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フルメタル・ジャケット (角川文庫)(amazon)


 作者のハスフォードは、この小説の主人公と同様に、ベトナム戦争に海兵隊の報道記者として従軍している。その体験をフルに活かして書かれた処女作が本作なのだが、とにかく、全編を貫くクールでドライな感覚に、まず驚かされる。登場人物の「個性」や「人格」を全く描写せず、まるで戦争を他人事かのように扱う淡々とした描き方は独特で、戦場のあまりにも醜悪な現実に、人間としての感覚が完全にマヒしてしまっているその姿は、実体験に基づかないと、とても描ききれるものではないだろう。

 除隊する日を心待ちにしながら、目の前にある戦争という狂気の沙汰を、あたりまえの事として受け入れている海兵隊員達…。反戦・平和を標榜するでもなく、戦争や軍隊の不条理さを糾弾するでもなく、ただ、日常的にあっけなく殺し合いをする(たとえそれが味方同士であったとしても、戦略的に大きな意味を持たない作戦でも)という衝撃的な内容は、キューブリックが飛びつくのも頷ける、質の高い作品だ。
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ロリータ (新潮文庫)(amazon)

※大久保 康雄氏の旧訳版


ロリータ (新潮文庫)(amazon)

※若島 正氏による新訳版

 まず、断っておかなければならないのは、この小説が出版された当時(1955年)、「少女愛」という嗜好は全く認知されておらず、更に作者のナボコフや映画化したキューブリックでさえ、それがどういうものなのかはっきりと認識していなかった、という事だ。

 この小説がセンセーショナルな話題を呼び、少女を愛する嗜好の持ち主を「ロリータ・コンプレックス(ロリコン)」と呼ぶようになるのだが、時代を経るにつれて、その意味するところは微妙に変化し、現在では「成人した女性と正常な恋愛関係を持てない者などが、支配欲や性欲の捌け口として、自分に隷属する対象を弱者である幼い少女に求め、それを偏愛する」という傾向に陥ってきている。しかし当時、こんな現実が未来に待ち受けていようなどと、ナボコフもキューブリックも想像だにしていなかったに違いない。

 もちろんロリコンではなかったナボコフは、この小説を執筆するに当たり、自分の趣味である蝶の収集を、少女の偏愛として置き換えることによって物語を創作している。街から街へ、安モーテルに泊まりながら当てもなく愛するロリータと共に車で旅するハンバートは、蝶の採集でアメリカ中を車で旅した作者自身の姿だ。そしてロリータは、その中でもとびきり美しい(もしくは貴重な)蝶であったに違いない。

 それにロリータも決して従順で大人しい、薄幸の美少女などではなく、現在なら渋谷の繁華街でたむろするような、すれっからしの性悪な少女として描かれていて、決してハンバートの意のままになることはない(人間の意向を無視し、気ままに野山を飛び回る蝶のように)。知性も教養も社会的地位もあり、時折フランス語を交えながら文学的に語るハンバートが、他人には理解不能な「ニンフェット」の定義をくどくど説明したり、単なる変態的妄想を雄弁に力説したり、その割には簡単な罠に引っ掛かって地団駄を踏み続ける姿は、なんとも可笑しく、馬鹿馬鹿しく、そして哀れだ。

 そんなロリータをやっとのことで捕まえたハンバートだが、すでに美少女の面影はなく、だらしない妊婦になっていて、 あれだけ忌み嫌った母親のシャーロットにそっくりなのにも気付いてしまう。だがハンバートは失望するどころか、自分はロリータを「一人の女性」として本当に愛していたことに初めて気が付くのだ。この皮肉なまでに遅きに失した愛の自覚…。キューブリックはこの点の脚色が甘かった事を後に自ら認め、「もし撮り直す事ができるなら、ロリータとハンバートのエロティックな関係を強調するだろう」と語っている。

 文学的で高尚な文体で、妄想の激しい馬鹿で哀れな中年男の生涯を綴るという、この『ロリータ』という皮肉に満ちた物語。タイトルだけで嫌悪せず、是非の一読をお薦めしたい。

※注:上記の書評は大久保 康雄氏の旧訳版のものです。
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シャイニング 特別版 [DVD](amazon)


 「豪華な高級車だがエンジンはついていない」とか、「頭でっかちで、感受性に乏しい」など、キューブリック版に不満たらたらだったキングが、映画から17年後にTVシリーズとして 自ら製作・脚本を手がけ、リメイクした正真正銘の『シャイニング』。

 さすがに原作者が製作に深く関わっているために、ほぼ原作に忠実に映像化され、さぞかしキングも溜飲を下げたことだろう。また、先行していた映画版を微妙に避けるため、ホラーとして恐怖感を煽るより、悪霊VS家族愛という視点を強調して脚色した点も功を奏している。キング自身認めているが、映画版の「映像による閉塞的な恐怖感」は素晴らしく、それを超えることは容易でない。そのせいか、映画版とは打って変わり、魅力的な登場人物(幽霊も含む)により、ホラーというより、人間味の溢れる、心温まる感動物語として堪能することができる。

 これはこれでありだと思うし、映画版と別物として考えれば、全く違和感なく楽しむことができる。とはいえ、キューブリックファンの性として、どうしても映画版との描写の違いに目が行ってしまう。映画版とTV版で共通する描写として、217号室の女性の霊や、バーテンダーとジャックの絡み、仮面舞踏会などのシークエンスなどが挙げられるが、これはどう見ても映画版に軍配が上がる。それに、キューブリックが拒否した様々な恐怖の描写の映像化(動く生け垣、消火器のホース、スズメバチの巣、ポスターガイスト現象など)に至っては、陳腐以外の何物でもない。

