」をいちいち相手にはしませんが、読者さまには前述したように映画評論家を取り巻く状況をご理解した上で、「ソースや裏取りのない論はチラシの裏」というリテラシーを持っていただいて、ネット上の評論や情報を鵜呑みにしないように心がけていただきますよう、宜しくお願いいたします。


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キューブリック少年と妹のバーバラ。キューブリックは妹を可愛がる心優しい兄だった。

「独り」

 キューブリックは幼少時代から単独行動が多かったことで知られている。仲間内で流行っているゲームやスポーツ、学校行事などに参加しようとはせず、自分の興味のあることだけに集中して臨むことを好んだ。カメラやチェス、映画鑑賞などそれは「独り」で行うことばかりで、ジャズドラマーを目指し、熱心に練習していたドラムでさえソロプレイを得意としていた。そのため協調性が必要となる学校生活になじめず、小学校時代には登校拒否をするようになる。当然ながら学業の成績は芳しいものではなく、高校は落第点ギリギリでやっと卒業できたくらい悪かったが、落第者であったことが「キューブリックを生涯の学習者(生徒)にした」と妻であるクリスティアーヌは語っている。


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ルック誌カメラマン時代のキューブリック。

「独立」

 キューブリックが単独行動を好んだのは、協調性がなかったというよりも独立志向が強かったと言うべきものだ。共感できる数少ない友人とはよく一緒に過ごしていたようで、高校時代に知り合った(後に映画監督になる)アレキサンダー・シンガーによると「自分でやらなきゃダメだ」と常に語り合っていたそうだ。その高校時代にルック社に写真を採用され、曲がりになりにも「プロカメラマン」としてデビューするのだが、それはシンガーによると「仲間からスターが出た」と、とても誇らしいことであったという。しかし当のキューブリックはそんなちっぽけな立場に満足することなく、生来の独立心から大胆な野望を内に秘めていた。すなわち「映画監督になる」という野望だ。

 その反面、キューブリックはとても「シャイ」であったことも知られている。クリスティアーヌによるとカメラはそのシャイな性格を隠す隠れ蓑だったとし、「カメラをぶら下げていれば、その場にいる理由になるから」と説明している。協調性のなさも「シャイ」で簡単に説明されてしまいがちだが、撮った写真を写真誌に売り込む大胆な行動力はとても「シャイ」の一言で片付けられるものではない。それに映画監督は(最低限の)協調性がなければ勤まらない仕事だ。キューブリックにとって「シャイ」とは「旺盛な独立心と貪欲な好奇心、そして強固な自我の裏側には意外な繊細さがある」と理解すべきものだろう。


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『恐怖と欲望』を撮影中のキューブリック。左端は当時の妻のトーバ・メッツ。

「独学」

 前出の高校時代の友人、アレキサンダー・シンガーによるとキューブリックは自らを「オートダイダクト(Autodidact:独学者)」と呼んでいた。当時のニューヨークではハリウッドとは別の流れからアンダーグランド映画が勃興していたが、キューブリックはその撮影に参加しつつも全く興味を示さなかった。キューブリックは初めから「メジャー志向」だったのだ。「メジャー」、すなわちハリウッドに乗り込む足がかりとして、キューブリックは24歳で劇映画デビュー作『恐怖と欲望』を製作するが、それは演技以外の全ての作業を自ら行ったもので(曰く「なんでも挙げたまえ、私はなんでもやったんだから」)、その経験から後に「映画監督になりたいのなら、自分で映画を作ってみることだ」「それが多くのことを教えてくれるだろう」と発言している。すなわち「独学(による実践)に勝るものなし」ということだ。

 キューブリックがアート系、アンダーグランド系の映画監督を目指していなかったことは次作でさらにはっきりとする。『恐怖と欲望』がハリウッドの興味を引かなかったと判断するや、すぐに発想を切り替え、より商業性を意識した『非情の罠』を製作したからだ。キューブリックにしては「陳腐なラブストーリー」とも言える本作だが、まずは商業的な成功を納めない限り、自身が撮りたい映画を撮ることはできないという現実的で冷静な判断があったと思われる。そのこともキューブリックは「独」りで「学」んだのだ。


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『非情の罠』を撮影中のキューブリック。写真を撮ったのは友人のアレキサンダー・シンガー。

「独善」

 間違わないでおきたいのは、キューブリックは「支配的」ではあったが「独善」ではなかった(少なくともそれを極力避けようと努力していた)ということだ。それはどんな立場で、どんな職種であるかに関わらず、周りの俳優やスタッフの意見に常に耳を傾け、良いアイデアは積極的に採用していた事実から知ることができる。また、キューブリックは既存の小説を映画化するのを好んだが、その理由を「自分で書いたストーリーだと、その良し悪しを客観的に判断するのは難しい」と応えている。つまり「メタ視点」を持つ重要性をはっきりと認識していたのだ。それは「自惚れ」(とキューブリックは後に恥じている)で作った『恐怖と欲望』の苦い経験があったからこそ。キューブリックは「監督」という立場は、ともすると「独善」で判断しまいがちになる危険性を十分に理解していたのだ。


