2013年03月

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Stanley Kubrick’s ‘The Shining’ Assistant Calls ‘Room 237′ “Pure Gibberish”!

(以下リンク先へ:Worst Previews/2013年3月28日)
(元の記事:The New York Times/2013年3月27日)


 上記以外にもいくつか同じ記事がでていますね。ここで証言しているアシスタントとは、『バリー・リンドン』以降アシスタントとして常にキューブリックの身近にいたレオン・ヴィタリです。もちろん『シャイニング』の製作にも深く関わっていて『メイキング・ザ・シャイニング』でもダニーの遊び相手をしてあげている場面に映っています。

 そんな彼が、例のデタラメでっち上げ金儲け「フィクション(notドキュメンタリー)」映画『ROOM237』を一刀両断しています。まあ、レオンを始め当時の制作スタッフには一切取材せずにでっち上げたゴミ映画ですので、この反応は予想通りですね。レオンは「全部たわごと」まで言い切っています。(笑 

 もしこの映画がヒットするような事があれば、次の矛先は多分『アイズ ワイド シャット』でしょうね。ネット上ではすでにキューブリックの死と絡めた陰謀説が飛び交っていて、活発に活動しているサイトもあるようです。カネの亡者が飛びつくのも時間の問題でしょう。

 こんな映画をカネを払ってまで観て、墓荒らしのような連中の片棒を担ぐマネはファンなら絶対するべきではありません。もちろんこんな事をキューブリックが喜ぶはずもなく、生きていれば訴訟も含め、強硬な態度に出ていたでしょう。

 まあこういった連中はどこにでも湧いて出てくるものですが、某映画雑誌はご丁寧に紹介記事まで掲載したそうです。日本のマスコミが「マスゴミ」と言われるのも仕方ないですね。ちょっと調べればこの映画がうさん臭い事などすぐ分かるのに。それすらしないのは編集者やライターの知能レベルがその程度、という事なのでしょう。
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 『2001年』でディスカバリー号に搭載されていたコンピュータHAL9000。何故HALは反乱を起こし、人間を殺害するに至ったか。これは一般的には「正確な情報を正確に処理する事を義務づけられた知的コンピュータであるHALは、乗組員にはモノリスの情報を隠しながらも、同時にモノリスと地球外知的生命体の調査は行うように命令されていたため、何も知らされていない乗組員と共同生活の中でその矛盾に苦しみ、一種の精神疾患のような状態に陥った」「挙動不審なHALの状態に乗組員は危機感を憶え、高度な論理回路だけ切断するという検討を始めた。それを自身の死刑宣告だと判断したHALは人間を排除し、知的生命体の調査は自身の能力だけでするしかない、と考え実行に移した」とされています。

 この説明を納得するか否か、また他の説明が可能か等はここでは検証しません(個人的には十分納得できるレベルだと思いますが)。では、何を検証するのかというと「どうしてキューブリックとクラークはこんな設定を持ち出して来たのか?」です。つまり「制作側の事情」を検証してみたいのです。

 実はその裏話の一部始終が『失われた宇宙の旅2001』で語られています。当初はクルー全員が無事に木星圏にたどり着き、ビック・ブラザー(巨大なモノリス)の詳細な調査が行われる予定でした。その後、スペース・ポッドに乗り単独でビックブラザーの調査に向かったボーマンが変化したモノリスに飲み込まれる、という流れになっています。(これらのプロットはしょっちゅう二転三転したようです)

 最終的にこの案はボツになり、ボーマンだけが生き残る事になりました。その理由は明確ではありませんが、木星探査のプロセスを映像化するには予算が足りない、または当時のSFX技術で映像化するにはハードルが高すぎる(実際木星を映像化するだけでも悪戦苦闘していました)など理由はいくらでもありそうですが、クラークは「そもそもオデッセウスも唯一の生存者だから」と説明しています。つまり神話との共通性を示唆したかってのでしょう。

