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EYES WIDE OPEN―スタンリー・キューブリックと「アイズワイドシャット」(amazon)


 『アイズ ワイド シャット』の脚本を担当した小説家フレデリック・ラファエルが、『アイズ ワイド シャット』の製作に関わる経緯と、製作の裏側を克明に綴ったドキュメント。

 いわゆる暴露本としてクリスティアーヌは批判しているが、個人的にはキューブリックの実像がよくわかる書として好意的にこれを読んだ。この本によると、いかにキューブリックがストーリーメーカーとしての小説家を高く評価しながらも、小説家の頭の中にあるシーンの画を排除したがってたかよく分かる。つまりキューブリックは「すぐれたストーリーは欲しい」が、「小説家が頭の中で描いた画は不要」なのだ。この本によるとキューブリックは、ラファエルにさんざんストーリーをふくらまさせた揚げ句、その骨子だけ残して全部捨て去ってしまうプロセスが詳しく語られている。

 ストーリーやコンセプトを言葉に頼らざるを得ない小説家と、言葉はもちろん、画や音楽、編集や色彩でさえ駆使できる映画監督とではそのアプローチの方法が異なって当然。ただ、そんな使い捨てのように扱われる脚本の仕事が小説家にとって満足のゆくものであるはずが無く、不満たらたらなのも理解できる。

 この本でのラファエルの恨み節と、自分寄りの描写の部分を除けばけっこう貴重な証言だと思うのだが。
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シャイニング [Blu-ray](amazon)


 この作品に、通常の血なまぐさいスプラッター・ムービーや、こけ脅しのホラーを期待してみると、完全に肩透かしを食らってしまう。そういう解釈ではまったく怖くない作品だ。結局人も一人しか殺されない。だが、キューブリックがそんな見え透いた方法で観客を恐怖に陥れようとしていないのは、注意深く観ていればすぐに分かるはず。とにかくこの映画は異常に「寒い」のだ。観る者の毛細血管まで凍らせてしまうかのような「寒さ」と、のしかかる「閉塞感」が全編を通して貫かれている。

 キューブリックは、一般的なホラー映画が、観客を怖がらせる方法論(ゾンビメイクの幽霊、誰もいないのに動く家具等)を極力避け、ホテルそのものに「霊気」を感じさせるように、セットの大きさや配置・色、アングルやライティング、シンメトリーな構成など、照明や撮影方法に細心の注意を払っている。特に印象的に使用されているのはステディカム(手ぶれがなく手持ち撮影できる装置。廊下や迷路のシーンなどで使用)で、霊魂が音もなく浮遊するような感覚の映像は、見事しかいいようがない。また、双子の少女、バーテンダーのロイド、前管理人のグレディの抑制された演技と強烈な存在感は、一般的な恐怖映画と一線を画している部分だ。これほとまで恐ろしく、強烈な印象を残す幽霊の描写を他に知らない。

 そしてなによりも、ジャック・ニコルスンが徐々に狂気に駆られてしまう様は圧巻だ。一部で言われているように、確かにオーバー・アクト気味かもしれないが、あのキレ方はやはり迫力がある。閉塞感溢れるセット、明るい照明、ぶれないカメラ、抑制された演技など「静」の要素と、ニコルソン激しい演技による「動」の要素の対比によってより一層狂気が強調されおり、物語全般を覆う「精神的な恐怖」を十二分に体験すできるよう緻密に計算されいる。

 ただ、少し陳腐なシーンもちらほら。237号室の腐乱死体や、宴会場でのガイコツのパーティー、居室で行為に及ぶ着ぐるみとホモなど、否定していた筈のお化け屋敷的な演出で、恐怖感を煽る方法論も採用されている。興行的に絶対失敗できなかったキューブリックの迷いがそうさせたのだろう、後になって不要と判断し、全米での初公開以降、上映中にもかかわらずこれらのいくつかのシーンをカットしている。(※【全米版】【コンチネンタル版】の違いはこちらを参照)