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『非情の罠』に記録されたキューブリックにとっての「ニューヨーク」。

 義弟でプロデューサーのヤン・ハーランによると、キューブリックは「偉大な交響曲も、小説も、映画も、集団指導体制下で作られたものはひとつもない」と言うのが常だったそうだ。それは映画という一般的に「集団芸術」と呼ばれるものに対してでも、「個」を貫き通そうとしたキューブリックの強い意志が見える。そのことは映画製作に協力(というより「才能の搾取」)した周囲の俳優やスタッフたちの反感を買うことになるが(もちろん協力者としての多大なる貢献に対しては、そのたびごとに最大級の賛辞や評価を惜しみなく表明している)、キューブリックにとって「映画」とは、「音楽」や「小説」や「絵画」と同じく「個人で作る創作物である」という考えを変えなかった。一方でそのことにより「独善」に陥ることを常に警戒していた。それは同じく映画製作に協力した面々が、異口同音に証言している。

 是としての「独り・独立・独学」、そしてそれらによって陥りやすい避けるべき「独善」。これらキューブリックの映画監督としては異例で独自の志向は、変わることなく生涯に渡って貫き通された。それはキューブリック作品が、他の映画監督と互換性のない「個性」を獲得していることからも理解できるだろう。その「個性」を賛美しつつ、完全支配的な映画製作の手法を批判するのは勘違いも甚だしい。なぜならその「個性」は「完全支配」でないと生まれ得ないものだからだ。そしてキューブリックがそれらを学び、育んだのは「アメリカの中の独立国」と言われるほど個性あふれる街、ニューヨークであったのは単なる偶然ではないだろう。

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トム・クルーズの窮地を救った謎の美女。演じたのはアビゲイル・グッドというモデルの女性で、声はケイト・ブランシェットが担当した。

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謎の美女の声を担当したケイト・ブランシェット。キャステングはキューブリックの逝去後だったため、レオン・ヴィタリが行った。

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アメリカではR指定を得るためにデジタル修正された乱交シーン。日本ではオリジナルのままで公開された。

撮影しながら性行為の振り付けをする

レオン・ヴィタリ (キューブリックのアシスタント): 乱交シーンでスタンリーはあることをしたかった。『時計じかけのオレンジ』へのオマージュのようなことをだ。男が手と膝をついて、女が男の背中にいて、後ろからさらに別の男にファックされているというものだ。撮影中に振り付けした。スタンリーが突然思いついたからだ。簡単なものではなかった。誰もポルノ俳優じゃない。彼らはモデルとダンサーだ。そして根性があった。

ジュリエンヌ・デイビス(マンディ役): スタッフが来てこう言ったんです。「計画の変更があった」って。これからはTバックを身に付けないこと、そして男たちは股間の上のカップを除いて完全に裸になること。私ともう一人の女性は参加しないことにしました。他の女の人たちに「もしこれをやるなら、完全に話は違ってくるわよ。私があなたならギャラの増額を要求するわ」と言いました。

アビゲイル・グッド(謎の美女役):スタッフはこう言うだけです。「そう。腰をかがめて。あれみたいに。そこに寝て。そうあれみたいに。」って。仮面を付けてるから誰にも自分のことはわからないし、匿名性は保たれ、友達家族に言わなければ、誰にも自分がしたことはバレないけど、簡単なことではなかったわね。

ヨランデ・スナイス (振付師):乱交シーンの振り付けを始めた時には、会社の仕事もあったの。最初はそこまで振り付けが必要とは思わなかったけど、それは間違いだった。シーンを見てみたら、スタジオでのリハーサルがシーンの撮影に影響されていることがわかりました。カウチ、ベッド、アームチェアー、私たちが家具の周りでした2、3、4人組の振り付けの全てがそこにありました。エロチックだけれど、本物の性交は行われていません。

レオン・ヴィタリ:冒涜的であり優美なことだと思う。テーブルの上で優美なポーズをする、そして同時に不快なことも起こっているという。スタンリーは限界まで行きたかったんだ。もちろん上品さと猥褻についてとなると多くの限界があったけど。

アビゲイル・グッド :全ての女性たちが去った後も、2人の素晴らしいアーティストと働くことができました。トムとスタンリーです。素晴らしい仕事ぶりでした。スタンリーは私に何度も意見を聞いてくれました。私とトムは彼が撮った中で最後の人々の一員でした。吹き替えが行われる前に亡くなってしまいました。映画が公開される前、いつも誰が私の吹き替えをしたのか不思議に思っていました。だって私はアメリカのアクセントがありませんから。

