キューブリックの家族たち

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キューブリックの左側にいるのがトーバ・メッツ。

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映画の男と同じポーズをとる芝居をするキューブリック。

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キューブリックとルースが「共演」したシーン。

 キューブリックの二番目の妻、ルース・ソボトカがキューブリックと結婚前、画家兼映画監督ハンス・リヒターの前衛映画『金で買える夢(Dreams That Money Can Buy)』に出演していたことは以前この記事で紹介しましたが、この映画にキューブリックと最初の妻であるトーバ・メッツ(当時はガールフレンド)が、エキストラとして参加していたそうです。

 この作品の初公開は1947年9月ですので、撮影がその年だとしてもキューブリックは当時18〜19歳(撮影が1947年7月以前なら18歳)。この頃すでにルック誌の有望な新人カメラマンとして、ニューヨークのユダヤ人コミュニティでは知られた存在でした。であれば、キューブリックが映画製作に興味がることを知っている誰かが、この作品のエキストラとしてキューブリックとトーバを撮影現場に誘ったのでは?と考えるのが妥当な気がします。どちらにしても公開された作品は観たでしょうから、キューブリックとトーバは結婚する前から、将来キューブリックの二番目の妻となるルースの存在を認識していたことになります。そのキューブリックがルースと付き合うようになるのはこの5年後の1952年。この頃キューブリックは『恐怖と欲望』を制作中で、ルースはバレリーナをしていました。きっかけはルースのルームメイトの振付師、デイビッド・ヴォーガン(のちに『非情の罠』でデイヴィのマフラーを盗む役として出演)を通じてだと言われています。

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ルースが初めて映画に登場するシーン。

 いずれにしてもこの作品で、キューブリック本人とその最初の妻であるトーバ、二番目の妻であるルースが「共演」しているという事実は、実に驚くべきものがあります。つまりこの三人は、ニューヨークのユダヤ人コミュニティという狭い範囲で知り合い、結婚まで至ったということです。キューブリックはその後、ニューヨークはおろかアメリカからもはるか離れたドイツで、以降の生涯を共にするクリスティアーヌ(しかもユダヤ人を弾圧したナチに近い家系の出身者)と三度目の結婚をすることになるのですが、キューブリックがニューヨークのユダヤ人コミュニティから離れ、イギリスに居を構えたのは、そのユダヤ人コミュニティが肌に合わなかったのも理由の一つなのかも知れません。

 ところで、キューブリックはこの頃勃興したニューヨークの前衛映画に関して

「アンダーグラウンド映画からはどんな可能性も感じなかった。クレイジーなアイデアや想像力はあっても、撮影技術はよくなく、興味をそそられなかった。」

と後のインタビューで語っています(イメージフォーラム1988年6月号「キューブリックのロングインタビュー」)。キューブリックの目標はあくまでメジャー・シーンであるハリウッドでの、自己の映像表現を追求することにありました。それは劇映画処女作『恐怖と欲望』が、ニューヨークのアンダーグランドシーンに於いて、多少評価が良かったくらいで満足していなかったという事実からも推察できます。キューブリックが、この『金で買える夢』のエキストラ出演で得たものは「自分はこちら方面に興味もなければ進むべきでもない」という結論だったのではないでしょうか。


『金で買える夢(Dreams That Money Can Buy)』フルバージョン。キューブリック、トーバ、そしてルースの出演シーンは32:56より。


The Stanley Kubrick Appreciation Societyによる紹介動画


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 キューブリックの長女、カタリーナには前夫(フィリップ・ホッブス)との間に三人の息子がいるのですが、その三男、ジャック・ホッブスはキューブリック邸内にスタジオを設け、ミュージシャン兼プロデューサーとして活動しています。そのジャックがキューブリック邸の敷地内をドローンで撮影した動画がYouTubeにありましたのでご紹介。