 ホラーファン、キングファンの間でも賛否が別れるこの作品、「キューブリック映像の何たるか」を観るには、絶好のマテリアルであることは間違いないだろう。
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フルメタル・ジャケット [Blu-ray](amazon)


 「キューブリックは人間ドラマを描けない」とは、よく目にする批評だが、それは彼の初期作品を観ればすぐに間違いだと気づくだろう。『突撃』では戦争の矛盾と軍隊の腐敗を、重厚な演技と圧倒的な演出力で見事に描ききっている。だが本作では、前半の訓練所のパートから、後半の戦場のパートまで、登場人物の誰一人として感情移入することなく、淡々、粛々と物語は進行してゆく。それはまるで、戦場ドキュメンタリーを観ているかのようだ。

 だが本作は「戦場ドキュメンタリー」ではない。あえて言うなら、「戦場ドキュメンタリーように演出された戦争映画を批判した映画」なのだ。物語の途中、TVのクルーが兵士達をあくまで「戦場演出の一部」として扱ったり、そのどこかしらベトナムらしくないベトナムの風景(単にキューブリックのロケ嫌いによるものだが)や、ジョーカーの墓を前に父親がジョーカーの日記を読み上げる、といった情緒的なエンディングの排除など、徹頭徹尾、空々しさが全編を覆っている。それは「想像していた通りの戦争っぽい戦争」とインタビューに応えるカウボーイの台詞が象徴するように、「いくらリアルな描写でも、戦争映画なんて所詮絵空事に過ぎない」ということを実証してみせたかったのではないだろうか。また広報誌「スターズ・アンド・ストライプ」の上官は露骨に記事の改竄・捏造をジョーカーに指示する。結局我々一般大衆にとって戦争とは、紙とペンで書かれたものか、TVや映画の中にしか存在しないものなのだ、と言わんばかりだ。

 ベトナム戦争は、TV時代に行われた初めての戦争だった。そこでは、戦場のニュースフィルムが「真実」として伝えられ、それを政府はプロパガンダとして、メディアは反戦運動に利用した。ペンと紙の時代より、はるかにリアリティをもって伝えられる「戦争の真実」…。だがそんなものはどこにも存在していなかった。パイルやジョーカーやカウボーイ、そしてベトコン少女は、権力側の思惑とは関係なく、ただ戦場で浪費されていくだけの一個の銃弾でしかない。その残酷なまでに冷徹な認識だけが「戦場に存在する唯一の現実」だったのだ。

 『フルメタル・ジャケット=完全被甲弾』。敵を粉砕すべく作りだされた、単なる大量消費財。単なる大量消費財に人格や意志は存在しない。キューブリックは物語の前半で「フルメタル・ジャケット」の製造過程を、後半ではその浪費のされっぷりだけを描き、それに何がしかの意図や意義を加えるのを慎重に避けている。報道カメラマン出身という特異な経歴を持つキューブリックは、メディアの欺瞞に気付いていた。だからこそ、「演出」という力を行使し、「戦争を意味付ける」事を、この作品でき然と拒否しているのだ。

 「戦争とは銃弾で人間を肉塊に変える事。それ以外は全て欺瞞だ」。自身が一番数多く取り上げた戦争映画というジャンルの到達点として、キューブリックはシンプルに、冷徹に、力強くそう言い放っている。
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kd
Kirk Douglas (IMDb)

カーク・ダグラス(MOVIE-FAN)

 キューブリック作品では常に主役で、『突撃』では、部下の兵士に慕われるダックス大佐を、『スパルタカス』では、奴隷で英雄のスパルタカスをそれぞれ演じた。『突撃』は、カークが脚本を気に入り、出演を承諾したために撮れた作品なので、キューブリックにとっては良い出会いだったといえる。だが、『スパルタカス』では、その良好だった関係はこじれにこじれ、カークは例の名言「才能あるクソッタレ」を残す事になる。その後も主役級で映画に出演し続け、息子のマイケル・ダグラスも俳優として成功している。