レオン・ヴィタリ:ケイト・ブランシェットだよ! あれは彼女の声だ。温かみがあって、官能的で、同時に儀式の一部にもなれる声を探していたんだ。スタンリーはそういう声と質を探すように言っていた。彼が亡くなってから、私がその人物を探すために動いたんだ。実はケイトを起用するアイデアを思いついたのはトムとニコールなんだ。その時ちょうど彼女はイギリスにいたので、パインウッド・スタジオまで来てもらい、セリフを録音したんだ。

R指定騒動

パディー・イーソン (デジタル合成監督):キューブリックの死からすぐ、私のプロデューサー レイチェル・ペンフォールドと私はキューブリック邸に呼ばれ、映画を完成させるための陣容が変わったと伝えられました。多くの問題を抱えていたのです。彼が亡くなった時、カットは封印されていました。彼は実地の編集者でした。でも彼とワーナーとの契約でR指定の映画を出すことが決められていました。スタンリーにどうやってR指定ではない乱交シーンをR指定にするのかという話をした人は誰もいませんでした。

レオン・ヴィタリ:カットはトムとニコールにニューヨークで見せた一週間前に封印されていた。そして彼はそれが彼のファイナルカットだと言ったんだ。しかし彼はそれが危険な領域に踏み込むことだと知っていた。彼が亡くなっていてよかったよ。アメリカ映画協会のことに振り回されずに済んだんだから。本当に馬鹿げていた。だって同じアメリカ映画協会があのサウスパークの映画にOKを出したんだから!あの映画覚えてるかい? 卑猥で、ほのめかしていて、もしくは本物の性的用語にまみれた映画だよ。

パディー・イーソン:彼のカットは神聖なものだった。彼らは誰も1フレーム足りとも変えようとしなかった。「あのショットをカットしただろ!」とかなんとか言われるのが嫌だったのだと思う。ショットを見て、問題になりそうな攻撃的、侮辱的と思われるような性的シーンを取り上げてみて、それからどうやって観客を刺激しないようにするか考えて、カバーしただけだ。あとは黒いマントの男たちと女性たちのCGをあるフレームのエリアを隠すために付け加えた。何人かの人がネガティヴにそのことを指して、シーンのある人物に「あれはCGだ。すぐわかる。なぜこんなことをした?」というのは本当におかしかった。ある時など、間違った人物を指して言っていたから。つまりシーンの本物の人間に対してだった。ドラマティックに照明されていたから助けになりました。多くのキャラが棒立ちだったことも。それがシーンのスタイルだった。しかし全てのCGキャラは少し動いている。我々のアニメーターの一人、 サリー・ゴールドバーグは人間の棒立ちをアニメーション化する方法は、バランスを少し変えるのだと言っていたよ。

アビゲイル・グッド :プレミアはとても興味深かったです。撮影期間の長さが話題になりましたね。トムとニコールが出演していることも。「ハリウッドの2大スターが裸で歩き回っている!」と。そしてスタンリーの監督作だと言うことと、彼が死去してしまったことも。

レオン・ヴィタリ:私は何年もイルミナティのファンたちから電話をかけてこられたよ。いつもこう切り出してくる。「どこにそんな力があるんだ?どこに?イルミナティについての映画なんだろ?カトリック教会の隠蔽なんだろ、違うかい?」とね。そしたら私はこう返すんだ「ほう、なんでそう思うんだ?」って。それからはもう切るだけになったよ。どうやらロスには「アイズ・ワイド・シャット・クラブ」なるものがあるらしい。女性たちはマスクを付けて、男はイブニング・スーツでその女性を囲む。行ったことはないけどね。ハリウッド・ヒルズの上かその近くにあると聞いたな。そういえば撮影中に誰かが、たぶんトムだ、こう言った「本当にこんな場所があるのかな?」と。そしたらスタンリーがこう返したんだ「なければ、すぐにできるだろう」

(引用元:VULTURE:An Oral History of an Orgy Staging that scene from Eyes Wide Shut, Stanley Kubrick’s divisive final film./2019年6月27日




 前々回の記事「【考察・検証】『アイズ ワイド シャット』の儀式・乱交シーンについてのスタッフの証言集[その1]儀式シーンのリサーチについて」と前回の記事「[その2]さらに本物に近くなる乱交シーン」の続きで、今回が最終回です。乱交シーンの過激さはついに行き着くところまで行ってしまい、結局は行為そのものを見せるという結果に。もちろんマネだけですが、結合しているかのように見える腰の部分まで見せるという判断は、公開当時観ていた観客も驚いたはずです。

