キューブリックの家族たち

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イギリス・セントオールバーンズにあるキューブリック邸の一室に設けられたジャケット・レコードのスタジオと、ジャック・ホッブスのインタビュー。




 キューブリックの義長女(クリスティアーヌの連れ子)、カタリーナ・キューブリックはフィリップ・ホッブスと結婚(現在は離婚)し、三人の子供をもうけました。長男アレックスは『アイズ ワイド シャット』でトム・クルーズの患者の少年役して出演していますが、次男ジョーはゲームデザイナー、そして三男のジャックはミュージシャンを目指しましたが挫折し、現在はインディーズレーベル「ジャケット・レコード(Jacket Records)」を立ち上げキューブリック邸内にスタジオを開設、プロデューサー兼ミュージシャンとして活動しているそうです。

 詳細はウェブサイトがありますので、そこで見ることができますが、MVの制作も行っているようで、以下のMVのロケ地はキューブリック邸内です。


Hope - Sanctuary (Strings version) | Live


Seb Wesson feat. Hope - Deep Water (Live in the Library)

 肝心のジャック本人の動画ですが、再生数がこれでは寂しい限り。でも顔が母親(カタリーナ)にそっくりですね。



 キューブリックの孫といえば、次女アンヤの息子、サム・キューブリック=フィニーはデスメタルバンド「シールズ」のボーカル兼ギタリストとして活動中。同じキューブリックの孫として、負けずに頑張って欲しいものです。


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『Family Love: A Glimpse of the Real Stanley Kubrick(家族愛:スタンリー・キューブリックの真実を垣間見る)』という動画がVimeoにありましたのでご紹介。

 管理人が知る限り、ほとんどの写真は見たことがありません。特に孫と戯れる邸宅内の写真はどこから手に入れたのでしょう? 孫のおもちゃ(車やマジックハンド)を興味深そうに触るキューブリックの姿を見ることができるなんて思いもしませんでした。これを見る限り孫にとってキューブリックは「いつも同じ格好をしているおじいちゃん」であったことがよくわかります(笑。

 撮影時期は、最初の写真が『時計…』の頃で、『バリー…』『シャイニング』と時系列に並んでいて、最後の集合写真は『アイズ…』の頃でしょう。この「時系列」の判断ができるのは相当のマニアか、関係者以外にはありえない気がします。投稿したアンドリューなる人物の詳細はわかりませんが、長女のカタリーナの写真が多いことから、カタリーナの三人の息子の中の一人、もしくはその関係者の可能性があります。

 それはともかくも、こんな好好爺としたキューブリックを見るとなんだかホッとしますね。
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ウォルターとルース。父娘はとてもよく似ている。



 1888年7月1日にウィーンで生まれたウォルター・S・ソボトカは、1907年にフランツ=ジョセフ中等学校を卒業。その後ウィーン工科大学に入学し、1912年にエンジニア・アーキテクトの称号で学位を取得。第一次世界大戦中から戦後の1919年から1923年にかけて、オーストリア軍の役員を務めながらウィーンにある会社カール・コルンで働き、ウィーンとチェコスロバキアの家族のために家具や墓のモニュメントを製作しました。

 コルンを退職したソボトカは、1927年にドイツのシュツットガルトにドイツ工作連盟によって建てられたヴォイセンホーフ・ジードルンク(モダニズム建築の実験住宅群)において、建築家ピーター・ベーレンスの家のインテリアを設計し、手数料を受け取るようになりました。彼はまた、1932年に大規模住宅プロジェクト「ウィーンの都市とOsterreichischer Werkbund Siedlungのための2つの家」の住宅を設計しました。ソボトカはオーストリアのドイツ工作連盟に密接に関わり、2年間に渡って取締役会副会長を務めました。主に家具の展示会がソボトカの仕事の中心になり、1937年のパリ世界博覧会のオーストリアのパビリオンを設計しました。

 オーストリアの政治情勢がユダヤ人に対して厳しくなり、ソボトカは米国に移住を決意、1938年にニューヨークに上陸しました。1941年、彼はピッツバーグ大学のリテール研修局で教鞭を執り、5年後にテキスタイル・アプライド・アーツの助教授になりました。彼はまたカーネギー工科大学で、1941年から1948年までインテリア装飾の助教授として2年間建築を教えました。

 ソボトカの米国でのプロのキャリアは、ゲブルダー・トネネット(インテリアメーカー)とラッセル・ライト(食器メーカー)の住宅の内装と家具のデザインが中心でした。彼はまた、RKOのために多数の劇場のインテリアをデザインしました。彼の建築はモダニストとして分類することができますが、機能主義を完全には受け入れておらず、彼の装飾的なインテリアは、20世紀初頭のウィーン受けた教育の影響が明らかです。ソボトカは他のウィーンの建築家、特にヨーゼフ・フランクと生涯に渡って友好関係を維持しました。このコレクションにある未発表の2つの原稿はソボトカの設計アプローチを理解する上で重要です。プレハブ住宅と彼の理論的論文「デザインの原則(Principles of Design)」の中でソボトカは、複雑なデザインのプロセスを色や割合など、さまざまな要素に分解しました。ソボトカは1958年にピッツバーグ大学を退職し、テキスタイル・アンド・アプライド・アーツ(小売業)の名誉教授の称号を得ました。その後、1972年5月8日にニューヨークの自宅で死亡しました。

