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星新一(Wikipedia)

 日本を代表するSF作家、星新一が『2001年…』に批判的だったのは知っていたのだが、その批判記事を見つける事ができたので、それを検証してみたいと思う。
(注:※は管理人による注釈で、元記事にはありません)



 シネラマ『2001年宇宙の旅』ぐらい、いろいろな意味で話題になった映画は最近においてないのではないかと思う。なにがなんだかさっぱりわからないのである。私は小松左京といっしょに映画を見たわけだが、帰りにビールを飲みながら数時間にわたり、ああであろうかこうであろうかと話しあった。私も彼も日本SF界では五指に数えられる(なんと作家の層の薄いことよ)のはずだかが、いわく不可解というのが結論だった。

 もっとも、見るにたえない愚作というわけではなく、むしろ一見の価値のある精密さと幻想美をそなえた作品ではある。ただそれが調和していず、はじめは科学の如く、終わりはナゾナゾの夢の如しという形のものだ。

〈以下映画の感想なので中略〉

 しかし、わけがわからないままというのもいい気分ではない。私は「SFマガジン」に電話をして「いったい原作の小説(※小説版の事)はどうなっているんだ」と聞いた。編集長の福島氏は不在だったが、SF翻訳家の伊藤典夫氏(※小説『2001年…』の翻訳者)がそこにいて、彼から説明を聞くことができた。そして、なるほどとはじめてわかった。

〈以下映画の解説なので中略〉

SFとしてはすぐれたアイデアであり、原作では描写もリアルで面白い物語だという。この映画について難解だという評があるが、製作者の説明不足というべきである。難解と説明不足とは意味が違う。

 かくして私は筋を知りえたが、なぜこんなふうに仕上げたのかの疑問は残る。途中で予算を使い果たしたのではないか。クラークの原作小説を売るため(発売は映画封切り後である)わざと後半で手を抜くよう圧力をかけたのではないか。

〈以下星氏の映画製作の裏事情の推測なので中略〉

・・・などといった傑作な意見も出てくるわけである。しかし、小松左京氏は、まじめで卓越な新説を出した。こうである。「超大型画面の映画となると、従来のように構成のきちっとした物語はむかぬのではないか。観客の想像や判断にゆだねる箇所を残しておく必要がある」

 指摘されてみると、そうかも知れぬと思う。マックルーハン以来、媒体論がさかんだが、同じ映画といってもスタンダード・サイズとシネラマとはまったくちがう。将来、観客席の周囲をとりまく360度映画も出現するだろうが、そこでは既知の映画手法は適用しないのである。推理映画など、伏線の張りようがない。超大型画面に展開すべきものは物語でなく、見世物であり旅であり、美しき壮大さであることが要求される。

 カブリック監督がそこまで考えた上でこう作ったとしたら、偉大なる先駆者と呼ぶべきことになる。宇宙空間を題材にとり、シネラマ画面に描いたことは、すばらしい目のつけどころである。観客を宇宙にみちびいてくれたことは確かなのだ。原作どおりに作ったら、宇宙人だのその都市などを出さなくてはならず、チャチになり、観客は別の意味で不満を持ったに違いない。監督が製作途中にこれに気付き、変更したのかも知れぬ。(※この指摘は鋭い)

〈中略〉
 
 そして、SF映画の本質、SFの本質ということにもなるのだが、それについてちょっと触れなければならない。恋愛映画、探偵映画、西部劇などでは、主人公がだれかは明確である。しかしSF映画はそうではない。たとえばこの映画において、乗員のフロイド博士(※ボーマン船長の間違い?)を主人公と断言できるだろうか。いわゆる主人公であるからには、特有の人生や個性がただよっていなければならぬ。

〈中略〉

ところが、このフロイド博士(※ボーマン船長の間違い?)、性格がまったくわからぬ。SF映画は、宇宙的な人物を登場させ、人類の象徴の如く扱わなければならない点がある。これまでSF映画が低く見られ、また事実くだらぬ作品が多かったのもたしかだが、それは既存の常識で見ながら人物描写を期待してしまうからである。