 脚本を共同で執筆したフレデリック・ラファエルによると、キューブリックは世界中のあらゆるポルノ産業のカタログにアクセスできるソフトを入手し、ごきげんだったとか。脚本は1994年末にスタートしたので、この頃はまだインターネットが一般化する前。撮影はそれから2年後の1996年11月から始まったので、この頃になるとインターネットが急速に普及し始めていました。ポルノ産業もそれに合わせて拡大・過激化の一途をたどっていたのをキューブリックは知っていたはず。であれば、生半可なシーンでは観客にショックを与えられない。だからこそのこの「過激化」ではないかと思います。

 ストーリー上では「マンディ=謎の女」ということに(一応)なっていますが、実際はマンディをジュリエンヌ・デイビス、謎の女をアビゲイル・グッドと別人が演じています。証言によるとそれはジュリエンヌ・デイビスが乱交シーンへの参加を拒否したためだということがわかりますが、スタントシーンなど、俳優が代役を使って撮影するということはよくあるので、この事実をして「マンディ≠謎の女」と(ストーリー上の)判断をするのは早計かと思います。原作でもそれは曖昧になっているし、キューブリックもやはり曖昧にしておきたかった(謎として残しておきたかった)のではないかと思います。

 その謎の女の声を吹き替えたのはあのオスカー女優、ケイト・ブランシェットだということを初めて知りました。アンクレジットでの参加だったので、今まで知られていませんでしたが、IMDbにはすでに掲載されていますね。

 レオンによると極秘試写でトムとニコールに見せたものが「ファイナルカットだ」と言ったそうですが、キューブリックは試写で観客の反応を見てカットすることが常なので、この「ファイナルカット」という言葉は「その時点で」という注釈が必要でしょう。もしキューブリックが存命だったら、『アイズ…』が今ある形と異なっていた可能性はかなり高いと思います。

 この証言集で多くの証言をしているのは振付師のヨランデ・スナイス、謎の女役のアビゲイル・グッド、サントラを担当したジョセリン・プークですが、やはり他作品のスタッフや俳優と同じ話をしています。すなわち「キューブリックにアイデアや意見をその場で求められた」ということです。キューブリックあらかじめ台本や絵コンテなどで台詞やシチュエーションを決めておいて、それをそのまま撮影するという手法は採りませんでした。「どうやって撮るかは難しくないけど、何を撮るかは難しい」「いかに撮影に値することを起こし得るかの挑戦だ」と常々語っていた通り、周りにいる俳優やスタッフの意見やアイデアによく耳を傾け、より良いシーンを貪欲に求め続けました。そうしてリハーサルを繰り返すことによりそのシーンを磨き上げ、「これがベストだ」と判断してやっとカメラを回すのです。

 キューブリックはたびたび「マエストロ(指揮者)」に例えられます。優秀な演奏者から素晴らしい演奏を引き出し、一つにまとめ上げるマエストロにです。最終的な決定権はマエストロにありますが、それをいかに充実させた演奏(映画)にするかは演奏者(俳優やスタッフ)次第です。キューブリックが優秀なスタッフばかり身の回りに置いたのも、また、初参加であってもその後優秀さが認められて活躍する人が多いのも、キューブリックの審美眼がいかにシビアで正確であったかを証明していると言えるでしょう(キューブリックに厳しい要求を突きつけられ、「できない」「無理だ」と応える俳優やスタッフに対して「できるかできないかなんて、やってみるまで君自身にもわからないじゃないか」と諭していた)。

 乱交シーンのデジタル修正については日本ではオリジナルで公開されたこともあり、あまり話題になりませんでしたが、公開当時、アメリカのファンの間でのブーイングはかなりのものがありました。どう修正されたかはこちらの記事でご確認ください(閲覧注意)。

 3回に渡ってお届けしました「【考察・検証】『アイズ ワイド シャット』の儀式・乱交シーンについてのスタッフの証言集」いかがでしたでしょうか。こうしてみると、結局は「映画」という「フィクション」の制作現場でしかなく、何か特別な思惑や陰謀が渦巻いていた訳ではないとこがよく理解できるかと思います。キューブリックの制作現場は独特だとよく言われますが、それでもやはり「映画制作」という現実の範疇でしかありません。「フリーメイソンやユダヤの陰謀」や「鬼畜キューブリックの超絶ブラック現場」という「おはなし」は人の耳目を集めるには手っ取り早い方法ですが、実際はこの証言の通りで、何か特別なことがあるとすれば「より良い映画を作ろう」という気概、モチベーションが他の現場よりかなり高かったというだけです。もちろんそれには多大なる苦労や犠牲が(本人、周囲の人間問わず)伴いますが、それはキューブリック作品がより長く語り継がれている要因であるし、私たちファンはそれを感謝しなければなない立場でしょう。それに俳優やスタッフたちにとっても、キューブリックの現場から得られるものは大きかったのではないでしょうか。

