アメリカの映画監督であるスタンリー・キューブリックは、「2001年宇宙の旅」「時計じかけのオレンジ」「シャイニング」「フルメタル・ジャケット」など、数々の有名作品を監督してきました。そんなキューブリックが「映画に込めたメッセージ」について解説したムービーが、YouTubeで公開されています。

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(全文はリンク先へ:Gigazine/2018年2月23日



 ファンならよくご存知のエピソードから「ん?」と思うものまでありますが、ひとつ確実なのは「キューブリックの映画は言語ではなく、映像によって伝える情報が多いのも特徴」という点です。キューブリックは「映画は演劇を映像にしたものではない」と考えていて、「映像で表現する」ということに生涯こだわり続けました。それは劇映画処女作『恐怖と欲望』からすでに観て取れるのですが、キューブリックの思っていた様な反響を得られず、次作『非常の罠』から旧来的な劇映画の手法を仕方なく取り入れています。それは『ロリータ』まで続くのですが、『博士…』から本来やりたかった「映像で語る」という表現を徐々に復活させ、それは『2001年…』の成功によってキューブリック作品の「核心」として「確信」に至ります。

 当然ですが「映像で表現する」ということは「言語に頼らない」ということになります。キューブリックは「説明すると魔法(マジック)が消えてしまう」と考えていて、ストーリーを進めるために言語(セリフやナレーション、ボイスオーバーなど)を使用しても、物語のテーマや核心については「映像で語る」ということを徹底しました。それが「キューブリック作品は難解」という印象を与える最大の要因ですが、それは映画を観る際に言語慣れしすぎているためであって、キューブリック作品と対峙するためには、観客がそのスタンスを切り替えなければなりません。「言語志向」で「映像志向」の映画を観ても面白くないばかりか、とんちんかんな批判しかできないでしょう。その典型例が「星新一による『2001年…』批判」だと思います。

 ただ、この「勘違い」はレアケースではなく、フィルマークスを見てもやはり「とんちんかんな批判」は現在でも散見されます。残念ながらキューブリックが考えたほどに観客は「進化」しなかったようですが、大型TVやBDの普及より「名作映画を大画面・高画質で何度も観る」という映画ファンにとって夢のような時代が実現し、キューブリック作品が「正しく」理解されるべき状況は整っていると思います。それは、何度も繰り返される衛星放送での放映や、DVDやBDの普及率が示す通りです。キューブリック作品が未だに「輝き(シャイニング)」を失わないのは、そういった映画を視聴するテクノロジーの進化に適応できる完成度が、すでにキューブリック作品に備わっていたからこそだと考えています。