2013年01月

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決定版 2001年宇宙の旅 (ハヤカワ文庫SF) [文庫](amazon)


 ヲタクアイドルとして有名な中川翔子さんの『2001年宇宙の旅』(小説版)のインタビューがありましたのでご紹介します。

 『2001年宇宙の旅』は先に映画を見ていました。ナレーションもなく、謎めいている。もっと深く知りたくて本を読んでみたら、宇宙船の目的地が、映画では木星なのに、土星なんですね。サルたちの生態、モノリスを月に埋め込んだ者の描かれ方、コンピューター「HAL」との心理戦……映画とは違う感じで、戦慄(せんりつ)を覚える瞬間がいくつもありました。

一部引用:ブック・アサヒ・コム/2012年04月22日




 常日頃からオタクを公言していた彼女が、日本のマンガやアニメに引用されまくっている『2001年…』とこの小説に触れていた事には驚きませんし、感想もまあ当たり前のものかな、と思いますが、これを読む限り彼女はちゃんと『2001年…』の本質に思いを馳せるまで到達しているようです。でないと「思い出す本 忘れない本」というテーマを与えられて『2001年…』を選ぶなんてことまずないですからね。

 「小説を読まないと理解できない映画なんて欠陥云々」という評もよく見かけますが、映画→小説→映画という順番で鑑賞すると、映画は映像でちゃんと「説明」してるんですよね。例えば猿人が一瞬モノリスをフラッシュバックするとか、月のモノリスがちゃんと陽を浴びてるとか。だから当時は「なんで気づかなかったんだ!」と自分の未熟さ加減に地団駄を踏んだものですが、最近の視聴者には荷が重いようでこのありさま。でも彼らは悪くないでしょう。目先の利益ばかり追い続け、低レベルの映画や音楽を垂れ流し続けた大人が悪いのです。反省しましょう。


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ロリータ [Blu-ray](amazon)


 キューブリックの『ロリータ』はすこぶる評判が宜しくない。曰く「ロリータがロリじゃない」「ロリータむかつく」「全然エロくない」「おっさんの行動意味不明」「トタバタコメディが笑えない」などなどネット上の評判はさんざん。時代性を考えれば仕方ない部分があるにせよ、それら批判に対して有効な反論ができないのもまた事実。だってタイトルが『ロリータ』ですからね。それはもう萌えまくらせてくれるって思いますよね普通。

 まあ、ロリコンの定義自体、この頃と現在じゃかけ離れているので、まずそこから話を始めないとどうしょうもない。で、その定義とは小説によると「偏愛とも言える屈折した恋愛感情で、その対象がローティーンに固執した形。幼少期に於ける思い入れの激しい恋愛とその喪失感が主な原因」として描かれています。簡単に言えば「少女偏愛」ですね。屈折してますがまあ広義には恋愛と言えるものです。ところが今では「幼児的従順さと稚拙な精神性を美化し、自分だけに性的興奮を向けるよう少女に要望するエゴイスティックな性向」に変化してしまってます。つまり「自分は何もしないけど、少女は自分だけに従順で純粋でいなきゃ駄目、性欲は自分だけに向いてなきゃ許さないよ」って事です。こうなるともう恋愛などというものではなく、単なる自己愛と現実逃避ですね。もちろんそんなロリコンではない作家が『ロリータ』という小説を書き、ロリコンでない監督が映画化しても、それはどうしたって「ロリコン映画」にはなりようがないって事です。

 ハンバートは少女偏愛について確固たる定義と信念を持ってます。そのハンバートが見つけた最高の少女、それがロリータです。でもなかなか思う通りには事は進みません。だけどハンバートは嫌いになるどころか、困らせられれば困らせられるほどロリータにのめり込んでいきます。でもある日突然ロリータはいなくなります。この時のハンバートの喪失感はいかほどだったでしょう。次にロリータがハンバートの前に姿を現したのはもう少女でも女でもなく結婚して単なる妊婦になってました。つまり「産む肉塊」です。でもその時始めてハンバートは少女偏愛などという偏狭なものではなく、一人の女性として本当にロリータを愛していた事に気が付いたのです。

 まっ、女性からすれば「勝手に天使だ妖精だって妄想膨らませておいて、いまさら愛してます、結婚してくださいって馬鹿じゃないの!?」って事なんですが、嫁さん三回も取り替えちゃったキューブリック監督、ひょっとして軽い妄想入った恋愛の男性心理なら実体験としてあったのかも。嫁さん(三番目の妻、クリスティアーヌ)にはベタ惚れだったそうだし。だとしたら「男ってのは哀れな生き物だよねぇ」って話しか作りようがないでしょう。だから『ロリータ』はそんな話になっちゃうんです。「変態紳士が真摯な愛に目覚めた時には時既に遅く、あとは自滅あるのみ」という皮肉に満ちた話。その偏愛の対象が少女だろうが、デブ専であろうが、マゾであろうが、ホモだろうが、フェチだろうが関係ないんです。キューブリックは「男の偏愛性向」を皮肉りたかっただけですから。そのためのあの薄ら寒いコメディ演出なんです。でもそれが成功しているとは思えないんで、以下のコメントになるんでしょう。