 キューブリック存命中は俳優やスタッフには守秘義務があったため、制作現場は謎に包まれていましたが、近年になってこのように知る機会が増えてきました。存命中の数少ない情報で「想像(予想)」されていた情報は、新しく知り得た「正しい」情報で上書きされなければなりません。それを怠っている「自称評論家・解説者」(誰とは言いませんが)が語るキューブリック像など価値はないし、聞く耳を持つべきではないでしょう。当ブログの読者の皆様には、賢明で聡明なご判断をお願いしたいと思っております。

翻訳協力:Shinさま

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映画で使用された仮面はベネチアで調達された。詳細はこの記事で。

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舞踏会や儀式のシーンが撮影された「エルベデン・ホール」

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乱交シーンは『ダウントン・アビー』で有名になったハイクレア城の応接室で撮影された。

マーティン・スコセッシが『ギャング・オブ・ニューヨーク』で使用したジョセリン・プークの『Dionysus』。

●さらに本物に近くなる乱交シーン

ヨランデ・スナイス (振付師):スタンリーの乱交シーンのビジョンは、後に本当の乱交シーンのようになっていったと思います。問題はそれをするために、さらに追加のお金を払わねばならないことと、何人かはそれをしたくなかったことです。

アビゲイル・グッド(謎の美女役):レオンはある時カーマ・スートラからの挿絵をたくさん持って来て、「スタンリー、この絵からインスピレーション得られるかい?」って聞いていたの。私たちは「こんなことのためにこの仕事を受けたわけじゃない」と思うようになっていました。でもその頃にはお互いのことをよく知ってたから、どんどん性的になっていくのも驚かなくなっていたわ。

ヨランデ・スナイス:スタンリーはイタリアの仮面のコレクションを持っていました。「コンメディア・デッラルテ」のマスクです。私を家に呼んで一番印象に残るものを選ばされました。共同作業だけど、 自分が乱交シーンをもっと明確にするのためのスタンリーの美術アシスタントになった感じがしました。数週後には儀式や仮面舞踏会、そして外套を脱ぐ儀式について話てくれました。 いろんな儀式の形態を試した。線、道、歩き、境界や祭壇への行列などなど。ある時点で、スタンリーは円がベストだということに気付きました。それが決まってからは彼とレオン、プロダクション・デザイナーと共に見合ったロケーションを探しました。最終的に巨大な会場を使うことになりました。

レオン・ヴィタリ (キューブリックのアシスタント):エルベデンはギネス家によって所有されていた家だった。マハラジャによって1800年代に建てられ、廊下には手彫りの大理石が使用されていた。建築した時は建築資材を運び込むのに線路を作った。戦争中は秘密の司令部として使われた。何とも奇抜な建物だった。別に使用した家はツタンカーメンの墓を発見した男が所有していた。大規模な美術館がその地下にあった。

トッド・フィールド (ニック・ナイチンゲール役):  仮面舞踏会のシーンはエルベデン・ホールで撮影された。最初に入った時、音楽用の機材以外は何もなかった。キーボードの前に座って『Backward Priests』を練習した。ある時点で音楽が止まったので立ち上がって見回したら、スタンリーが部屋の反対側に立って目隠しを持ち上げていた。そっちに言ったら彼は私の体を回転させ、私の頭に目隠しを付けて「これで準備完了だ」と言った。セットで私だけが 「アイズ・シャット」された人間だった。

ヨランデ・スナイス:モデルたちといろんなことを試しました。完璧な同調を得るためにヨガをして体を柔軟にしたりとか。大変でした。なぜならスタンリーがある種のバービー人形のようなタイプを求めていたからです。ある時はそれが悩みの種でした。私も女ですから、別の女性観を持っているからです。しかしそれがシーンの心理的な一部だったのです。アビゲイル・グッドという女性が最終的により大きな役に選ばれました。ダンサーとしての経験はなかったのですが、自然な動きを見せてくれました。

アビゲイル・グッド:スタンリーは私が『バリー・リンドン』のリンドン嬢を想い起こさせるとおっしゃってくださいました。彼女のように歩くようには言われませんでした。私はモデルで、キャットウォーク上を歩いたことは何度もありました。なのでヒールを履いて歩くことはお手の物でした。すいません、軽薄な女のように聞こえてしまいますね。「歩くのは得意なのよ!」って言ってるみたい。でも違うんです。強い女性を表現するためのある種の動きがあったのです。