(引用元:コロンビア大学ライブラリー/ウォルター・ソボトカ




 キューブリックとルースは1952年に共通の知人デイビッド・ヴォーガンを通じて知り合います。結婚は1955年1月15日。その頃父親のウォルターはすでにピッツバーグ大学に単身赴任中で愛人を囲っていたそうです。ニューヨークに残された母親は、それを知りつつも忍耐の日々を過ごしていましたが、そんな母の姿に心を痛めていたのが娘のルースです。キューブリックはルースと結婚後、『現金…』の制作でハリウッドに移り住みましたが、多忙なキューブリックは家を空けがちでした。一人寂しく見知らぬ土地で夫の帰りを待つその姿が、自分の母と同じだと気づくにの時間はかからなかったでしょう。その後キューブリックは単身『突撃』の撮影でドイツへ向かいますが、ナチスドイツの迫害からニューヨークに逃れたルースは同行することはしませんでした。この時点でキューブリックとルースの不和は確定的なものになっていました。

 そのキューブリックはドイツでナチスドイツの関係者の娘、クリスティアーヌと恋に落ちます。ルースにとってそれは受け入れがたい事実で、結局二人は離婚してしまうのですが、キューブリックの当時のパートナーのジェームズ・B・ハリスはなんとかキューブリックにクリスティアーヌとの結婚を思い留まらせようとしました。しかしキューブリックはそれを受け入れずクリスティアーヌと結婚。その結果ハリスはクリスティアーヌにずいぶんと冷たく(厳しく)当たったようで、その確執は『キューブリック・リメンバード(キューブリックの素顔)』のクリスティアーヌのインタビューからも伺い知ることができます。

 1957年にキューブリックと離婚したルースはニューヨークに戻り、ニューヨーク・シティ・バレイ団の一員として1958年に来日しています。1961年に退団後は振付師や、演劇を学んでオフ・ブロードウェイで舞台に立つなどしていましたが、1967年に41歳で病死してしまいました。つまり父親より先に亡くなってしまっているのです。友人のデイビッド・ヴォーガンによると「ルースは生きる気力を失っていた」そうです。

 父親のウォルターや前夫のキューブリックがルースにいかほどの影響を与えたかは想像するしかありませんが、『非情の罠』でバレエダンサーとして出演し、『現金…』で美術監督を担当した頃をピークに、その後の運命は下降線をたどりました。若き日の美しいルースの動く姿はこちらで観ることができます。クリステュアーヌの影に隠れて、あまり語られることのないルースの存在ですが、「初期キューブリック」にとって重要な存在であったことは間違いないでしょう。
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ballet
『非情の罠』のバレエシーン。踊っているのは当時キューブリックの妻だったルース・ソボトカ。このバレエを実際に日本で観た人がいる、というのは実に羨ましい限りだ。



 この一覧によると1958年3月17日〜3月30日までは新宿コマ劇場、4月1日〜6日までは産経ホールで公演したようです。キューブリックとルースは1955年1月11日に結婚しましたが、1956年10月頃には夫婦関係はかなり怪しい状況になっていました。その後キューブリックはハリスと共にドイツに渡り、『突撃』の制作に取りかかります。それは1957年の春頃まで続き、『突撃』の初公開はベルリンでこの年の6月です。この時点でキューブリックは既にクリスティアーヌと出会っていますので、二人の離婚はもはや決定的です。どちらにしても1958年3月にバレエ団の一員として来日するためには、準備やリハーサルなどを考えると少なくとも1957年の後半にはキューブリックの帰りを待っていたハリウッドを離れ、ニューヨークに戻らなければなりません。この来日公演の記録に旧姓の「ソボトカ」で掲載されているところを見ると、離婚は1957年ということで間違いないと思われます。

 つまりルースとクリスティアーヌは入れ替わる形でルースはハリウッドからニューヨークへ、クリスティアーヌはドイツからハリウッドへ移ったことになります。果たして二人の間で直接の対決はあったのでしょうか? ルースもキューブリックも逝去してしまっている現在、それを証言できるのはクリスティアーヌだけですが、この件に関して何かを語ることは今後もないでしょう。なぜならルースはナチスドイツに故郷のウィーンを追われ、ニューヨークに逃げて来たユダヤ人、クリスティアーヌはそのナチスドイツの宣伝大臣だったゲッペルスのお抱え監督、ファイト・ハーランを叔父に持つナチスに近い立場のドイツ人だからです。そして、完全に真逆の立場である二人の女性の間に挟まれたのが、生まれも育ちもニューヨークのユダヤ系アメリカ人であるキューブリック。なんとも皮肉な運命の巡り合わせとしか言いようがないですね。

 このルースを擁した「ニューヨーク・シティー・バレエ団」の公演の詳細はこちらで確認することができます。
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 マサチューセッツ,ボストン出身ポストハードコアバンドIce Nine Killsが新曲 “Enjoy Your Slay feat. Sam Kubrick” のLyric Videoを公開しました。

〈以下略〉

(全文はリンク先へ:ALTERNATIVE PRESS JAPAN/2017年5月27日




 イギリスのデスメタルバンド「Shields」のボーカル兼ギターで活動中のキューブリックの実孫サム・キューブリック(=フィニー)ですが、なかなかインディーズレベルから脱却できないためか、メジャーシーンで活動中のIce Nine Killsの新曲にボーカルとして参加したようです。しかもその曲は『シャイニング』のオマージュ満載。

 『Enjoy Your Slay feat. Sam Kubrick』ってもうキューブリックの孫であるという看板を背負う気マンマンですが、所属するShieldsの方はこれからどうするんでしょう? Youtubeでの再生数がここまで違うと、現実を突きつけられた気がしてなんだかとっても辛いですね。その所属するShieldsのYouTubeチャンネルはこちらになります。どれがサム君かは・・・一目瞭然ですね(笑。

 しかし、キューブリックの孫の活動ぶりを日本語で紹介した記事を初めて見ました。単なる邦訳記事だとしても貴重です。果たして彼らがメジャーになる日が来ることがあるのか? そして来日は!? 今後に注目です。
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