 「ハンバートとロリータの間のエロティックな関係にまったく重点を置くことが(検閲などで)できなかった。彼がロリータに惹かれた本質のところが描けなかったために、映画ファンたちは彼が最初からロリータを(少女偏愛ではなく本当に)愛していたと思ってしまう」

 「小説の方では、ロリータがニンフェットでなくなり、妊娠した人妻になった最後の場面でようやく分かる形になっている。その発見が、つまり彼女への愛に気づくことが、このストーリーのもっとも心打つところだ」

※カッコ内筆者補足

(『イメージフォーラム増刊 キューブリック』より)


結論:『ロリータ』はロリコンがテーマではなく、男の偏愛性向の愚かさを皮肉るお話。少女偏愛はそれを描くための題材(ネタ)に過ぎない。しかも描かれる少女偏愛も、現在のロリコンとは定義が大きく異なる。

 上記の結論を踏まえて『ロリータ』を観ると・・・そこそこ楽しめるんです。男だったら誰もが一度は経験する好き過ぎた故の妄想と、それが勘違いと気付いた時の滑稽さ。それが極端な形で上手く戯画化されているな、と。でも他人には非常におすすめし辛いし、説明も難しいですが。

 
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 突然この曲がTVから流れ出した時は「ついにこの曲まで・・・」と心底びっくりしました。キューブリックファンにはおなじみ『バリー…』で使用されたヘンデルのサラバンドですね。だいぶアレンジされちゃってますが。商品にヨーロッパ的な雰囲気に重厚感、高級感を感じさせたいとすればチョイスは間違ってないですが、キューブリックを知らずにこの曲を知っている可能性は余程のクラシックファンじゃないと難しいような。TV・映像・広告関係者にキューブリックファンが多いのは周知の事実ですが、何故この曲を選んだのか・・・当時の担当者に聞いてみたい気がします。
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 『バリー…』でメインテーマとして扱われた『サラバンド』、正式には『ハープシコード組曲 第2番 HWV437 第4曲 サラバンド』ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル作曲です。日産フーガのCMで使われたり、邦画『劒岳 点の記』に使われたり、あの宮崎アニメ『風の谷のナウシカ』でも「ナウシカ・レクイエム」として使われ、いやパクリ、いやいや多大なる影響を与えています。一度聞いたら耳を離れない印象的なメロディ。キューブリックはこういう既存曲を探すのが本当に上手いですね。
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時計じかけのオレンジ (ハヤカワ文庫 NV 142)

※最終章の第21章が掲載されていない旧版


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※最終章が掲載された新版

 キューブリックの『時計…』があれだけの傑作になったのは、もちろんキューブリックのセンスによるところも大きいのだが、この原作小説が傑作であった事に拠るのは疑うべくもない。

 原作のアレックスの残忍さは映画以上で、暴行、強盗、強姦、殺人と悪行の限りを尽くしている。その上裏切りや寝返り、ゴマすりが上手ときている。それに映画以上に頻出する「ナッドサット言葉」は、大人や社会とのコミュニケートを完全に拒否した今の若者の姿そのものだ。また、アレックスは恐ろしく頭が良く、温和な両親と暖かな家庭がある点も見逃せない。不遇な家庭環境が非行を呼び込む、という旧来の図式が完全に崩れ去るのを、60年代に予見していたのには驚くばかりだ。

 キューブリックは『ナポレオン』の企画が中止された後、テリー・サザーンにもらったままになっていたこの小説を読み、たちまち魅了されたという。また「小説の答えはすべて小説の中にある。それを見いだせないとするならば、それは単なる怠慢だ」とまで言い切っている。そんなキューブリックに対し、この作品を「暴力賛美」とか「非行を助長する」と非難し、上映中止まで追い込んだ一部のマスコミや団体は、キューブリックにはさぞかし「怠慢」に思えてならなかっただろう。

 この小説に魅せられたのはキューブリックだけではなく、かのローリング・ストーンズもミック・ジャガー主演で映画化を検討していたらしい。だが肝心のバージェスはこの小説を忌み嫌っていたようで「クズ本」とか「ムカムカする」とか言いたい放題。作中の小説家と同じように妻をレイブされた経験があり、自身も脳腫瘍と診断され、酒を浴びるように飲みながら書いた本を好きになれない気持ちも分からないでもないが、映画の公開時にはプロモーションで各地を飛び回っていた事実を考えると、正直疑問が残る。ちょっと穿った見方かも知れないが、この映画に対するあまりにも激しい批判と脅迫に恐れをなし、否定的な立場をとるようになったのではないだろうか。(もしそうだとしてもバージェスを批判する気はさらさら無いが)

 尚、日本版の旧版では最後の一章が掲載されていないが、それは当時のアメリカ版に倣ったようだ。この『完全版』でやっと全訳となったが、これは当時のバージェスの意思を反映したものであるので、この件については全く異論はない(本心か否かはまた別の話)。キューブリックは当時のアメリカ版をベースに映画化したので、しばらくこの最終章に気づかなかったそうだ。ただその最終章を知っても「それまでのスタイルと合わないし、説得力もない」と評したキューブリック、どちらにせよ映画では採用しなかったに違いない。

追記:最終章に関する考察はこちらこちらにまとめています。またこちらでは小説版と映画版を比較し、検証しています。参考までにご覧ください。
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