ヨランデ・スナイス:男性のダンサーも何人かいて、エロティックなダンスを練習しました。その中の一人、 ラッセルは私のダンス会社の一員でした。円の中心にいる香炉を持ったマスターを演じました(赤い外套の男のこと)。その後のシーンはレオンが演じました。なぜなら観客が彼の顔を見ることはないからです。あのシーンのタイミングはラッセルによって計られました。なぜなら杖を持っていたからです。彼が杖で床を叩くと、それが合図になって女性たちが立ち上がるのです。スタンリーは香炉から煙が立ち上がるショットを独特な方法で撮りたかったのです。しかし煙のコントロールは不可能です。だからあのショットは何度も撮りました。正しいタイミングを得るまで何度も何度も。

ジュリエンヌ・デイビス(マンディ役):あのシーンのリハーサルは1ヶ月もかかりました。11.4センチものヒールを履いて跪き、立ち上がるの繰り返しでした。私は筋膜を怪我してしまいました。ロンドンに戻って、医者に「撮影を乗り切るために何でもしてください」と言いました。

アビゲイル・グッド:何時間も座ったきりでしたから、膝のためにスタッフが凍ったエンドウ豆を持ってきてくれました。

ラッセル・トリガー(ダンサー):トムが舞踏会に現れるシーンでのタイミングについて、スタンリーからとても詳細な演出指導を受けたのを覚えています。私がとても感激したのはどんな特殊なカメラアングル、ショットだとしても女性たちの作る円はショットに一番重要なものとして撮られていたことです。

ジュリエンヌ・デイビス:スタンリーは私に乱交シーンに加わるように言われました。でも多くのスタッフの前でそれをすることに自分が弱くなった気になり、不快な感じがしました。上品ぶっている訳ではありません。でも、それをする意味があまり感じられなかったのです。自分は仮面を被っているのですから。撮影が始まる数年前にロンドンの通りで性的暴行を受けたのです。だから誰かに何かされるというのは私にとって受け入れられないことでした。スタンリーに「やらないと言っている訳ではないのです。 〈できない〉のです」と伝えました。動揺していました。嘘ではありません。従うことができなかったのです。自分の意思を貫きとおしました。

ピート・カヴァシウティ(ステディカム オペレーター):スタンリーの正確さは私が一番覚えていることです。私のステディカムにはレーザーが3つ付いていて、地面を指していました。それらがラインアップした時には、グリップがレンズから下げ振り糸線を落とすんだ。そからレーザーを上げて、グリップをマークまで音声誘導してくれる。「マークまで2インチ、1インチ」って感じに。彼の正確無比さは並外れていた。おかげで20ショット以下撮れたら大成功なほどだった。身体的にも、知的にも多くを求められた。スタンリーは何度も私がマークに沿ってないと言うんだ。だから見下ろして、レーザーをチエックして「いやちゃんとマーク上だ、スタンリー」って伝えるんだ。一度などトム・クルーズが私に囁いて「ただカメラを動かせばいい、ピート」って言ってくれた。それはつまりスタンリーがカメラを別の場所に動かしたいっていうただの暗号だと気付いたんだ。

ヨランデ・スナイス:トム・クルーズはとてもチャーミングでした。撮影初日に彼は舞踏会に入るシーンを撮っていました。仮面をつけて立っていました。休憩時間になると彼はそのまま私のところに歩いてきて手を差し出して「どうも、トムです。お会いできて光栄です」と言いました。それから彼は私が制作したテレビ向け映画『Swinger』について話し始めたんです。小規模映画なのにありとあらゆる言葉で賞賛してくれました。私が返せた言葉は「あら、あなたの映画も好きよ、トム」だけでした(笑。

レオン・ヴィタリ :トムがあの映画に出ていた時、彼は1番の大スターだった。彼が出る映画一本で、前金2000〜2500万ドルのギャラをもらっていた。彼が『アイズ ワイド シャット』に出ている間、3本の映画に出られていただろう。「セットでトムと目が合ったら、君の人生はおしまいだ」なんて噂があった。でもそんなのは嘘だ。素晴らしい人だった。もちろんニコールも。

アビゲイル・グッド:ある日のことを覚えています。たくさんのスタッフ、エキストラ、人々がセットにいました。でも何も起きませんでした。私たちは「どうしたの?」と言い合ってました。スタンリーがライトが消えてることに気付いたのです。シーンの途中でです。誰かが「いや消えてないよ、スタンリー。誰も何も触ってない」と言いました。でも彼は「消えている。探せ。問題解決までは撮影しない」と答えたんです。彼は完璧主義者でした。おそらく人々を怒らせたこともあったでしょう。でも彼は人をイラつかせるけど、正しいことをする人だったんです。