 小説家という職業柄なのか、映像に関しては「自分の頭の中に描いている画」に固執しすぎるのだろう。実は、このTV版『シャイニング』を観ながら思い出していたのは映画版『シャイニング』ではなく、なんと『2010年』だった。丁度『2001年…』と『2010年』の肌合いが、そのままこの映画版とTV版にスライドしたとように思えてならなかったからだ。(映画『2010年』は、原作者自身の手による映画『2001年…』のリメイク、と言えなくもない)自らのビジョンにこだわる小説家と、そのビジョンをことごとく破壊し、再構築して傑作を創り上げてしまうキューブリック。キューブリックが小説家に嫌われる理由も良く分かろうというものだ。

 尚、ラストは原作とも映画版とも異なっている。これは映画版ラストが不満だったキングが、キューブリックに対して「どうせ変えるなら、この位のことはして欲しかった」という返礼のようにも受けとれる。どれが好みかは意見が分かれるだろうが、映画版の後味の悪さが気に入っている人にとっては、このTV版は物足りないかもしれない。だが、原作ファンにとっては少なくとも映画版より納得がいくだろう。
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バリーリンドン [DVD](amazon)


 公開当時の批評によると「退屈だ」、「人間描写に乏しい」など評判が悪く、そのせいか興業成績もよくなかった作品だが、今日見返してみると、キューブリック作品の中では格段に見やすく、ドラマティックで重厚なストーリーになっている。長編の小説をまとめたため、全体にかけ足でエピソードをたどっているのが変えって心地よいテンポを産んでいて、3時間の長さを全く感じさせない。内容も決して難解ではなく、キューブリックもアメリカから渡ってきてた際に直面しただろう、イギリスの階級社会に対する皮肉もかなりあからさまだ。

 キューブリックは本作の前にナポレオンの生涯を映画化しようとしたが、様々な事情により中止に追い込まれている。『ナポレオン』で目指した「絵画のように振り付けられた戦争」や「18世紀の人々の日常を切り取る」という目的は、スケールダウンしながらも、ある程度本作品で達成されたように思う。だが、それだけでなく、美しい衣装や調度品に囲まれながら暮らす醜悪な人間達の物語は、充分キューブリック的で、決して「スモールサイズ・ナポレオン」ではない。同じ歴史大作物として、『スパルタカス』と比較してみると面白いかも知れない。いかに『スパルタカス』が、キューブリックの意に沿わないものであったかが、良く分かる気がするからだ。

 キューブリックは映像に自然な美しさを得るため、NASAが人工衛星用に開発したF値0.7というレンズをミッチェル・カメラにくっつけて、蝋燭の光だけで室内を撮影したのを始め、一切の人工光を排除している(18世紀に人工光は存在しない)。庭園のシーンや池遊びのシーンなどは、まるで絵画を見ているかのような錯覚に陥るほど、緻密に計算され、洗練された映像に圧倒される。現在のDVDと大画面TVの時代はこの作品には追い風となった。是非この圧倒的な映像美を思う存分堪能して頂きたい。

 決闘によって幕を開け、決闘によって幕を閉じるバリーの物語は、結局400ギニーの年金と引き換えに片足を失っただけの、とても空虚なものだった…。キューブリックはこの物語を、所謂「悪党冒険譚」としてバリーを一元的な悪党に描くことはしないで、「身分や階級を問わず、全ての人間は適当に善人で、適当に悪人である」という醒めた視点で、淡々と物語を綴っていくという方法を採用した。それが劇的な興奮をを求める評論家や観客達を失望させる結果となったが、そのアプローチは決して間違っていない思う。時代は違えど、人間のやる事に過去も現在もさしたる違いありはしないのだ。 

 武士の日常を淡々と描写する映画を構想していた黒澤明は、本作品を観て絶賛の手紙をキューブリックに送ったという。刺激的な演出やご都合主義なストーリーを優先するあまり、時代考証をおざなりにする時代劇ばかりまかり通る映画界において、本作は静かに孤高の輝きを放ち続けている。
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 ハイスクール時代からカメラに親しみ、その写真を写真報道誌『ルック』に採用されるほどの実力を持っていたキューブリックは、その後その『ルック』に入社、報道カメラマンとして全米各地や時には海外まで出かけ、やがてドキュメンタリー映画を手掛ける事になる。

 その「ドキュメンタリー作家」としての感性は、映画監督になってからも如何なく発揮され、作品内の何処にも、また誰にも自己投影せず、答えを描ききったり、詳しい説明も避け、明解な意図も、意志も提示しない…といったキューブリック独特の、一種超然とした視点から語られる物語は、「ドキュメンタリー作家」ならではのもの、と言えるのではないだろうか。

 つまりキューブリックは結局のところ、根っからのカメラマンであり、ジャーナリストなのだ。狂った世界を、歪んだテクノロジーを、人間の醜悪さを暴きだすために、自らが創りだした「世界(フィクション)」を、自らのカメラで「報道(ドキュメント)」する。それが例え、一般的な観客を置き去りにしてしまうことになったとしても、劇的な興奮が欠落していても、だ。

 キューブリックが描き出し、切り取った映像に意味や意図を見出すのは、観客である我々の仕事なのだ。ただ漫然とスクリーンを眺めているだけでは、その真意は全く伝わらない。キューブリックと真剣に対峙するつもりのない観客に、キューブリック作品を批評する資格などないのだ。
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