 広大な敷地と美しい景色に魅了されますが、途中登場するニット帽にメガネをかけた男性が次男のジョー・ホッブスに見えるのですが、確証はありません。邸宅だけでなく、周辺の広大な敷地(トム・クルーズとニコール・キッドマンが『アイズ…』の打ち合わせのためにヘリコプターで着陸したのもこの敷地)もキューブリックの私有地なので、当然ですが立ち入ることはできません。ですので聖地巡礼しても敷地入口の門までがせいぜいなのでおすすめしませんが、毎年『チルドウィックベリー・アートフェアー』というイベントが開催されていますので、その期間中なら敷地内に立ち入ることができます。ですので、その時期を狙って訪問するのはありかも知れませんね。

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イギリス・セントオールバーンズにあるキューブリック邸の一室に設けられたジャケット・レコードのスタジオと、ジャック・ホッブスのインタビュー。




 キューブリックの義長女(クリスティアーヌの連れ子)、カタリーナ・キューブリックはフィリップ・ホッブスと結婚(現在は離婚)し、三人の子供をもうけました。長男アレックスは『アイズ ワイド シャット』でトム・クルーズの患者の少年役して出演していますが、次男ジョーはゲームデザイナー、そして三男のジャックはミュージシャンを目指しましたが挫折し、現在はインディーズレーベル「ジャケット・レコード(Jacket Records)」を立ち上げキューブリック邸内にスタジオを開設、プロデューサー兼ミュージシャンとして活動しているそうです。

 詳細はウェブサイトがありますので、そこで見ることができますが、MVの制作も行っているようで、以下のMVのロケ地はキューブリック邸内です。


Hope - Sanctuary (Strings version) | Live


Seb Wesson feat. Hope - Deep Water (Live in the Library)

 肝心のジャック本人の動画ですが、再生数がこれでは寂しい限り。でも顔が母親(カタリーナ)にそっくりですね。



 キューブリックの孫といえば、次女アンヤの息子、サム・キューブリック=フィニーはデスメタルバンド「シールズ」のボーカル兼ギタリストとして活動中。同じキューブリックの孫として、負けずに頑張って欲しいものです。


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『Family Love: A Glimpse of the Real Stanley Kubrick(家族愛:スタンリー・キューブリックの真実を垣間見る)』という動画がVimeoにありましたのでご紹介。

 管理人が知る限り、ほとんどの写真は見たことがありません。特に孫と戯れる邸宅内の写真はどこから手に入れたのでしょう? 孫のおもちゃ(車やマジックハンド)を興味深そうに触るキューブリックの姿を見ることができるなんて思いもしませんでした。これを見る限り孫にとってキューブリックは「いつも同じ格好をしているおじいちゃん」であったことがよくわかります(笑。

 撮影時期は、最初の写真が『時計…』の頃で、『バリー…』『シャイニング』と時系列に並んでいて、最後の集合写真は『アイズ…』の頃でしょう。この「時系列」の判断ができるのは相当のマニアか、関係者以外にはありえない気がします。投稿したアンドリューなる人物の詳細はわかりませんが、長女のカタリーナの写真が多いことから、カタリーナの三人の息子の中の一人、もしくはその関係者の可能性があります。

 それはともかくも、こんな好好爺としたキューブリックを見るとなんだかホッとしますね。

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ウォルターとルース。父娘はとてもよく似ている。



 1888年7月1日にウィーンで生まれたウォルター・S・ソボトカは、1907年にフランツ=ジョセフ中等学校を卒業。その後ウィーン工科大学に入学し、1912年にエンジニア・アーキテクトの称号で学位を取得。第一次世界大戦中から戦後の1919年から1923年にかけて、オーストリア軍の役員を務めながらウィーンにある会社カール・コルンで働き、ウィーンとチェコスロバキアの家族のために家具や墓のモニュメントを製作しました。

 コルンを退職したソボトカは、1927年にドイツのシュツットガルトにドイツ工作連盟によって建てられたヴォイセンホーフ・ジードルンク(モダニズム建築の実験住宅群)において、建築家ピーター・ベーレンスの家のインテリアを設計し、手数料を受け取るようになりました。彼はまた、1932年に大規模住宅プロジェクト「ウィーンの都市とOsterreichischer Werkbund Siedlungのための2つの家」の住宅を設計しました。ソボトカはオーストリアのドイツ工作連盟に密接に関わり、2年間に渡って取締役会副会長を務めました。主に家具の展示会がソボトカの仕事の中心になり、1937年のパリ世界博覧会のオーストリアのパビリオンを設計しました。