ジョセリン・プーク(作曲家):乱交シーンではスタンリーは音楽的には漠然としていました。なぜならあまり様式化されていないものを狙っていたからです。彼は「本当にどういう音楽にすべきかわからないんだ。何か試して見てくれ、セクシーな音楽を」って(笑。それが私への指示でした!『Dionysus』という曲を作りました。映画には使われませんでしたが。最終的にマーティン・スコセッシ監督の『ギャング・オブ・ニューヨーク』に使われることになりました。スコセッシ監督が『アイズ...』に使われる予定だったと知っていたかはわかりません。使った曲は私のアルバムに収録されています。初期のレコーディングのボーカル・サンプルが使われています。ボーカリストはバガヴァッド・ギーターからの言葉をいくつか使って即興をしたのです。あるヒンドゥー教のコミュニティーの人々は何個かの単語にたまたま気付いたみたいです。それから話題になりました。最後にはキューブリック家がそれに不快感を覚え、映画をリコールし、曲を別のボーカルを使って再収録しないといけなくなりました。高い代償を払うハメになってしまったのです。

(引用元:VULTURE:An Oral History of an Orgy Staging that scene from Eyes Wide Shut, Stanley Kubrick’s divisive final film./2019年6月27日




 前回の記事「【考察・検証】『アイズ ワイド シャット』の儀式・乱交シーンについてのスタッフの証言集[その1]儀式シーンのリサーチについて」の続きです。キューブリックは乱交シーンは当初「芸術的でシュールリアリスティック」のものを想定していたようです。それはもちろんレイティングを考えてのことだったとは思いますが、「これじゃつまらん」と思ったのか、この証言集によるとどんどん過激な方向へ進んで行ったようです。

 その乱交が繰り広げられる場所ですが、キューブリックと共同で脚本を書いたフレデリック・ラファエルのアイデア「大きな図書室のようなところ」というのが採用されています。ロケ場所は記事にはありませんが、BBCのTVドラマ『ダウントン・アビー』で有名なったハイクレア城の応接室とその周りの部屋が使用されました。儀式のシーンは記事の通りエルベデン・ホールです。

 キューブリックはヌード女性が必要になった場合はモデルを使うのが常だったようです。『シャイニング』の237号室の女性を演じたリア・ベルダムもモデルでしたし、おそらく『時計じかけのオレンジ』でアレックスのルドビコ療法の効果を試す試験に登場したトップレスの女性もモデルでしょう。キューブリックがなぜモデルを重用したは証言がないので不明ですが、『ロリータ』でロリータの母親を演じたシェリー・ウィンタースが、ジェイムズ・メイソンとベットに入るシーンでガウンさえ脱ぐのを拒否したという苦い経験をしていたので、ヌードシーンにはヌードに慣れているモデルを使ったのではないでしょうか。もちろん一部ファンの間で囁かれている「おっぱいフェチ説」も有力だと思います(笑。大ぶりでも小ぶりでもなく、形がよくてツンと上を向いたおっぱいばっかり選んでいますからね。証言では「バービー人形のようなタイプを求めていた」とありますが、過去作でもまさにそんな女性ばかりです。

 マーティン・スコセッシが『ギャング・オブ・ニューヨーク』でジョセリン・プークの『Dionysus』を使おうとしてトラブルになったとは知りませんでした。それは『アイズ…』のために作られた曲だったため、ボーカルを差し替えることになりましたが、それまで映画音楽の経験がなかったプークを、キューブリックの大ファンであるスコセッシが知ったのは『アイズ…』であったことは確実でしょう。

 なお、原文の記事ではさらに「撮影しながら性行為の振り付けをする」「R指定騒動」と続きますが、これらについても今後記事にする予定です。お楽しみに。

翻訳協力:Shinさま

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ダニーを取り囲むように蜂の巣のデザインが施された「シャイニング・カーペット」

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次のカットではセットで撮影されていて、明らかにカーペットのサイズや向きが違う。キューブリックはこのカットの矛盾を承知の上で上記映像をわざわざ別の場所で撮影している。

 『シャイニング』の舞台であるオーバールック・ホテルの内装はマジェスティック・ヨセミテホテル(旧アワニー・ホテル)を参考にデザインされましたが、必ずしも「完全コピー」ではありませんでした。その最たるものが廊下に敷き詰められた、一般的に「シャイニング・カーペット」と呼ばれる六角形の柄をあしらったカーペットです。これはオリジナルデザインではなく、インテリアデザイナー、デービッド・ヒックスがデザインした「ヒックス・ヘキサゴン」という柄を無断でコピー(剽窃)したものであることはこの記事でご説明しましたが、このようにキューブリックが意図的に改変したものは、何がしかの意味や意図を込めたのでは?と疑ってみるのがキューブリック作品を考察する上での常道と言っていいでしょう。