 では、SF映画において、主人公は人類そのものかというと、そうともいいきれぬ。宇宙における現象、日常からの飛躍のしかた、それ自体が主人公といえるものである。さらに、それらの複合そのものによって描き出される人類の危機感や運命そのものが主人公でもあるのである。一般映画に類似を求めれば、革命を描いた「戦艦ポチョムキン」や、戦争を描いた「史上最大の作戦」のたぐいである。主人公不在ともいえるし、すべてが主人公ともいえるのである。

 これだけでもむずかしいのに、SFには飛躍がある。それらバランスをわきまえた上で作らなければならぬのだから、SF映画はまったく容易ではない。観客のほうでもこの点については理解すべきであろう。(※以下、良い例として『猿の惑星』『ミクロの決死圏』『華氏451』を挙げてている)

 なんだかんだといいながらも、以上あげた4本の映画は、見るにたえるものだった。このところ、SF映画は質的にも上昇期にある。私たち愛好家にとってうれしいことだ。「2001年宇宙の旅」をSF映画として宣伝してくれなかったことも、口では文句を言うが、内心ではありがたいと思っている。SFとはああいうわけのわからないものだとの印象を、一般の人に持たれないですむからだ。やがて翻訳の出る原作を読む人は、あらためてSFの醍醐味を知ってくれるだろう。

〈以下略〉

(出典:スクリーン 1968年7月号『SF映画の楽しさと問題点をさぐる』より)




 これを読むと星新一は内容を批判しているのではなく、その表現方法・手段を批判しているようだ。その論点は2点あり、一点は「説明不足」である点、もう一点は「主人公が個人なのか人類なのか明確でなく、描写にバランスを欠く」点だ。

 まず、一点目の「説明不足」だが、キューブリックは「人類とは一体何者なのか?」という壮大な命題を「観て、感じて、そして考えろ」とこの作品で提示しているのに、「説明不足」とか「説明しないのは卑怯」という批判は的外れという他ない。宿題を出した先生に向かって、答えを教えろと迫っているようなものだからだ。

 次ぎの二点目の「描写にバランスを欠く」という批判、これもおかしい。星新一はフロイド博士(おそらくポーマン船長の間違い)が主人公か否かはっきりしない点を批判しているが、正確には主人公は4つのパートにそれぞれ4人(?)いる。「人類の夜明け」は月を見るもの、「TMA-1」はフロイド博士、「木星計画」はボーマン、「無限の彼方へ」は異星人(スクリーンには登場しない)と、明確に描写している。「無限…」は少々難解なので致し方ない部分はあるにせよ、残りの三つははっきりとしているのに、それさえ理解できなかった星新一が「描写にバランスを欠く」などという批判をしても説得力など持ちようがない。

 キューブリックが土壇場で冒頭の関係者インタビューやナレーションを外し、言葉による映画の説明を廃したために難解という印象を持たれてしまったのは事実だ。だが『2001年…』はストーリーの全てを「映像で説明」した映像志向の作品だ。旧来の「台詞で説明」してくれる演劇志向の作品ではない。この批判は映像志向の作品を、演劇志向で論じているから的外れになってしまっているのだ。星新一は批判の入口から完全に間違ってしまっている。これではまともな論評などできるはずがない。

 当時のSF最前線にいたSF作家でさえこの程度の認識しかなかった『2001年…』。当時の多くの一般の観客を困惑させたであろう事は容易に想像つく。しかし「メイキング・オブ…」を読めばわかるように、キューブリックの意図にしっかりと応えていた観客もいたのだ。その理解した観客の中に日本のSF界を代表する二人(星新一はともかく小松左京も理解に苦しんでいたとは・・・)が入っていないのは甚だ残念という他ない。当時の日本のSF(小説)界の混乱ぶりが、こういった記事ひとつからも推察できるという意味では、貴重な資料と言えるだろう。