 ではどうやってボーマン以外の乗組員を殺害するのか?当初は「ホワイトヘッド(映画ではプールに名前が変更)のポッドが故障により暴走しアンテナと衝突、ホワイトヘッドは回収不可能になりアンテナも失われる。その後人工冬眠中のクルーも蘇生に失敗する」というものでした。これは「偶然にも事故が連発する」という説得力のないもので、当然のようにボツになります。が、同時にヒントももたらされました。上記の原案の中には「ボーマンがアンテナ回収のためポッドで離船しようとした際、コンピュータ(この時はアテーナという名前でした)にそれを断られる」というシーンがあります。これをふくらませて「全システムを管理するコンピュータが反乱を起こしクルーを殺害する」という案に落ち着きました。

 つまり「HALの反乱」はボーマン一人を生き残らせるための後付けの設定でしかなかったのです。当然先に述べたその原因も後付けです。でもこれによって興味深い偶然が起こります。つまり「人間と機械、同じく知性を持った二つの種のどちらが未来を勝ち取るかという生存競争」という側面がこの物語に付加されたのです。これにはキューブリックもクラークも「しめた」と思ったに違いありません。クラークはこの解釈を効果的に続編『2010年宇宙の旅』(これ以降も)に取り込み、キューブリックは『A.I.』で正面からこの問題に取り組む予定でした。

 こんな裏事情を知ってしまうと「な〜んだ」となってしまうかも知れません。クラークは「意図したものもあれば、偶然そうなったものもある」と語っています。その偶然がどの部分を指すのかはともかく、この素晴らしいアイデアは、彼らが繰り広げた「際限のないブレーンストーミング」の結果呼び込み事のできた偶然ではない「必然」だったと思っています。
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 有名な『プライベート・ライアン』のノルマンディー上陸作戦のオハマ・ビーチ上陸シークエンスですが、これについてスピルバーグはキューブリックの『博士…』の影響を明言していて、『シンドラーのリスト』の際キューブリックに対して

 「(博士の異常な愛情の)パープルソン空軍基地奪還のシークエンスを憶えていませんか?あなたはあのすごいシーンを長焦点レンズと手持ちカメラで撮りました。基地を撃つ兵士や逃げる記者たち・・・全部手持ちでしたよね」「だから通信隊のカメラと、それにあなたの影響で私はストーリーをああいうやりかたで語り、その後(の)『プライベート・ライアン』でもそうしたんですよ」

『キューブリック全書』より)


 と語ったエピソードを紹介している。

 この『プライベート・ライアン』が与えた影響は大きく、当時まだタブーだった戦場の凄惨な描写と、これが戦場の色だと言わんばかりの灰色のくすんだ色彩は、その後の戦争映画のビジュアル面を決定づけたと言ってもいい。ただそれは同時に「戦争=悲劇」の図式のみを強烈に印象づけるものとなってしまい、戦争の本質的な意味を問いただすといった作業は『フルメタル…』以降現在でも遅々として進んでいないのは残念だ。
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時計じかけのオレンジ (ハヤカワ文庫 NV 142) [文庫](amazon)

第21章が掲載されていない旧版『時計じかけのオレンジ』

 ここで小説『時計…』と映画版『時計…』の制作から公開後の経緯と、バージェスの反応について考察し、推論を展開してみた。だが今度は問題の第21章そのものについて考察し、全く個人的な想いではあるが、ある結論を記してみたい。

 この第21章、読んでいただければ分かるように、それまでのトーンと全く整合性がとれていない。ここに描かれている部分には、権力者も、反権力者も登場しない。あの収監と治療と自殺幇助と逆治療の日々がまったく「なかった」かのような扱いをされている。しかも他の章に比べて極端に短い。まるでやっつけ仕事のようにさえ感じてしまう。