 オーストリアの政治情勢がユダヤ人に対して厳しくなり、ソボトカは米国に移住を決意、1938年にニューヨークに上陸しました。1941年、彼はピッツバーグ大学のリテール研修局で教鞭を執り、5年後にテキスタイル・アプライド・アーツの助教授になりました。彼はまたカーネギー工科大学で、1941年から1948年までインテリア装飾の助教授として2年間建築を教えました。

 ソボトカの米国でのプロのキャリアは、ゲブルダー・トネネット(インテリアメーカー)とラッセル・ライト(食器メーカー)の住宅の内装と家具のデザインが中心でした。彼はまた、RKOのために多数の劇場のインテリアをデザインしました。彼の建築はモダニストとして分類することができますが、機能主義を完全には受け入れておらず、彼の装飾的なインテリアは、20世紀初頭のウィーン受けた教育の影響が明らかです。ソボトカは他のウィーンの建築家、特にヨーゼフ・フランクと生涯に渡って友好関係を維持しました。このコレクションにある未発表の2つの原稿はソボトカの設計アプローチを理解する上で重要です。プレハブ住宅と彼の理論的論文「デザインの原則(Principles of Design)」の中でソボトカは、複雑なデザインのプロセスを色や割合など、さまざまな要素に分解しました。ソボトカは1958年にピッツバーグ大学を退職し、テキスタイル・アンド・アプライド・アーツ(小売業)の名誉教授の称号を得ました。その後、1972年5月8日にニューヨークの自宅で死亡しました。

(引用元:コロンビア大学ライブラリー/ウォルター・ソボトカ




 キューブリックとルースは1952年に共通の知人デイビッド・ヴォーガンを通じて知り合います。結婚は1955年1月15日。その頃父親のウォルターはすでにピッツバーグ大学に単身赴任中で愛人を囲っていたそうです。ニューヨークに残された母親は、それを知りつつも忍耐の日々を過ごしていましたが、そんな母の姿に心を痛めていたのが娘のルースです。キューブリックはルースと結婚後、『現金…』の制作でハリウッドに移り住みましたが、多忙なキューブリックは家を空けがちでした。一人寂しく見知らぬ土地で夫の帰りを待つその姿が、自分の母と同じだと気づくにの時間はかからなかったでしょう。その後キューブリックは単身『突撃』の撮影でドイツへ向かいますが、ナチスドイツの迫害からニューヨークに逃れたルースは同行することはしませんでした。この時点でキューブリックとルースの不和は確定的なものになっていました。

 そのキューブリックはドイツでナチスドイツの関係者の娘、クリスティアーヌと恋に落ちます。ルースにとってそれは受け入れがたい事実で、結局二人は離婚してしまうのですが、キューブリックの当時のパートナーのジェームズ・B・ハリスはなんとかキューブリックにクリスティアーヌとの結婚を思い留まらせようとしました。しかしキューブリックはそれを受け入れずクリスティアーヌと結婚。その結果ハリスはクリスティアーヌにずいぶんと冷たく(厳しく)当たったようで、その確執は『キューブリック・リメンバード(キューブリックの素顔)』のクリスティアーヌのインタビューからも伺い知ることができます。

 1957年にキューブリックと離婚したルースはニューヨークに戻り、ニューヨーク・シティ・バレイ団の一員として1958年に来日しています。1961年に退団後は振付師や、演劇を学んでオフ・ブロードウェイで舞台に立つなどしていましたが、1967年に41歳で病死してしまいました。つまり父親より先に亡くなってしまっているのです。友人のデイビッド・ヴォーガンによると「ルースは生きる気力を失っていた」そうです。

 父親のウォルターや前夫のキューブリックがルースにいかほどの影響を与えたかは想像するしかありませんが、『非情の罠』でバレエダンサーとして出演し、『現金…』で美術監督を担当した頃をピークに、その後の運命は下降線をたどりました。若き日の美しいルースの動く姿はこちらで観ることができます。クリステュアーヌの影に隠れて、あまり語られることのないルースの存在ですが、「初期キューブリック」にとって重要な存在であったことは間違いないでしょう。

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