このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote


 カナダ国立映画監督委員会が1960年に制作した、アニメーション・ドキュメンタリー『ユニバース(Universe)』のフルバージョンがYouTubeにありましたのでご紹介。

 キューブリックはこのフィルムを見て、制作したコリン・ロウ、シドニー・ゴールドスミス、ワリー・ジェントルマンを調べました。結果コリン・ロウは『2001年…』に参加し続けましたが

 フリューイン: 「スタンリーはこの映画を重視しませんでしたが特撮に可能性を感じ、担当したワリー・ジェントルマンと話しをした後『2001年…』のために彼を雇いました。しかしワリーは、スタンリーが干渉してくるので、あまり長く参加しませんでした」

(引用先:【関連記事】スタンリー・キューブリックが好んだ映画のマスター・リスト(2016年7月25日改訂版)


という経緯だったそうです。

universe-590x267のコピー
『2001年…』で地球の模型にエアブラシをかけるコリン・ロウ。

 ナレーションが『2001年…』でもナレーションを担当する予定(最終的にHALの声を担当)だった、ダグラス・レインだというのは、この『ユニバース』の影響と考えられますが、この頃のキューブリックは『2001年…』の制作を睨んでSF映画を見まくっていて、この『ユニバース』もそんなフィルムのひとつだった、と言えるでしょう。
【お願い】キュレーションサイトやまとめサイト、個人ブログ等で当ブログの情報を流用し、記事化する場合は「KUBRICK.Blog.jp」の明記と該当記事へのリンク張ることを条件に、許可も報告も不要となっております。何卒ご協力を宜しくお願いいたします。







    このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote
30秒のTVスポットバージョン。

 HYDE(L'Arc-en-Ciel、VAMPS)の12年ぶりソロシングル『WHO'S GONNA SAVE US』が『シャイニング』のオマージュということなので観てみたのですが、確かに『シャイニング』要素も多めですが『ブレード・ランナー』要素も入っているように見えますね。

 オマージュやパロディというのは、その作品が広く知られているというのが条件ですが、キューブリック作品の場合『2001年宇宙の旅』『時計じかけのオレンジ』『シャイニング』が多いようです。早いもので来年でキューブリック逝去20年になり、どうやらこの3作品は「映画ファンの基礎教養」になりつつあるようで、「映画を語るならキューブリックくらい観ておいた方がいい」的な風潮も昨今感じられるようになってきました。どういう形であれ、キューブリック作品が幅広く知られていくのはファンとしては嬉しい限りです。

 以下は『シャイニング』初心者向け「元ネタ」動画。この3シーンがよくオマージュやパロディにされます。





【お願い】キュレーションサイトやまとめサイト、個人ブログ等で当ブログの情報を流用し、記事化する場合は「KUBRICK.Blog.jp」の明記と該当記事へのリンク張ることを条件に、許可も報告も不要となっております。何卒ご協力を宜しくお願いいたします。

    このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote
meed

DG3C6MnVwAA2Aw0
「ミード・ウォール(Mead Wall)」は湿地帯「クリフ・プールズ(Cliffe Pools)」を取り囲むように伸びた長い道。この道のどの場所でロケされたかまでは不明。(Google Map)

 『フルメタル・ジャケット』でフバイの司令部に向かう道路のシーンが撮影された、ロンドン東部のテムズ川河口付近にある湿地帯の道。ヤシの木が見えるが、それはスペインから輸入されたものを並べたもの。出演しているベトナム人たちは、当時ロンドンにはベトナム人居住区があり、そこでエキストラを雇ったそうだ。
【お願い】キュレーションサイトやまとめサイト、個人ブログ等で当ブログの情報を流用し、記事化する場合は「KUBRICK.Blog.jp」の明記と該当記事へのリンク張ることを条件に、許可も報告も不要となっております。何卒ご協力を宜しくお願いいたします。

    このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote


『Family Love: A Glimpse of the Real Stanley Kubrick(家族愛:スタンリー・キューブリックの真実を垣間見る)』という動画がVimeoにありましたのでご紹介。

 管理人が知る限り、ほとんどの写真は見たことがありません。特に孫と戯れる邸宅内の写真はどこから手に入れたのでしょう? 孫のおもちゃ(車やマジックハンド)を興味深そうに触るキューブリックの姿を見ることができるなんて思いもしませんでした。これを見る限り孫にとってキューブリックは「いつも同じ格好をしているおじいちゃん」であったことがよくわかります(笑。

 撮影時期は、最初の写真が『時計…』の頃で、『バリー…』『シャイニング』と時系列に並んでいて、最後の集合写真は『アイズ…』の頃でしょう。この「時系列」の判断ができるのは相当のマニアか、関係者以外にはありえない気がします。投稿したアンドリューなる人物の詳細はわかりませんが、長女のカタリーナの写真が多いことから、カタリーナの三人の息子の中の一人、もしくはその関係者の可能性があります。

 それはともかくも、こんな好好爺としたキューブリックを見るとなんだかホッとしますね。
【お願い】キュレーションサイトやまとめサイト、個人ブログ等で当ブログの情報を流用し、記事化する場合は「KUBRICK.Blog.jp」の明記と該当記事へのリンク張ることを条件に、許可も報告も不要となっております。何卒ご協力を宜しくお願いいたします。

    このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote
w&l
ウォルターとルース。父娘はとてもよく似ている。