 もし、バージェスが本気で希望を持った終わり方にしたいと思ったのなら、アレックスがどうやって権力者や反権力者の思惑から抜け出し、自由と自立を勝ち取るか描くはずだ。小賢しいアレックスの事である。内務大臣の宣伝担当という役柄を最大限逆利用するとか、収容されている反体制グループを解放、煽動し権力者にぶつけるとか、なにか新しい仲間〈ドルーギー〉と共に行動を起こすに違いない。そうやって両者にたっぷりと仕返しをした後のこの21章なら充分納得できる。だが今の第21章では単なる権力の犬のままだ。その権力の犬のまま嫁を捜して結婚し、大人になって暴力から卒業する・・・もしかしてこれがバージェス流のブラックな結末のつもりなのだろうか?権力者が個人の尊厳を踏みにじってまで強要したルドビコ療法は間違ってました。市内に警察官を多く配置したら治安は良くなりました。それに若者は大人になればいずれ暴力はやめるのだから、自然に任せておくのが一番いい。そんな結末を読者に信じろと?

 冗談ではない。暴力は生きる力だ。暴力性こそ人間性だ。暴力性を否定する事は人間性を否定する事だ。暴力性は老若男女誰もが持ち合わせている。権力も暴力だ。反権力も暴力だ。暴力を止めるのも暴力だ。宗教も言論も暴力だ。世界は暴力で溢れている。それが現実だ。それから目を背けるな。第20章までバージェスはそう描いていたではないか。それが何故突然第21章で「大人になったから暴力から卒業」で終わってしまうのだ?

 キューブリックはこの件に関して

 「それ(第21章)は納得のいかないもので、文体や本の意図とも矛盾している。出版社がバージェスを説き伏せて、バージェスの正しい判断に反して付け足しの章を加えさせたと知っても驚かなかった」

(『ミシェル・シマン キューブリック』より)


と1972年のインタビューで語っている。この時、出版社の編集担当者がどう説き伏せたのかは分からない。ただバージェスは60年代始めはまだ経済的に恵まれてはいなかっただろうことは推察できる。「本を売りたければハッピーエンドにした方がいい」そう言われたら従ってしまうだけの素地はあったかも知れない。また辛い経験を基に執筆したので、この作品に対してあまり思い入れもなかったのかも知れない。そんな投げやりな気持ちのままこの第21章が書かれたというのなら、充分に納得できるし理解もできる。

 それにアメリカでの【完全版】の出版時期(1986年)の遅さも気になる要因の一つだ。バージェスは自著を【完全】に取り戻すのになぜ20年以上もかけてしまったのだろうか。もしかしたら本心では【旧アメリカ版】こそが本来の『時計…』だと思っていたからではないだろうか。バージェスが頑にこの第21章にこだわり、それを削ったアメリカの出版社やキューブリックを批判していたのは周知の事実だ。だがそれは本当に本心からの言動だったのだろうか・・・それも本人が死去してしまった今となっては闇の中だ。

 以前ここでは確証がないという理由もあって「違和感・微妙」という表現を用いた。ただ個人的な話をすれば今後も【完全版】を手にする事はないだろう。自分にとって『時計じかけのオレンジ』とは小説も映画も第20章で終わっているからだ。第21章まであるのが【完全版】だと理解した上でも、第20章では完結していないといくら指摘されても、バージェスがこの物語をいったん第20章で終わらせていたという事実がある限り、旧版の小説『時計じかけのオレンジ』をずっと大切に持っていようと思っている。
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 『時計…』で、アレックスが第九を聴きながら夢想する夢の一つがこの1966年公開の『恐竜100万年』のワンシーンです。上記の予告編にも使われていますね。特撮ファンにとっては「あのレイ・ハリーハウゼンの名作」として名高いそうです。

 『キャット・バルー』と同様「アレックスは映画で見たことを想像するだろう」と、これらワンシーンを採用したそうですが、これもエロくサディスティックなのでアレックスの好きそうな映画ではありますね。


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