 主な出演作は『バイキング』(1957)、『OK牧場の決斗』(1957)、『パリは燃えているか』(1966)、『大脱獄』(1970)、『フューリー』(1978)、『ファイナル・カウントダウン』(1980)など多数。1916年12月6日アメリカ・ニューヨーク州出身。
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アイズ ワイド シャット [Blu-ray]


 キューブリックが映画を創り初めて約半世紀。その間、キューブリックは常に戦い続けてきた。ある時は映画会社、またある時はマスコミ、それに時には無理解なスタッフや俳優達。だが、彼は観客だけは信じていた。「必ずメッセージは伝わるんだ」と…。

 本作はトム・クルーズとニコール・キッドマンという、実生活でも夫婦(公開当時、現在は離婚)という俳優がキャスティングされている。またエロティックでミステリアスという前評判もあり、観客は様々な妄想を膨らませ映画館に出向いた。だが、そこで見せられたのは、間抜けな金持ちの医者が、間抜けな罠に引っ掛かり、火遊びどころか振りかかってきた火の粉をおたおたと振り払い、妻の元にほうほうの体で逃げ帰るというなんとも冴えないお話だった。

 観客は失望した。自分たちが「見たかった」ものを「見せてもらえなかった」からだ。しかし、そういう彼らは一体何を期待していたのだろうか?クルーズとキッドマンの濃厚なラブシーン?クルーズが性豪よろしく数々と女を抱きまくる姿?清楚なキッドマンの淫乱な実態?

 キューブリックはそんな観客の低俗な妄想に満ちた安易な期待を、この作品の中で見事な形で戯画化し、提示してみせた。すなわち、「ビルが妄想にとりつかれうろたえる滑稽な姿を描く」という形で。つまり、このビル・ハーフォードというキャラクターこそ、我々大衆そのものだ、と批判しているのだ。

 妄想に溺れ、妄想で行動し、妄想に暮らし、妄想に悩み、妄想で時間を浪費する。そんな我々大衆に対し、「いいかげんに目を醒ませ!」と痛烈にメッセージを送っているのだ。また、二時間の妄想を垂れ流し、大衆から金を巻き上げる現在のハリウッドに対しても「映画は現実逃避の慰みものではない!」と批判の矛先を向ける。キューブリックにとって、ハリウッドの映画産業システムは最期の最期まで敵だったのだ。

 アリスはすなわちキューブリックだ。股間と妄想を膨らませた男の誘いを一蹴し、意味深な夢の話で夫を試す。それに劇中常にビルに向けられた冷ややかな視線…。そして極め付けは何と言ってもラストシーンで、ビル(すなわち我々大衆)に突きつけた「ファック」という捨て台詞。(これがダブルミーニングと気付かない論客のなんと多いこと!)鏡の中から冷ややかにアリスがこちらを見るポスターの図案は、決して偶然ではない。そこにはキューブリックの慎重な意図が隠されているのだ。

 この作品は、我々を映す「鏡」だった。その鏡に自らの姿が映し出されているとも知らず、低俗な期待と失望を露にする無自覚な大衆…。『アイズ ワイド シャット』。目は開いていても、(心の)目は閉じている。このタイトルを選んだキューブリックに、大衆に対する深い失意と決別を感じざるをえない。

 「生きているだけで幸運だ」。ビルが手にしたニューヨーク・ポスト誌にはそう書かれていた。まだまだ生き続けたかったキューブリックが他界した今、死んだように生き続ける我々は、一体何をすべきなのか?本作を表層でしか理解せず、的外れな論調を書き立てたマスコミは勿論、「意味不明」「期待外れ」「気取った映像の三流映画」と思考停止に陥った多くの観客に、本作は猛省を迫っている。
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