 ではまず、なぜ六角形なのか?という点ですが、これはご紹介した上記記事では、以下のような指摘がなされています。

・色彩が幻想的で鮮やかな印象のため、何かの前兆の印象を与えるから

・このグラフィックパターンは、キューブリックが用いる「シンメトリーな一点透視」に効果的で、ドラマチックな視覚感覚と廊下の延長効果をもたらすから

・ヘックス(六角形)の意味は「呪いまたは悪意のある願い」であり、したがってホテル内の邪悪を象徴するから

・カーペットの六角形をキューブリックが好むチェスと戦争ボードゲームのマス目に結びつけることができるから

・六角形の「六」が「シャイン(輝き)」という第六感を象徴するため


どれもありそうな指摘ですが、管理人はどの指摘も見逃している重要な点があると考えます。それは「色」です。この赤やオレンジや茶色を配したカラーリングは、ベースになったヒックス・ヘキサゴンにはありません。これはキューブリックが指示してこのカラーリングにしたと考えるべきです。

 そして、この黄色・オレンジ・茶色の配色と六角形のパターンを見ていて気づくことがあります。それは原作小説に登場する「蜂の巣」です。屋根裏からジャックが見つけた蜂の巣をダニーに見せたところ、死んでいるはずの蜂がなぜか生き返り、ダニーを刺します。やがてそれはホテルに巣喰う邪悪な存在の象徴として、ラストシーンでは燃え上がるホテルから飛び去ってしまいます。つまり「蜂=邪悪な存在」であり、その蜂がダニーを刺すというのは「邪悪な存在がダニーを狙っている」という伏線になっているのです。

 さてこの小説のアイデア、キューブリックが映像化する際に懸念されるであろう点を検討してみます。CGのない当時、少し考えただけでも以下のような問題が考えられます。

・実際の蜂を使った撮影は危険(特に相手が子供の場合)

・蜂の飛び方や動きなど、キューブリックが気に入る映像を手に入れるのは難しい

・本筋とはあまり関係なく、上映時間を考えればカットできる部分である


結局キューブリックはこのシーンを映像化しませんでしたが、原作者であるスティーブン・キングは気に入っていたのか、自身が制作したTVドラマ版で映像化しました(ただし、蜂が群れをなして燃え盛るホテルから飛び去るシーンはカットした)。

蜂の巣
スティーブン・キングが製作したTVドラマ版『シャイニング』では原作通りに蜂の巣が登場する。

 対するキューブリックは蜂の巣のアイデアを別の形で採用しました。それが「シャイニングカーペット」です。もっとも象徴的なシーンは廊下で遊ぶダニーにボールが転がってくるシーンです。このシーン、最初のズームアウトのカットと、ダニーが立ち上がるカットとでは、明らかに撮影場所が違います。それはカーペットの柄の大きさや敷く向きが違うことからも一目瞭然です(撮影時に思いついたアイデアなので、カットの矛盾は無視されたと想像)。同じ廊下で撮影すればいいのに、なぜわざわざカットによって撮影場所を変えたのか?それは原作にある「蜂(邪悪な存在)がダニーを襲うシーン」を暗喩的に映像化したかったのではないか、と考えます。最初のカット、明らかに廊下より広いスペースにセットの廊下より大きい柄のカーペットを敷き詰めた上で、ポツンと小さく遊ぶダニーの姿は、まるで蜂に襲われているように見えます。そしてその暗示を証明するかのようにどこからともなく転がってくるボール。それは「入ってはいけない」237号室にダニーを誘う罠でした。

 このように台詞を使わず、カットを連続させることによってそのシーンを説明する方法論はキューブリックの得意技です(エイゼンシュテインのモンタージュ理論)。キューブリックは「映画はサイレント時代に獲得した独特のストーリーテリングの構造を、トーキーになって演劇的なものに戻してしまった」と説明セリフ過多な映画界を現状の嘆いていました。キューブリックが『シャイニング』で試みたこれらの描写は、無声映画時代のテクニックを駆使した「映像で示唆する暗喩」の一例なのです。

結論:『シャイニング』の舞台、オーバールック・ホテルの廊下にある蜂の巣のパターンをあしらった「シャイニング・カーペット」は、原作小説に邪悪な存在の象徴として登場する「蜂の巣」の代替である。ダニーがカーペットの上で遊ぶシーンは、ホテルの「邪悪な存在」から襲われつつあるのを暗喩するために採用されたもので、それは撮影中に思いついたアイデアである可能性が高い。

 さてこのシーン、以上の暗喩を理解した上で観直してみることをおすすめいたします。そして「背筋が凍る、とても恐い思い」をしていただけましたら幸いです。

 余談ですが、この「蜂の巣カーペット」を管理人が描き起こし(図形的にバランスを取ることを優先しましたので、映画と完全に同じではありません)スマホの壁紙を作成いたしました。無料で配布中ですので、詳細はこちらをご覧ください。

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