 1888年7月1日にウィーンで生まれたウォルター・S・ソボトカは、1907年にフランツ=ジョセフ中等学校を卒業。その後ウィーン工科大学に入学し、1912年にエンジニア・アーキテクトの称号で学位を取得。第一次世界大戦中から戦後の1919年から1923年にかけて、オーストリア軍の役員を務めながらウィーンにある会社カール・コルンで働き、ウィーンとチェコスロバキアの家族のために家具や墓のモニュメントを製作しました。

 コルンを退職したソボトカは、1927年にドイツのシュツットガルトにドイツ工作連盟によって建てられたヴォイセンホーフ・ジードルンク(モダニズム建築の実験住宅群)において、建築家ピーター・ベーレンスの家のインテリアを設計し、手数料を受け取るようになりました。彼はまた、1932年に大規模住宅プロジェクト「ウィーンの都市とOsterreichischer Werkbund Siedlungのための2つの家」の住宅を設計しました。ソボトカはオーストリアのドイツ工作連盟に密接に関わり、2年間に渡って取締役会副会長を務めました。主に家具の展示会がソボトカの仕事の中心になり、1937年のパリ世界博覧会のオーストリアのパビリオンを設計しました。

 オーストリアの政治情勢がユダヤ人に対して厳しくなり、ソボトカは米国に移住を決意、1938年にニューヨークに上陸しました。1941年、彼はピッツバーグ大学のリテール研修局で教鞭を執り、5年後にテキスタイル・アプライド・アーツの助教授になりました。彼はまたカーネギー工科大学で、1941年から1948年までインテリア装飾の助教授として2年間建築を教えました。

 ソボトカの米国でのプロのキャリアは、ゲブルダー・トネネット(インテリアメーカー)とラッセル・ライト(食器メーカー)の住宅の内装と家具のデザインが中心でした。彼はまた、RKOのために多数の劇場のインテリアをデザインしました。彼の建築はモダニストとして分類することができますが、機能主義を完全には受け入れておらず、彼の装飾的なインテリアは、20世紀初頭のウィーン受けた教育の影響が明らかです。ソボトカは他のウィーンの建築家、特にヨーゼフ・フランクと生涯に渡って友好関係を維持しました。このコレクションにある未発表の2つの原稿はソボトカの設計アプローチを理解する上で重要です。プレハブ住宅と彼の理論的論文「デザインの原則(Principles of Design)」の中でソボトカは、複雑なデザインのプロセスを色や割合など、さまざまな要素に分解しました。ソボトカは1958年にピッツバーグ大学を退職し、テキスタイル・アンド・アプライド・アーツ(小売業)の名誉教授の称号を得ました。その後、1972年5月8日にニューヨークの自宅で死亡しました。

(引用元:コロンビア大学ライブラリー/ウォルター・ソボトカ




 キューブリックとルースは1952年に共通の知人デイビッド・ヴォーガンを通じて知り合います。結婚は1955年1月15日。その頃父親のウォルターはすでにピッツバーグ大学に単身赴任中で愛人を囲っていたそうです。ニューヨークに残された母親は、それを知りつつも忍耐の日々を過ごしていましたが、そんな母の姿に心を痛めていたのが娘のルースです。キューブリックはルースと結婚後、『現金…』の制作でハリウッドに移り住みましたが、多忙なキューブリックは家を空けがちでした。一人寂しく見知らぬ土地で夫の帰りを待つその姿が、自分の母と同じだと気づくにの時間はかからなかったでしょう。その後キューブリックは単身『突撃』の撮影でドイツへ向かいますが、ナチスドイツの迫害からニューヨークに逃れたルースは同行することはしませんでした。この時点でキューブリックとルースの不和は確定的なものになっていました。

 そのキューブリックはドイツでナチスドイツの関係者の娘、クリスティアーヌと恋に落ちます。ルースにとってそれは受け入れがたい事実で、結局二人は離婚してしまうのですが、キューブリックの当時のパートナーのジェームズ・B・ハリスはなんとかキューブリックにクリスティアーヌとの結婚を思い留まらせようとしました。しかしキューブリックはそれを受け入れずクリスティアーヌと結婚。その結果ハリスはクリスティアーヌにずいぶんと冷たく(厳しく)当たったようで、その確執は『キューブリック・リメンバード(キューブリックの素顔)』のクリスティアーヌのインタビューからも伺い知ることができます。

 1957年にキューブリックと離婚したルースはニューヨークに戻り、ニューヨーク・シティ・バレイ団の一員として1958年に来日しています。1961年に退団後は振付師や、演劇を学んでオフ・ブロードウェイで舞台に立つなどしていましたが、1967年に41歳で病死してしまいました。つまり父親より先に亡くなってしまっているのです。友人のデイビッド・ヴォーガンによると「ルースは生きる気力を失っていた」そうです。

 父親のウォルターや前夫のキューブリックがルースにいかほどの影響を与えたかは想像するしかありませんが、『非情の罠』でバレエダンサーとして出演し、『現金…』で美術監督を担当した頃をピークに、その後の運命は下降線をたどりました。若き日の美しいルースの動く姿はこちらで観ることができます。クリステュアーヌの影に隠れて、あまり語られることのないルースの存在ですが、「初期キューブリック」にとって重要な存在であったことは間違いないでしょう。
【お願い】キュレーションサイトやまとめサイト、個人ブログ等で当ブログの情報を流用し、記事化する場合は「KUBRICK.Blog.jp」の明記と該当記事へのリンク張ることを条件に、許可も報告も不要となっております。何卒ご協力を宜しくお願いいたします。

このページのトップヘ